基本的に、「世間」は仏教と真逆といっていいほどの違いがある世界であり、捨てる覚悟が必要であることはこちらで詳しく説明しました。
では、仕事や恋愛など、無常の幸福はまったく価値がないかというとそうではなく、関わり方次第で手段として活かすこともできます。
たとえば、学ぶべき価値があります。無常の幸福で幸せになろうと思うから、つまり無常の幸福を無常の幸福と思っていないから、「裏切られた」と思ったり、恨んだり苦しんだりするのです。
無常の幸福だと頭だけでもわかっていれば、裏切られても「仏説の通りだった」と学ぶことができます。
無常の幸福は幸せになるためにあるのではなく、死の解決という目的を達成するためにあるのです。手段の価値しかないともいえますし、手段として大きな価値があるともいえます。
自己を知る手段
様々な活かし方がありますが、死の解決は自己を知ることで達成できるので、特に自己を知るための手段として活かせることが重要です。
・自己を知ることに価値を置く
世間一般では無常の幸福に価値が置かれ、基本的に無常の幸福を得れば成功であり進歩であり幸せであり善であると考え、無常の幸福を失えば失敗であり後退であり不幸であり悪であると考えます。
しかし、求道は自己を知ることに価値を置きます。ですので、たとえば努力した結果、無常の幸福が手に入らなかったとしても、自己を知ることができれば、成功であり進歩であり善であるのです。逆に、無常の幸福が手に入ったとしても、自己を知ることができなければ、失敗であり後退であり悪であるのです。
・幸福の有無とは別
無常の幸福が無いより有ったほうが求道に有利だとはいえません。たとえば、「貧乏より金持ちのほうが有利」ということは言えないのです。求道の基準は自己を知ることであり、無常の幸福の有無や多少といったものとは別個の世界です。ですので、無常の幸福の有無や多少に関係なく、その人の置かれた環境下で求道を進めることができます。
・利他をする手段
また、自己を知るためのキーファクターが利他ですので、利他をするための手段ともいえます。金も時間も肉体も人のために使うのです。
生活即求道
生活をするままが求道の一部とすることができます。これを「生活即求道」といいます。
・生活即聴聞
仕事をしたり、子育てをしたりと、普通の日常生活がそのまま聴聞のチャンスとなります。たとえば、失恋して爆発的な求道をした場合、失恋が聴聞となったということであり、一生懸命仕事をして自己が知らされたら、その仕事が聴聞になったということです。
・出家と在家
求道する方法には、出家と在家の大きく2種類あります。「家」は欲を意味しますが、これは家というのは欲の象徴のようなものだからです。文字通り、出家とは家を出て山奥で隠遁生活をしながら求道するような方法で、在家とは家にいながら求道する方法です。どちらも一長一短がありますが、現代は出家して修行できるような人はまずおらず、ほとんどの人は在家で求めます。
・常に自己を見つめる
常に自己を見つめながら行動します。仕事中でも恋愛中でも食事中でもトイレ中でも、幸せな時でも不幸な時でも、24時間365日、何をする時でも常に自己を見つめるのです。心の動きを見つめながら行動するというのは、最初は意識しないとできませんが、慣れると無意識に自己を見つめながら行動できるようになります。
・動機が違う
一見すると、求道者も世間の人と同じように仕事をしたり無常の幸福を求めているように見えますが、根本的な動機がまったく違います。心のベクトルがまったく違うのです。たとえば、世間の人は無常の幸福を手に入れるために仕事をしますが、求道者は自己を知るために仕事をします。
華厳経には、「求道者は、家においては、妻子とともに老いるけれども、しばらくも、さとりへの心を離れず、あらゆる智慧の境界を心に思い浮かべ、みずからにさとりに向かい、他の人々をも、そこへいざなう」と説かれています。
また、一見すると仕事を一生懸命したり世間事を重視しているかに見える求道者が死の解決をし、一見すると仏教用語をよく覚えたり仏教を重視しているかに見える求道者が死の解決をしていないということがあります。どうしてこんなことになるのか、心に目を向ければ仕組みがわかります。この場合、前者は仕事が聴聞になっていたのに対し、後者はただ仏教用語を聞いていただけで大して聴聞になっていなかったのです。
・非僧非俗
承元の法難の際、親鸞は僧籍を剥奪され僧侶でなくなりましたが、かといって俗人でもないため、自身を非僧非俗と位置づけました。現代の求道者も非僧非俗の精神が必要です。
・世間と仏教は密接不二
