地獄は本当にあるのか?苦しみはどれくらいか?誰が堕ちるのか?

地獄とは

地獄という言葉は、日本語としても通用しますが、本来は中国語です。古代インドのサンスクリット語ではナラカといい、音写(語音を他の言語の文字を用いて書き写すこと)で奈落、それを中国人が地獄と訳しました。日本語では「苦しみの世界」という意味です。

地獄の種類

具体的に地獄の世界が説かれているので紹介します。

八大地獄

正法念処経には、地獄を大きく8つに分けて説かれています。 日本でも、天台恵心流の祖となった源信が、「正法念処経」「観仏三昧経」「智度論」「倶舎論」等々を引用し往生要集に教示しています。
1.等活地獄(とうかつじごく)
苦相: 鋭利な刃物で体がバラバラに切り刻まれたり、鉄棒で粉々になるまで打ち砕かれる。罪人が果てると、鬼が鉄棒で地面を叩き「活、活」と言う。すると罪人はたちまち元通りに活き返り、同じように刻まれたり砕かれる。死ぬことができずに無量と思われるほどの長年月、これを繰り返す
罪因: 殺生
寿命:(人間の寿命に換算すると)1兆6653億1250万年

2.黒縄地獄(こくじょうじごく)
苦相:熱く焼けた鉄の縄で縛られ、熱く焼けた斧や鋸(のこぎり)で切り刻まれたり、大釜の中の煮えたぎった湯の中に落とされる。等活地獄の10倍の苦しみ
罪因:殺生、偸盗
寿命:13兆3225億年

3.衆合地獄(しゅうごうじごく)
苦相:鉄の山が四方八方から罪人めがけ動き出し、押し潰して粉々に砕く。あるいは、罪人を鉄の臼に入れ、鉄の杵で砕く。それを鉄でできた黒い鳥がわれ先にと争ってついばみくらう。黒縄地獄の10倍の苦しみ
罪因:殺生、偸盗、邪淫
寿命:106兆5800億年

4.叫喚地獄(きょうかんじごく)
苦相:金のように黄色い頭をし、赤い衣を着た獄卒が、眼からは火を発し、口からは恐ろしげな奇声を発しながら矢を射かける。恐怖のあまり罪人は地に頭をすりつけ許しを請うが、獄卒はますます怒り狂い、金鋏で罪人の口をこじ開け、煮えたぎる銅を流しこむ。どろどろの銅は臓腑を焼き尽くし、やがて肛門から流れ出てくる。衆合地獄の10倍の苦しみ
罪因:殺生、偸盗、邪淫、飲酒
寿命:852兆6400億年

5.大叫喚地獄(だいきょうかんじごく)
苦相:苦相は叫喚地獄に同じだが、苦しみは前4つの地獄の苦をすべて足したものの10倍
罪因:殺生、偸盗、邪淫、飲酒、妄語
寿命:6821兆1200億年

6.焦熱地獄(しょうねつじごく)
苦相:肛門から頭に抜けるまで燃え盛る鉄串で罪人を突き刺し、仰向けにしたり俯伏せにしたりして炙る。目や口、毛の穴までみな火を吐いて果てしなく苦しみが続く。前5つの地獄の諸々の猛火をはるか遠くに見て、そのいずれもが雪や霜のように思える世界
罪因:殺生、偸盗、邪淫、飲酒、妄語、邪見
寿命:5京4568兆9600億年

7.大焦熱地獄(だいしょうねつじごく)
苦相:苦相は焦熱地獄に同じだが、苦しみは前6つの地獄の苦を全部足したものの10倍
罪因:殺生、偸盗、邪淫、飲酒、妄語、邪見、求道する女性を強姦する罪
寿命:43京6551兆6800億年

8.無間地獄(むけんじごく)
苦相:恐ろしく広い鉄の大地の上に罪人が立たされると、猛火が彼方からうなりをあげて襲来し、罪人の肉を裂き、骨を砕く。前7つの地獄の苦を全部足したものの1000倍の苦しみ
罪因:殺生、偸盗、邪淫、飲酒、妄語、邪見、求道する女性を強姦する罪、五逆罪、法謗罪
寿命:349京2413兆4400億年

罪因の説明を簡単に付記しておきます。
殺生(せっしょう):生き物を殺す
偸盗(ちゅうとう):人のものを盗む
邪淫(じゃいん):不純異性交遊
妄語(もうご):嘘をつく
邪見(じゃけん):因果の法則を否定する見解
五逆罪(ごぎゃくざい):親殺しの罪
法謗罪(ほうぼうざい):仏法を謗る罪

臨終の地獄

地獄は死後だけでなく、臨終から始まると説かれます。
「命終わらんと欲る時、地獄の衆火、一時に倶に至る」 (観無量寿経)
(訳:命が終わろうとする時、地獄の猛火が一斉に迫ってくる)

