極楽浄土は実在する

極楽浄土とは

が現れた地を浄土といいます。
特に、無上仏である阿弥陀仏が建立した浄土を極楽浄土といい、無数にある浄土の中で最上の浄土になります。
極楽浄土は、書いて字の如く、苦が一切ない、極めて楽な世界です。基本的に、浄土といった場合、阿弥陀仏の極楽浄土を指します。
「その国の衆生は、もろもろの苦あることなし、但もろもろの楽を受く。かるがゆえに極楽と名づく」(阿弥陀経)
(訳:その国の人々は、一切の苦がなく、ただ楽だけを受けるので極楽と名づけるのである)

極楽浄土の別名

極楽浄土は、次のように様々な別名があります。
「安楽」「安養」「報土」「無為」「無量光明土」「蓮華蔵世界」

極楽浄土の有様

経典に説かれている極楽の有様をいくつか紹介します。
「極楽国土には七重の欄楯・七重の羅網・七重の行樹あり。みなこれ四宝をもって、周帀し囲繞せり」(阿弥陀経)
(訳:極楽浄土には七重の玉垣、七重の宝珠を連ねた網、七重に並ぶ樹がある。これらは皆、金・銀・瑠璃・水晶の四つの宝でできており、この国中の至る所で取り囲んでいる)

「極楽国土には、七宝の池あり。八功徳水その中に充満せり。池の底にもっぱら金沙をもって地に布けり。四辺に階道あり、金・銀・瑠璃・玻瓈、合成せり。上に楼閣あり、また金・銀・瑠璃・玻瓈・硨磲・赤珠・碼碯をもってして、これを厳飾せり。池の中の蓮華、大きさ車輪のごとし。青き色には青き光、黄なる色には黄なる光、赤き色には赤き光、白き色には白き光あり。微妙香潔なり」(阿弥陀経)
(訳:極楽浄土には、七つの宝でできた池があり、その池は、八つの優れた功徳がある水で満たされている。池の底は金の砂が敷かれており、四方には金・銀・瑠璃・水晶で作られた階段がある。上には高層の立派な建物があり、金・銀・瑠璃・水晶・硨磲・赤真珠・碼碯の宝で美しく飾られている。池の中には、車輪のように大きな蓮の花が咲いている。青い色の花は青い光、黄色の花は黄の光、赤い色の花は赤い光、白い色の花は白い光をそれぞれ美しく放ち、言葉で言い尽くせないほど清らかで高貴な香りを放っている)

「かの仏国土には、常に天の楽を作す。黄金を地とす。昼夜六時に、天の曼陀羅華を雨る」(阿弥陀経)
(訳:極楽浄土には、常に極楽の音楽が流れている。大地は黄金でできており、昼夜六時には美しい曼陀羅華が降る)

「八功徳水湛然として盈満せり。清浄香潔にして、味わい甘露のごとし」(大無量寿経)
(訳:八つの優れた功徳がある水が満ちあふれており、その水は清らかで汚れのない香りがし、味わいは甘露のようである)

「不寒不熱にして常和調適なり」(大無量寿経)
(訳:寒からず暑からず、常に快適で調和が保たれている)

「もし宝池に入りて意に水をして足を没さしめんと欲えば、水すなわち足を没す。膝に至らしめんと欲えば、すなわち膝に至る。腰に至らしめんと欲えば、水すなわち腰に至る。頚に至らしめんと欲えば、水すなわち頚に至る。身に潅がしめんと欲えば、自然に身に潅ぐ。還復せしめんと欲えば、水すなわち還復す。調和冷煖にして、自然に意に随う。神を開き体を悦ばしむ。心垢を蕩除して、清明澄潔にして、浄きこと、形なきがごとし」(大無量寿経)
(訳:もし宝の池に入って足を浸したいと思えば、水はすぐに足を浸し、膝まで浸したいと思えばすぐに膝まで浸る。腰までと思えば腰まで浸り、首までと思えば首まで浸る。身に潅ごうと思えば、自ずと身に潅ぎ、元に戻そうとすればすぐに元に戻る。水は調度良い温度になるよう、自ずと意に叶う。心身の汚れは除かれ喜びに溢れる。水は清く澄み切っており、まるで何もないように見える)

