今日、「科学的」という言葉が「真実」を意味するかのように使われていますが、それは正しくありません。科学は欠点がある不完全なツールでもあります。
「科学者たちが公的な立場を確立するようになると、彼ら自身も圧制的になり、自分たちの真実が絶対的なものであると主張し始めたのだ。その結果、『科学的』という言葉は現在、『真実』と同意語のようになってしまった」(ブルース・リプトン)
科学の真理は「実験・観察・計算・推理が正しいとするならば」という仮定の上に成立しています。仮定が崩れれば真理もくつがえる科学を絶対と信じるのは迷信です。
「理性の科学では、科学者が自然現象を分析し、それを抽象化して数学モデル(仮説)をつくるさい、観測不可能な事象(命や心の問題など、総じて見えない現象)は数学的に表現することが困難であるから、それらをすべて無視ないしは捨象して数学モデルをつくることになり、対象が複雑であればあるほど、それを抽象化した数学モデルは、ますます現実から乖離することになるからである。その証拠に、抽象化された数学モデル(仮説)に依拠する『理性の科学』では、そのモデル(仮説)に矛盾(誤り)が発見されれば直ちに崩壊することになる。それを比喩すれば、抽象化された数学モデル(仮説)に依拠する理性の科学は、家そのものが崩壊寸前の崖(仮説)の上に建っているのに、その家の設計図(理論)は正確で間違いないから家は安全(正解)であるというのと同じである」(岸根卓郎/京都大学名誉教授)
「物理学者は、物理学の分析方法や論理によっては自然現象の全体を説明できないことがわかっているので、全体の中からある部分の現象をとりだし、その部分だけに相当するモデルを作ろうとする。したがって、モデルは残りの部分を無視しているので、現象全体を説明しているとは言えないのである。ただし、無視されるのは、影響が小さく、理論をそれほど左右しない部分であるか、あるいは理論が作られた時には知られていなかったために、無視されたものである」
「要するに、科学的理論やモデルはすべてものごとの真の姿の近似なのだ。その近似に含まれる誤差はほとんどの場合、ごくわずかにすぎない。だからそのようなアプローチにも意味があるのだ」(フリッチョフ・カプラ/物理学者)
「私たちが目にしているのはありのままの自然ではなく、私たちの探求方法に対してあらわになっている自然にすぎない」(ハイゼンベルク)
「物理学が真理であると判定する基準は、ほとんどの物理学者(すなわち主観の集合)が、同じ結論を得るかどうかということでしかない」(橋元淳一郎/科学評論家)
「『科学』は実際には共通した立証基準を信奉する科学者たちの共同体なのだ。そのため、科学には保守的な傾向がある。つまり、往々にして、あまりに熱心に新しいことに抵抗し、あまりに頑固にすでに受け入れられた結論にしがみつくのである。哲学者トマス・クーンによれば、科学の新しい理論は古い理論の支持者が死に絶えるまでそれに取って代わることはない!」(スティーヴン・ラバージ/神経生理学者)
「自然科学に関する事実並びに法則は、その時代の人間の関与によって生み出されたものです。だから当然ですが、その時代の研究者による探索上の制約を受けます。よって、そこで生まれた自然科学の真理は、絶対的真理でも何でもなく、時代とともに変わるものであり、『その時点で判明した真理』にすぎません」(矢作直樹)
「厳密に言うと科学が提供するのは裏づけだけだ。数学の定理が真実であると証明されるのと同じ意味で、真実であると証明された科学の仮説は存在しない」
「厳密には、その仮説を裏づける有利な証拠が十分にあり、今のところ仮説と矛盾するような確固たる証拠はつきつけられていないと言っているにすぎない」(ロバート・ライト/科学ジャーナリスト)
アインシュタインは「自然は壮大な秘密をたまにひとつ明かすだけです」と表現し、「ああ、われわれの経験に比べ理論とは何と貧弱なことよ」と嘆いてもいます。
・真実を追究する力
レイモンド・ムーディーは「懐疑家とは、今日のように反対や否定ばかり口にする人のことではなく、むしろ、すぐ結論に飛びつかず、ニュートラルに真実を探求し続ける求道者のことだ」と言っていますが、人間には真実を追究する力が要求されます。アインシュタインは「理論物理学者の資格は?」と聞かれ、「ありのままのものを、あるがままに受け止める柔軟な考え方と、豊かな想像力」と答えています。