「大命将に終わらんとして悔懼交至る」(大無量寿経)
(訳:命が終わろうとする時、後悔と地獄の恐怖が代わる代わるやってくる)

「死相現れては白日に月を見、夜中に日を見、自らの影を見ず、因縁有ること無くして悪声を聞き、鼻は則ちそばだち、髪毛相ひ著き、身に熱等の必死の病を得て身をあげて蒸熱あり、四百四病は唯四百を見、普き身を悩ますことは、火坑に在りて焼煮からるるが如し」(正法念処経)
(訳:臨終には、真昼に月を見、夜中に太陽を見、自分の影は消え、わけもわからず悪声を聞き、鼻はそばだち、髪の毛は相著(つ)き、熱は身を焼いて火坑にいるようである。四百四病に及ぶすべての病の中で、ほとんどすべての四百病もの病が一斉に表れ、身を苛む)

「罪人臨終に重病を得て 神識昏狂し心倒乱せり」(般舟讃)
(訳:罪人は臨終に重い病を発病し、心が昏(くら)くなり狂い乱れる)

「終時に苦相雲の如くに集り 地獄の猛火罪人の前にあり」(往生礼讃)
(訳:臨終には、苦悩が雲のように無数に集まり、地獄の猛火が罪人の前に現れる)

「それ衆悪を造れども、ただちに報いず。刀剣のこもごも傷割するが如くにはあらず。終りに臨み、罪あひはじめてともに現じて、後に地獄に入りてもろもろの苦にかかる」(往生要集)
(訳:無数の罪悪を造ってもすぐに報いは受けない。無数の悪業の結果は臨終に一斉に現れ、地獄に堕ちて無限の苦悩を受ける)

地獄は1人1人違う

地獄は、他の誰が造ったものでもなく、自分自身の業で苦しめられる世界です。そのため地獄は自業苦ともいい、正確には1人1人違います。 このことを表現した、「火の車 造る大工はなけれども 己が造りて己が乗りゆく」という古歌もあります。
「地獄に向かふに、大きなる火聚あり。その聚、挙れること高さ五百由旬なり。その量、寛広なること二百由旬なり。炎の燃ゆること熾盛なるは、かの人の所作の悪業の勢力なり」 (往生要集)
(訳:地獄に向かうと、猛火が激しく燃えている所がある。その猛火の高さは五百由旬もあり、広がりは二百由旬もある。その猛火の激しさは、罪人が造った悪業の激しさである」

・消せない火
この火は、自身の悪業が造る火ですので消すことができません。
「火の焼くはこれ焼くにあらず。悪業すなはちこれ焼くなり。火の焼くはすなはち滅っすべし。業の焼くをば滅っすべからず」 (往生要集)
(訳:火が焼くといってもこの世にある火が焼くということではなく、自身の悪業が焼くのだ。火が焼けば消すこともできるが、業が焼くのは消すことができない)

・大差ない
厳密には造る罪悪に個人差があるため地獄にも個人差がありますが、その個人差は膨大な罪悪と比べれば微々たるもので、地獄に大差はありません。

地獄と比喩

言葉は人間が造った不完全なツールであり(ちなみに人類の歴史で99%の期間は文字がなかった)、釈迦は「地獄は言葉では説けない」と説いています。経に表現された地獄は、地獄そのものではなく、人間にわかりやすくするために、この世の身近なものでたとえているとされています。
「苦しみしかない世界といっても、私たち人間にはわからないでしょう。そこで多くの喩え話があります。地獄に往ったら、舌を抜かれる。火で焼かれる。溶岩の釜があってその中で茹でられる。ノコギリで切られる。一生このように苦しめられるプログラムで生きていなくてはいけない。そのような喩えです。このように喩えで言えば、昔の人はなんとか理解できただろうと思います。 地獄の世界はまったくこのとおりだと思っている人もいますが、そうではありません。実際には物語っている苦しみよりも想像を絶する苦しみがある次元なのです。なぜなら、私たちの世界で本当に大きな釜に入れて茹でられたら、死んでそれで終わりですが、地獄ではそれだけでは死ねないからです。死なずに、ずっと茹でられる苦しみが続くのです」
「お釈迦様が本当に語った喩え話は、量も膨大で、内容も聞くだけで怖くなるほどの恐ろしさです。それも結局は、全部人間が考え出した、人間にわかるレベルの苦しみなのです。人間がそんなことを想像するだけでもぞっとするほど怖い。それでも喩えなのです」 (アルボムッレ・スマナサーラ著「ブッダの実践心理学」より)

