阿弥陀仏とは?釈迦の先生でもある阿弥陀仏について説明します

阿弥陀仏とは

阿弥陀とは

サンスクリット語のアミターバ(無量の光明)とアミターユス(無量の寿命)に共通するアミタ(無量)に漢字をあてて阿弥陀になったといわれています。
「かの仏の光明、無量にして、十方の国を照らすに、障碍するところなし。このゆえに号して阿弥陀とす」(阿弥陀経)
(訳:その仏の光明は無限であり、すべての世界を照らし、妨げるものは何もないので阿弥陀という)

「かの仏の寿命およびその人民も、無量無辺阿僧祇劫なり、かるがゆえに阿弥陀と名づく」(阿弥陀経)
(訳:その仏の寿命もその国の人々の寿命も無限であるので阿弥陀という)

仏とは

仏とは何か?釈迦も仏、真理も仏

阿弥陀仏は最高の仏

仏教では、光明は力(念力)を表します。
阿弥陀仏の光明は他のどんな仏の光明よりも超え優れています。
「無量寿仏の威神光明は最尊第一にして、諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり」(大無量寿経)
(訳:阿弥陀仏の偉大な力は最も尊いものであり、他の仏の及ぶところではない)
すべての仏の中で最高の仏であるため、大阿弥陀経には「諸仏の中の王なり」と説かれています。また、阿弥陀仏は、この上ない仏であるため、無上仏ともいわれます。
・本師本仏
阿弥陀仏は、すべての仏の先生であり、すべての仏を仏に成さしめた根本の仏であるため、本師本仏と説かれています。
「三世諸仏 念弥陀三昧 成等正覚」(般舟経)
(書き下し:三世諸仏は念弥陀三昧によりて等正覚を成ず)
仏は時空を越えた存在であるため、三世諸仏ともいわれ、通常は阿弥陀仏以外のすべての仏を指します。阿弥陀経には、大宇宙にはガンジス川の砂の数ほどの無数の仏がいると説かれています。
ですので、釈迦も三世諸仏の一仏になります。釈迦は、今生の地球において自分の力で仏の悟りを開いたように見えますが、実は五百塵点劫という遥か昔に、阿弥陀仏の力で仏となっていたのです。
では、なぜそのようなことをしたかというと、衆生を済度するためです。あまりに境涯が違う人間を救うために、わざわざそのように見せかけたのです。これを、「和光同塵は結縁の始め、八相成道は利物の終わり」ともいわれます。

阿弥陀仏はわかりづらい

阿弥陀仏は絶対の仏なので、相対的な智恵しかない人間には認識が非常に難しい存在です。
経には次のように、阿弥陀仏が時間的にも空間的にも超越した存在であり、いかに認識が難しいかが説かれています。
「かの弥陀如来は来って来るところなく去って去るところなし、生なく滅なく過現未来にあらざるなり」(無量寿荘厳経)
(訳:阿弥陀仏は、どこから来た仏でもどこかへ去っていく仏でもない。生じる仏でも滅する仏でもなく、過去の仏でも現在の仏でも未来の仏でもない)
そのため、「架空の仏」と思う人も多く、仏教を長く聞いている人でも「本当にいるのだろうか」と思う人は多いです。
庄松は、ある未信(死の解決をしていないこと)の同行と次のようなやり取りをしています。
「庄松さん、どうも私は求道しても喜べない」
「助からずに有難くなれるか。助かったらはっきりするぞ」
「でもなぁ、極楽に阿弥陀さんがおられるとはいうけれど、目に見えぬゆえ、どうも信じられず身が入らない」
「この山の向こうには阿波の国があるぞ」
阿波の国(現在の徳島県)は目には見えませんが、山の向こうに確かにあります。それと同じように、極楽浄土も目には見えないけれど確かにあるということを庄松は言っているのです。庄松はこういう言い方をしていますが、第1巻から説明してきたように目には見えない世界を知る方法は他にもあります。
明治時代の僧侶で清沢満之という人がいます。
真宗大学(現在の大谷大学)を建設した人であり、彼の思想は本願寺を支配するほどの大きな影響力があります。その思想の内容は、彼が死の一週間前に著した「我が信念」の中に端的に表れているので、重要なところを抜粋します。
「第一の点より云へば、如来は私に対する無限の慈悲である。
第二の点より云へば、如来は私に対する無限の智恵である。
第三の点より云へば、如来は私に対する無限の能力である。
斯くして私の信念は、無限の慈悲と、無限の智恵と、無限の能力との実在を信ずるのである。
無限の慈悲なるが故に、信念確定の其の時より、如来は、私をして直に平穏と安楽とを得しめたもう。私の信ずる如来は、来世を待たず、現世に於いて、すでに大なる幸福を私に与えたもう。
私は他の事によりて、多少の幸福を得られないことはない。けれども如何なる幸福も、この信念の幸福に勝るものはない。故に信念の幸福は、私の現世に於ける最大幸福である。これは私が毎日毎夜に実験しつつある所の幸福である。
来世の幸福のことは、私は、まだ実験しないことであるから、ここに陳ぶることは出来ぬ」
「我が信念」は、今日、「明治の歎異抄」とも評されているほどのものですが、この文章には間違いが少なくとも2つあります。
1つは、智恵と慈悲そのものが如来だと言っている点です。
智恵と慈悲は阿弥陀仏の属性であって阿弥陀仏そのものではありません。阿弥陀仏は智恵と慈悲の覚体といわれるように、阿弥陀仏には覚りの体、すなわち智恵と慈悲をそなえた本体があります。その本体は私たち人間と同じように、喜怒哀楽を感じられます。だからこそ、仏教徒は阿弥陀仏が喜ぶ行いをし、悲しむ行いを止めようと努めるのです。また、毎日の勤行時に、新鮮なお仏花と炊き立てのお仏飯を1番最初に阿弥陀仏にお供えし、恭敬礼拝するのです。阿弥陀仏は、「智恵そのもの」とか「真理そのもの」といった冷たい存在ではありません。
もう1つの間違いについては、後述する「死の解決の境地」のところで説明します。
〇阿弥陀仏のいる場所
阿弥陀仏は実在する方ですが、どこにいるのか説明します。
・遠くにいる
阿弥陀経には次のように、遥か遠い極楽浄土にいると説かれています。
「これより西方、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽と曰う。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして説法したまう」(阿弥陀経)
(訳:地球から西の方へ十万億の諸仏の国々を過ぎたところに、極楽という世界がある。そこには阿弥陀仏という仏がおり、今現に法を説いている)

