皆さん、こんにちは。
かなり久しぶりのメルマガとなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
最後に書いてから1年以上経ちますが、また書いていこうと思いますので、しっかり読んで活かしてほしいと思います。
この間にいろんなことが世の中で起き、いろんな人が死んでいきましたが、この話からしましょう。
「みんな子どももいなくなって…どうしようかなと思って。なんでわたしがこんなことにならなきゃいけないんかなって。生と死との境界線って何なんですかね。この地震が悪いんですかね。地震がみんなを奪ったんですかね。」
これは、能登地震で妻と子ども4人を含む親族10人を亡くした寺本直之さんの言葉です。
自分以外の家族が同時に全員死ぬというのは、どれほどの苦しみでしょうか。
数ではないですが、稀に見る悲劇です。
ところで、なぜ地震は嫌なものなのでしょうか。
それは、死をはじめとした大きな苦しみにつながりやすいからです。
当たり前のことですが、原因をはっきりさせることは大切です。
地震そのものは、単なる自然現象に過ぎません。
そんな地震に対して「苦しくて悪いもの」等と決めているのは人間側であり、人間の心です。
地震だけではありません。
災害、病気、事件、事故、戦争etc、人間には嫌なものが無数にありますが、これらはすべて善でも悪でもありません。
こういった無数にある悪いものを遠ざけることばかりに躍起になっているのが人間です。
悪いものがやってきては不安を感じ、過ぎ去れば安心する。
この流れを死ぬまで繰り返し、最後は死につかまって終わるのです。
これでは死刑囚と大差ありません。
根本原因である心に目を向け、死そのものを何とかすることに目を向ける必要があります。
では、死を何とかするとはどういうことでしょうか。
詳しくは本を読んでほしいですが、ここではこんな疑問を提起することにしましょう。
「病は気から」という言葉もありますが、あることが「気の持ちよう」で良くも悪くもなる、という経験は誰にでもあるでしょう。
こういったことは、どこまで可能なのでしょうか。
小さな苦しみならまだしも、大きな苦しみとなると、気の持ちようなどではいかんともし難いでしょう。
また、肉体の苦痛も麻酔で解放されたりします。
手術も麻酔がなければ残酷な行為ですが、麻酔があればそうでもありません。
外部の力(麻酔)を借りて楽になったわけです。
このようなことはどこまで可能なのでしょうか。
死の解決法がわからないので無理もないことですが、先人たちの努力によって解決法が確立されているわけですから、それに目を向ける必要があります。
そして死の恐ろしさの本質は死後にあります。
死後が最悪なのですね。
いろんな人が死んでいきましたが、生き残っている私たちも、いつ死んでもおかしくありません。
「元日は卑怯ですよ…」
こう語るのは、同じく能登半島地震で妻子を亡くした角田貴仁さん。
死は、いつでもやってくるものです。
めでたい日だからといって待ってくれるような優しさは死にはありません。
一刻も早く急がねばなりません。
解決法など、詳しくは本を読んでください。