仏教は「人間の死後は必ず地獄」と説く

死後相続する魂(阿頼耶識)を説き、三世を貫く因果の法則を説き、殺生罪などの無数の罪悪を説くのなら、これらから導かれる結論は「死後は必ず地獄」ということになります。 浄土真宗本願寺派祐光寺の住職・野々村智剣は次のように語っています。
「仏教の原理にしたがう限り、いま現在、あなたの来世は、すでに決まっている。地獄行きの自覚すらないあなたなら、確実に地獄におちる。その理由は、ほかでもない。あなたは日常に、地獄行きの罪を重ねつつあるからである。仏教の道理は因果応報である。悪いタネを播けば、悪い実がなる」
「今、私たちが人間として生きていくための必要最低条件を満たすだけでも、確実に地獄行きのタネをまいているのである。だから、自分は特別に強欲ではないし、ことさら人を泣かせたり苦しめたことはないから、地獄のようなおぞましい世界とは無縁だというような考えは、いかに甘かったか、おわかりいただけたと思う」
「今、『罪』を重ね続けているわれわれが死後、おちる地獄の諸相である。まかり間違っても、他人事として読まないでいただきたい。ここでいう『他人』とは、あなた以外のすべての人間を指す。だから、生きている人なら、あの人はこんな地獄におちるだろう、だとか、亡くなった人なら、こんな地獄におちているのでは、などといった誤った拡大解釈をしないでいただきたい。そういう、おかど違いの論法にすり替えないでもらいたい。あくまでも、『かならず死ぬ』あなた1人の問題なのである」
「われわれがこの世で生きているかぎり、『経』の説く地獄に行くべき『罪』を重ねつつあるというぬき難い現実である」 (野々村智剣著「誰も書きたがらなかった死後の世界『地獄』」より)
地獄の絵の前に、がやがやと人だかりができていました。
「こんな恐ろしいところに堕ちていくんだかー」
その様子を見た妙好人として知られる庄松は、「極楽の絵をみとけ!地獄はやがて見えるぞ!」と言ったといいます。
同じく妙好人として知られるおかるという人は、「ないないないで何にもない ない中あるのが地獄だね」と詠んでいます。

「地獄は仕方ない」と言う人の間違い

「人間は悪いことをしないと生きられない。だから地獄は仕方ない」という人もいます。関連して、「苦は耐えられる」「苦は脳が生み出した幻」「みんな地獄に堕ちるのなら怖くない」といったものもあります。 このように思ってしまう理由は、たいして苦しくない地獄を想像しているからであり、他人事に思っているからです。
また、このように言う人は、この世の地獄もまず知りません。 ジョン・ポーキングホーンは、悪が実在的な性質ではないという主張について、「これは、悪の経験の恐ろしい強烈さを理解しておらず、あまりにも気楽な理論」と言っています。 哲学者のボルテールは「幸福は夢にすぎず、苦痛は現実である」と表現しました。 火に触れただけでも耐えられないはずです。「心頭滅却すれば火もまた涼し」などとはどうしても思えないでしょう。実際に激しい苦がやってくれば、「仕方ない」では済ませられません。「何を差し置いてでも優先して解決したい」という欲求が生まれます。 「私たちが死に直面した時、生来もっていた土着の死生観を捨て、『死は刹那生滅の一時にすぎぬ』として現実を素直に受け止めることができるでしょうか。あるいは最愛の者を失っても、『無常は世の常』といって流せるでしょうか。とても俗人ではできません。わが事(主体的問題)と他人事(客観的問題)は別次元のものです」(泉美治/大阪大学名誉教授)
こんな話もあります。
源信が7歳の時のことです。 川で遊んでいると、比叡山の僧侶がやってきて弁当箱を洗い始めました。 それを見て源信は尋ねました。
「お坊さん、どうしてこんな汚い水で洗っているのですか」
「私たちにはキレイも汚いもないのだよ」
こう答える僧侶に、源信は再び尋ねました。
「ではなぜ洗うのですか」
洗うということは汚いと思っているということであり、キレイと汚いの区別、つまり善悪の区別をしているではないか、と源信は指摘したのです。 僧侶は返答に詰まり、偉い智恵のある子だなと感心したといいます。
この時代の比叡山の僧侶ですから、それなりに一生懸命修行していたでしょう。それでも、どうしても善悪を区別してしまっていたのです。 まして死後の地獄です。「仕方ない」などと済ませられるはずがありません。人間心理からいって、どうしても不完全な地獄(たとえば苦しみに間がある地獄など)を想像してしまいますが、近づくことは可能です。