・近くにいる
一方、観無量寿経には、「阿弥陀仏、ここを去ること遠からず」と、阿弥陀仏がすぐ傍にいると説かれています。一見すると阿弥陀経の説明と矛盾しているように見えますが、そうではありません。観無量寿経疏には次のように説明されています。

分済不遠:人間の目からは遠いが、分済の違う阿弥陀仏から見れば遠くない
去時不遠:死の解決をすれば、臨終に一念で極楽浄土へ往生できるから遠くない
観境不遠:死の解決をして仏凡一体の身になれば、阿弥陀仏をはっきりと自覚するから遠くない

〇感応道交
死の解決の体験がない限り、基本的に阿弥陀仏はわからない存在です。では、死の解決をしないとまったく認識できないのかというとそうでもありません。信仰が進むと、阿弥陀仏と感応しあい、念力を感じられるようになります。これを感応道交といいます。

「すべてはあなたに出会うためのストーリー」というCMを流す結婚式場もありましたが、「すべては阿弥陀仏に出会うためのストーリー」なのです。

阿弥陀仏の本願

本願は誓願ともいい、約束という意味です。本願には力があり、本願力といいます。阿弥陀仏の本願は、すべての衆生を救う本願です。

他力本願の正しい意味。釈迦の先生である阿弥陀仏の力とは?

南無阿弥陀仏

「なむあみだぶつ」と読み、「南無阿弥陀仏」を六字の名号といいます。

仏凡一体

仏心(仏の心)と凡心(凡夫の心)が一体となった状態を仏凡一体といいます。死の解決をすることで、仏凡一体の身となります。心に阿弥陀仏が生じるということであり、阿弥陀仏と一体になるということです。

念仏

南無阿弥陀仏と称えることを念仏といいますが、念仏には、「自力の念仏」と「他力の念仏」の2種類あります。

念仏には2種類ある。念仏を称えるだけでは救われない

阿弥陀仏だけに向かう

仏教は、阿弥陀仏一仏を本尊とします。本尊とは、「根本に尊ぶべきもの」という意味です。
「一向専念無量寿仏」(大無量寿経)
(書き下し:一向に専ら無量寿仏を念ずべし)

「一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり」(御伝鈔)
(訳:一向専念無量寿仏の教えは、仏教の要である)
「肝に銘じる」とか「腑に落ちる」などといわれるように、肝腑は要という意味であり骨目も同じです。

・阿弥陀仏に向かわなければ助からない
阿弥陀仏一仏に向かわなければ救われないから、これほど強調するのです。
「皆々心を一つにして、阿弥陀如来を深くたのみたてまつるべし。その他には、いずれの法を信ずというとも、後生の助かるということ、ゆめゆめあるべからずとおもうべし」(御文)
(訳:阿弥陀仏一仏だけを深く信じなさい。それ以外は、どんな法を信じようとも、後生が助かるということは絶対にない)
蓮如一期記には、「位牌、卒塔婆をたつるは輪廻する者のすることなり」とも説かれています。
庄松が、ある仏教徒の家へ行った時のことです。
あろうことか家には神棚が飾ってありました。それを見るや庄松は、「間男見つけたり!間男見つけたり!」と叫びました。すると家の主人は、「娘が病気になって藁にもすがる思いだったんだ。許してくれ、許してくれ」と泣きながら言ったといいます。

極楽浄土

が現れた地を浄土といいます。
特に、無上仏である阿弥陀仏が建立した浄土を極楽浄土といい、無数にある浄土の中で最上の浄土になります。

極楽浄土は実在する

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