「父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」
こう書かれた遺書を残し、マラソンランナーの円谷幸吉は自殺しました。
福島県の農家に7人兄弟の末っ子として誕生した幸吉は、小さい頃から良くも悪くも我慢強い性格でした。
5歳で結核性の関節炎になった時も、我慢しすぎたために医者に「もう少し遅かったら取り返しのつかないことになっていた。それにしても、こんなになるまでよく我慢したものだ」と言わせるほどでした。
この我慢強い性格はその後も続き、医者から「絶対安静、駅伝出場はもってのほか」と言われた時も、「なんとしても出してください。絶対走らせてください。死んでもいいですから走らせてください、お願いします、お願いします」と懇願します。この時は真っ青な顔で走り切り、ゴールすると意識を失いました。
幸吉は、高校卒業後、陸上自衛隊に入隊します。本格的に陸上を始めると、走るほど記録を塗り替えていきました。記録ラッシュに、幸吉のコーチだった畠野はこう言います。
「走れば日本新、走れば日本新。ただストップウォッチを押すだけで日本新の誕生。その強さと進歩ぶりは目を見張るばかり。レースについて何も言うことはなかった」
幸吉も次第に自信をつけていきます。
「レース途中で負ける気はしなかった。いつ、どこからでも勝負できる自信はあった」
これは、金毘羅宮の1368段の階段を何往復もするなど、一日も休まない猛練習の成果と国際レースでの経験から出た自信でした。
幸吉はトラック選手からマラソン選手へと転向しますが、マラソン経験3回、始めて7ヶ月という戦後最短記録でオリンピックに出場します。この時に幸吉は、こんな感謝の言葉を口にしています。
「父上、母上。幸吉は、オリンピック選手となりました。これはひとえに、私を育て、日頃から励ましてくださった両親、ならびに畠野教官、さらに日本陸上連盟の人々、同僚らの恩におるものです。幸吉は、円谷家の名に恥じないよう、さらに精進し、立派なオリンピック選手になりたいと思います」
マラソンはオリンピックの華でした。東京オリンピックではアベベが優勝し、ベイジル・ヒートリーとの劇的な2位争いのデッドヒートを繰り広げます。畠野も「自分が何を言っていたのか記憶にない」というぐらい叫んでいました。
「あんな疲れ切った円谷の酷いフォームを見たのは初めて。どんなに無理な苦しいレースをやってきたのかがわかった」
最後には抜かれ銅メダルとなるも、幸吉は国民的英雄となり、テレビや新聞に引っ張りだことなります。帰郷すれば、当時の市長を始め市会議員が出迎え、駅前での歓迎会、ブラスバンドを先頭とするオープンカーの市内行進といった待遇でした。
そんな祝賀ムードの中、父である幸七の胸中は複雑でした。
(幸吉は大変なことをやったものだ。次のメキシコオリンピックは、どんなことがあってもメダルを取らせないと困ったことになる。周囲の人の期待があまりにも大きすぎる。それを、当然のように考えている)
次のメキシコオリンピックでは、よりよい成績、金メダルへの国民的期待が高まっていました。メディアには、「日本マラソン界のエース、メキシコにゴー」といった見出しが並びました。東京オリンピックの優勝者アベベも、「来たるメキシコオリンピックでは日本の円谷が強敵となろう」と幸吉をライバル視していました。
そんな大きな期待を背負った幸吉に、次々と不幸が襲います。
まず、アキレス腱炎、ヘルニア手術と度重なる病魔に苦しめられます。
また、幸吉には、結婚間近だったとされる栄子という女性がいましたが、上官に認められず別れさせられます。上官である自分への相談なしに決めようとしたことに腹が立っていたというのが理由だったそうですが、当時は上官の命令は絶対ですので従わなければなりませんでした。
そして、上官と対立した畠野も左遷されます。「コーチとどこまでも一緒に行動する」とまで慕った畠野とも別れさせられたのです。栄子にプレゼントしたものはすべて送り返され、その後、栄子が別の人と結婚したことを幸吉は知ります。
国民の期待、病気、破談、コーチとの別れ、調子よく上がってくるライバルからのプレッシャー・・・・。幸吉の苦悩はピークに達します。そして、思い悩んだ末、カミソリで首の動脈を切って自殺しました。27歳でした。
以下、幸吉が残した遺書の全文です。
父上様、母上様 三日とろろ美味しうございました。干し柿 もちも美味しうございました。
敏雄兄、姉上様 おすし美味しうございました。
勝美兄姉上様 ブドウ酒 リンゴ美味しうございました。
巌兄姉上様 しそめし 南ばんづけ美味しうございました。
喜久造兄姉上様 ブドウ液 養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄姉上様、往復車に便乗さして戴き有難とうございました。モンゴいか美味しうございました。
正男兄姉上様、お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、
ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、
ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、
恵子ちゃん、幸栄君、
裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、
立派な人になってください。
父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
何卒 お許し下さい。
気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。
幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。
校長先生済みません。
高長課長、何もなし得ませんでした。高下教官御厄介お掛け通しで済みません。
企画室長お約束守れず相済みません。
メキシコ・オリンピックの御成功を祈り上げます。
当時のメディアには次のような見出しが並びました。
「崩れた栄光の座、円谷選手の自殺」
「足・腰の故障に克てず、メキシコ大会に絶望」
「練習熱心な『走る鬼』の死」