「一念発起」という言葉は現代でも使われますが、元は仏教用語です。仏教では「いちねんぽっき」と読み、次のように使われます。
「一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに、滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。されば、二益なりと思うべきものなり」(御文)
(訳:死の解決をすれば正定聚となるが、これはこの世の利益である。仏の悟りは、死後に極楽浄土に往生して得る利益である。こういうことなので、二益なのである)
「あながちに、もろもろの聖教を読み、物を知りたりというとも、一念の信心の言われを知らざる人は、いたずらことなりと知るべし」(御文)
「生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて」(改邪鈔)
(訳:苦悩の輪廻の根源である疑情が、他力の信心が開く一念に破れる)
「弥陀をたのむ一念にて、仏になるこそ不思議よ」(御一代記聞書)
「平生のとき善知識の言葉の下に、帰命の一念を発得せば、そのときをもって娑婆のおわり、臨終とおもうべし」(執持鈔)
(訳:生きている時に死の解決をすれば、その瞬間が心の臨終である)
このようによく「死の解決は一念の体験である」といわれますが、一念には「信の一念」と「行の一念」があります。
信の一念
疑情が晴れた時を「信の一念」といいます。
さらに、「信の一念」には2通りの意味があります。
時尅の一念
時尅の一念とは、時間の極まりのことです。
「『一念』とは、これ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり」(教行信証)
(訳:一念とは、信心が開く時間の極まりであり、広大で思いはかることができない歓喜の心を表すのである)
信相の一念
信相の一念とは、信心が一心であることです。
「『一念』と言うは、信心二心無きが故に『一念』と曰う」(教行信証)
(訳:一念というのは、信心に二心がないから一念という)
行の一念
疑情が晴れて最初に称える念仏を行の一念といいます。
「本願を信受するは、前念命終なり。即得往生は、後念即生なり」(愚禿鈔)
(訳:前念に阿弥陀仏の本願に帰依し命が終わる。後念に生まれ変わり、極楽浄土に往生する)
一念は時間の極まりですので本来2つに分解できるものではありませんが、わかりやすくするためにこのように説明しています。