「世間」と「仏教」は切っても切り離せない関係にあります。
仏教では、絶対的真理(真諦という)と相対的真理(俗諦という)は密接不二の関係にあると説きます。不二とは、紙の裏表のように、二つではないが一つでもなく、互いが密接に関連しあっているということです。
「大乗仏教では,真諦を説くにも世俗の言語や思想をもってせねばならず,世俗諦によらねば真諦へは至れぬとして,真俗二諦は不二と説く」(百科事典マイペディア)
「仏教」は世間の影響を受けているのです。
逆に、「仏教」も世間に影響を及ぼしています。
「仏教に興味がない」という人も多いですが、日本は仏教国なので、意識するとしないとにかかわらず、生まれた時から仏教の影響を受けています。
そのことは、生活の中で多くの仏教用語が使われていることからもうかがえます。
正しい目的が必要
死の解決という正しい人生の目的を知って初めて、無常の幸福が手段として活きます。価値のないガラクタに手段としての価値が生まれるということであり、世間事から仏教に変わるといってもいいでしょう。
逆に、人生の目的を知らなければ、無常の幸福本来の価値を引き出すことができません。たとえるなら、どれほど高価な材料を手に入れても、料理人の腕が悪ければ台無しにしてしまうようなものです。せっかく努力して無常の幸福を手に入れたというのに、無常の幸福本来の価値を引き出せていないというのは実にもったいないことです。
百喩経にはこんな話があります。
ある愚かな金持ちの男が、友達の家に招待され驚きました。その家は、非常に見晴らしのいい立派な三階があったのです。それを見た男は「自分もこのような三階が欲しい」と思い、早速大工を呼びつけました。
しばらくして期待に胸を膨らませ様子を見に行くと、まだ基礎工事の段階でした。
「三階はまだできないのかね」
「はい、立派な三階を作るにはしっかりとした基礎工事が必要です」
それを聞いた男は、「私は一階や二階はいらないのだよ!立派な三階だけを早く作りたまえ!」と怒鳴ったといいます。
この話を聞けば、誰もが「バカな男だ」と笑いますが、人生の目的を知らずに無常の幸福を求める人間は、この愚かな男と同じです。
・手段が目的になってしまっている
「無常の幸福を手段に使っている」という人もいますが、目的も無常の幸福となっており、これでは意味がありません。
たとえば、「仕事でもっと成功するために金を使う」とか「結婚するために恋愛する」「子供を産むために結婚する」という具合です。
仏教者は死の解決をするために投資しますが、世間の人は無常の幸福を得るために投資します。
幸せになることが目的であるのに、無常の幸福を求めることそのものが目的になっているのです。
・不純な動機
釈迦の弟子に難陀という人がいました。彼は、出家したものの美しい妻のことが忘れられず、修行に身が入っていませんでした。
その心を見抜いた釈迦は、難陀に天上界の美しい天女たちを見せました。すると、難陀は妻のことを忘れ、今度は天上界に生まれたいと願うようになり、そのために猛烈な修行をするようになりました。
次に、釈迦は難陀に地獄を見せました。そこでは多くの罪人が八つ裂きにされ、悲鳴をあげていました。すると、地獄の鬼が難陀に向かって言いました。
「難陀という男が、天上界で遊びほうけた後に地獄に堕ちてくるから待っているところだ」
これを聞いた難陀は真っ青になり、その後、心を入れ替えて死の解決を求めたといいます。
難陀は「天女に会いたい」という欲のために修行していましたが、これは不純な動機です。この話は、求道は死の解決のためだけにあるということを教えているのです。
死の解決以外の動機は、すべて不純な動機です。金や名誉といったものだけでなく、「精神を鍛練したい」「人に役立つことをしたい」「癒しを得たい」等々、一見すると立派そうに思える動機も同じです。これらはすべて無常の幸福にすぎず、死の解決を達成するための手段でしかありません。仏教に興味を持つ人は多いですが、不純な動機で求める人も多いです。
・目的を知らない恐ろしさ
自己を知ること以外は、死を解決できない行為、つまり地獄に堕ちる恐ろしい行為です。その恐ろしさがわからず、世間の人々は無常の幸福を求めているのです。
人生の目的を知って、無常の幸福で幸せになろうとする生き方から、無常の幸福を自己を知る手段に活かす生き方へと、早く転換しなければなりません。
激しい無常を観じるような求め方
特に、無常を観じ、菩提心が生じるような求め方が大切です。つまり、幸せの中に寂しさや虚しさを感じるような求め方をすることが大切なのです。