「もし食せんと欲う時は、七宝の鉢器、自然に前にあり。金・銀・瑠璃・硨磲・碼碯・珊瑚・琥珀・明月・真珠、かくのごときのもろもろの鉢、意に随いて至る。百味の飲食、自然に盈満す。この食ありといえども、実に食する者なし。但、色を見、香を聞くに、意に食をなすと以えり。自然に飽足す。身心柔軟にして、味着するところなし。こと已れば化して去る。時至ればまた現ず」(大無量寿経)
(訳:もし食事をしたいと思えば、七つの宝でできた器が自ずと目の前に現れる。金・銀・瑠璃・硨磲・瑪瑙・珊瑚・琥珀・明月真珠などの色々な器が、思いのまま自由自在に現れ、様々な美味しい食べ物や飲み物が、自ずと満ち溢れる。このような美味しい食べ物があっても、実際に食べる人はいない。ただ、それらを見て、香をかぐだけで食べたと感じ、自ずと満ち足り、心身共に和らぎ味に執着することはない。心身が満たされればそれらは消え去り、欲しいと思えばまた現れる)

比喩

極楽浄土は地獄と同様、絶対の世界ですので、相対的で不完全なツールである言葉で表現できるものではありません(これを離言真如という)。しかし、それでは人間にまったくわからないので、言葉を尽くして極楽浄土を説かれたのです(これを依言真如という)。
ですので、経典に説かれている極楽の様子も極楽そのものではありません。実際に金や銀が存在するのではなく、わかりやすくするために、この世にある身近なものでたとえているのです。これを指方立相といいます。仏教が説かれたのは、2500年前のインドにおいてなので、比喩も当時の人々に合わせたものとなっています。
病気で苦しんでいる人に極楽を説いたなら、一切の病気がない世界だと説かれたでしょう。愛する人を失って苦しんでいる人に説いたなら、故人に再会できる世界だと説かれたでしょう。猫に説いたなら鰹節がいっぱいある世界、ネズミに説いたなら猫のいない世界だと説かれたでしょう。

・比較にならない
死の解決と世間一般の幸福とは、とにかく比較になりません。
「極楽と彼の三界と何如んぞやと 新往化生倶に報へんと欲すれども 合掌悲咽して言ふこと能はず」(般舟讃)
(訳:「極楽と、かの三界とはどのようであるか」と新しく往生した者は皆答えようと思うが、合掌しながらむせび泣いて言うことができない)

極楽浄土には誰もいない

大無量寿経には、「易往而無人」という言葉があります。
これは、「極楽浄土には往き易くして人無し」という意味です。一見すると矛盾する言葉ですが、この理由としていくつか考えられています。
・死の解決をする人がいないから
死の解決をすることが難しいために人がいないという理由です。
「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へは参り易けれども、信心をとる人稀なれば、浄土へは往き易くして人なしといえるは、この経文のこころなり」(御文)
(訳:死の解決をすれば、極楽浄土へは行き易いのだが、死の解決をする人が稀なので、極楽浄土へは行き易くして人無しといわれるのである)

・善知識がいないから
善知識は稀有な存在であるために人がいないという理由です。
「人無しというは、よく教うる人も無く、よく聞く人も無きなり」(浄土見聞集)
(訳:極楽浄土に人がいないとは、善知識がいないから死の解決をする人もいないということである)

・人々を救いに行っているから
死の解決をした人は、人を救うことに命がけになります。つまり、まだ苦しんでいる人を救いに浄土から穢土に戻ってくるために人がいないという理由です。
「我が歳きはまりて、安養浄土に還帰すといふとも、和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ」(御臨末の御書)
(訳:これから私は死んで極楽浄土へ帰って行くが、寄せては返し寄せては返す波のように何度も戻ってこよう)

どうしたら極楽浄土へ行けるか

本願成就文にもあるように、死の解決をすれば、一念で極楽に生まれます。
・不体失往生
不体失往生とは、書いて字の如く、「体を失わずして往生する」という意味です。逆に、体を失ってから往生することを体失往生といいます。
死の解決は不体失往生です。つまり、生きたまま救われるということであり、死んでから救われるということではないのです。死後だけでなく、生きながら極楽に生まれることができます。
「真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚のくらいに住す。このゆえに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生またさだまるなり」(親鸞消息)
(訳:死の解決をした人は、阿弥陀仏が決して捨てず救い取るので、正定聚の位に定まっている。このため、臨終まで待つ必要がなく、臨終に阿弥陀仏が迎えに来ることを頼りにする必要もない。信心が定まる時に往生もまた定まるのである)

「臨終すんで 参るじゃない 臨終すまぬとき 参る極楽 なむあみだぶに すめてあること なむあみだぶつ」
「死んで参るじゃない 死ぬまで悪を作りて 死なずに参る親の里 死なずに申す弥陀の念仏 なむあみだぶつ なむあみだぶつ」(浅原才市)

・往生の二義
「往生」という言葉には2つの意味があります。
1つ目は「生かされて往く」という意味で、生きながら救われるという意味です。
2つ目は「往って生まれる」という意味で、死後に極楽浄土に生まれるという意味です。

・今すぐ助かりたい
「後生大事や金欲しや死んでも命のあるように」という諺もあるように、死んだ後だけでなく現世の幸せも欲しいのが人間です。今すぐ楽になりたい、安心したいと願うのは当然であり、体失往生では人間の願いを完璧に満たしていることにはなりません。
「未だに死後の浄土を説く宗派があるそうですが、生きたまま不安のない仏になるのでなくては、宗教の存在意義はありません」(水原舜爾/岡山大学名誉教授)

・心が浄土に遊ぶ
肉体は穢土のままですが、人間の本体である阿頼耶識が、生きながら極楽浄土に生まれているということです。
「超世の悲願聞きしより われらは生死の凡夫かは 有漏の穢身はかはらねど こころは浄土にあそぶなり」(帖外和讃)
(訳:死の解決をした瞬間から、もう苦しみ迷いの凡夫ではない。煩悩がある身であることに変わりはないが、心は極楽浄土に遊んでいるのである)

幸せな時はすべてが輝き、不幸な時はすべてが暗く感じるように、世界観というのは心で決まります。心が浄土に生まれれば、すべてが金色燦然と光り輝くのです。
「ただよく念ずるひとのみぞ 瓦礫も金と変じける」(帖外和讃)
(訳:ただ死の解決をした人だけが瓦礫も金と変わるのである)

・解脱
物質にしてもエネルギーにしても迷いの世界はすべて輪廻しています。
阿頼耶識も、生まれ変わり死に変わりして六道を輪廻していますが、死の解決をすることで抜け出し極楽に生まれることができます。
これを解脱、または出離といいます。肉体は人間のまま、生きながらにして心が解脱するのです。

・無生の生
生死を超えた境地であり、無生の生といいます。
「無生の生とは、極楽の生は三界をへめぐるこころにてあらざれば、極楽の生は無生の生といふなり」(御一代記聞書)
(訳:極楽浄土に生れるということは、苦しみ迷いの世界を輪廻することではなく、輪廻から解脱した世界に生れるということなので、極楽浄土に生れることを無生の生という)
三界とは、次の3つの世界を指します。

欲界:書いて字の如く、欲望にとらわれた生物が住む世界。天界の一部から地獄までの世界すべてを含む
色界:欲望を離れ物質に永遠なるものを見ようとする世界。欲望は超越しているが、無色界と比較して物質や肉体に束縛されている。天界の一部が入る
無色界:物質や形式を離れ精神的なものだけを追求する哲学・思想の世界。欲望を超越し、物質的にも肉体的にも束縛されていないが、精神的な束縛はある。天界の一部が入る

・生きてよし、死んでよし
現在世でも当来(死後生)でも救われるという、大きく2つの利益を得るので、現当二益ともいいます。
「一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに、滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。されば、二益なりと思うべきものなり」(御文)
(訳:死の解決をすれば正定聚となるが、これはこの世の利益である。仏の悟りは、死後に極楽浄土に往生して得る利益である。こういうことなので、二益なのである)
現在の幸・不幸は未来の幸・不幸に大きな影響を受けます。死んだ後が「極楽浄土間違いなし」と保証されていれば、現在も安心していられます。「いつ死んでも満足」という境地であり、「生きてよし、死んでよし」の境地です。
清沢満之は、「来世の幸福のことは、私は、まだ実験しないことであるから、ここに陳ぶることは出来ぬ」と言っていますが、この言動は死の解決の体験がない証拠であり、教学上からいっても間違っています。

極楽浄土へ行けないとどうなるか

大無量寿経には、「善人は善を行じて、楽より楽に入り明より明に入る」という言葉もありますが、救われた人は、この世の極楽から死後の極楽への旅となります。
一方、死の解決をしていない人は、この世の地獄から死後の地獄への綱渡りです。
「悪人は悪を行じて、苦より苦に入り冥より冥に入る」(大無量寿経)
(訳:悪人は悪を造り、この世の苦しい闇の世界から、未来の地獄へと、苦から苦への綱渡りとなり沈んでいく)

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