地獄は証明できるか

理論面

「死後は必ず地獄」といえるためには、どんなことを示せばいいでしょうか。 次の3点がすべての人で成り立つことを示すことができれば、「死後は必ず地獄」といえると考えます。
1.重い罪悪を造っていること 苦しみを生み出す原因となる行い、その行いのことを悪と呼んでも罪と呼んでもいいですが、本書では基本的に罪悪で統一します。罪悪といっても、軽いものから重いものまで様々ですが、地獄と形容されるほどの苦しみを生み出す「重い罪悪」を造っているということです。
2.罪悪が死後に相続されること その重い罪悪が死後に相続される必要があり、簡単に言えば「死後の存在」です。たとえば、重い罪悪を造っていても、それが死後に相続されなければ、「死後は必ず地獄」とはいえません。
3.罪悪の重さに応じた悪い結果をもたらすこと 相続された罪悪に応じた悪い結果をもたらす必要があり、簡単に言えば「因果応報」です。たとえば、重い罪悪を造り、それが死後に相続されても、相応の悪い結果をもたらすことがなければ、「死後は必ず地獄」とはいえません。

以上を簡単にまとめると、
1.重い罪悪
2.死後の存在
3.因果応報
ということであり、
「重い罪悪」+「死後の存在」+「因果応報」 =死後は必ず地獄 ということです。シンプルです。
「重い罪悪」「死後の存在」「因果応報」の1つ1つについては特に珍しい話ではなく信じている人も多くいます。しかし、3つを結びつけて考える人はほとんどいません。3つが結びつくと、「死後は必ず地獄」という深刻な結論が導かれます。3つが結びつかないと、大した問題にはなりません。それぞれについて以下の記事で説明しています。
1.重い罪悪
2.死後の存在
3.因果応報

臨死体験の地獄例

臨死体験からいくつか紹介します。
・昔の日本
日本霊異記は、日本の仏教説話集としては最も早く、正式名称は日本国現報善悪霊異記といい因果応報の事実を示しているとされています。 その中には、行基と智光の次の有名な話があります。 奈良時代の三論宗の学僧、智光は行基と競い合っており、行基が大僧正に任ぜられると嫉妬心を起こし行基を謗りました。
すると智光は、突然下痢を起こし1か月間病み続けました。智光は弟子に、「私が死んでもすぐに焼いてはいけない。9日間はそのままにして待ちなさい」と戒め、その後、死亡しました。
死ぬと智光は地獄に堕ち、火と熱による厳しい罰を自分の意思とは無関係に受けました。肉が溶け骨だけ残っても、地獄の鬼が「生きよ、生きよ」というと、体は元通りになり、これを何度も繰り返しました。
このような罰を9日間受け続けた後に智光は現世に生き返り、地獄での出来事を事細かに弟子に話しました。そして智光は恐れ、行基に会って許してくれるよう謝罪しました。行基は喜び、智光は嫉妬するのをやめ、両者ともいっそう教化に励んだという話です。等活地獄と描写が似ています。

・現代の日本
現代の日本でも報告されています。 カール・ベッカー著「死の体験」より抜粋します。
群馬県に住む30代のBさんは、原因不明の病気にかかり3年近く闘病しますが、やがて危篤状態に陥ります。17時間にわたる危篤状態から意識を回復した後、Bさんは死後の世界を語りました。
あの世で気がつくと、Bさんは鬼のような者たちに尋問所に連れて行かれました。
そこでは10人ぐらいの男女がすでに残酷な尋問を受けており、彼らは腕や足を引きちぎられて悲鳴をあげていましたが、死ぬことはできず、いつまでも苦しんでいました。Bさん自身も逃げ出そうとしましたが、押さえつけられていて、目を逸らすこともできなかったといいます。
すると、すでに事故死していた高校時代の友人が、腕をもぎ取られた状態で上から落ちてきてBさんにぶつかり、Bさんは気を失いました。 そして、目が覚めたら意識を取り戻していたそうです。

・海外
海外の事例も紹介します。
人工蘇生術のエキスパートである医師のモーリス・ローリングズが、ある患者に蘇生術を施していた時の報告です。少し長いですが、重要なところですのでそのまま抜粋します。
「私はこれまで死は痛みの無い生命の消滅だと考えていた。死後経験などというものは、そのほとんどが空想か、せいぜい想像の類であろうと高をくくっていた。私の耳に入り、また、もので読んだケースのほとんどを、私は低酸素状態に陥った患者の彷徨する精神機能が経験する、空虚な多幸トリップではないかと思っていた。ところが、ある患者に接していた時の体験が私の考えを大きく変えた。この患者は48歳の白人男性で、地方の郵便配達員であった。中肉中背、黒髪、誰に対しても感じのよい人柄であった。 患者に私たちがストレステストと呼んでいる検査法をやらせていた時のことである。患者が不幸なことに心拍停止を起こし、死んだようになってフロアに倒れた。私は彼の胸に耳をあてたが、心拍はまったく聞こえなかった。手を喉仏の下へ這わせてみたが脈拍はまったく感じられなかった。一度か二度、溜息のような呼吸をした後、まったく息が絶えた。心臓筋肉が時たまぴくぴくと動き、ついで痙攣がきた。そして顔色が次第に青みがかっていった。 私が患者の胸に手をあて、内側へ強く心臓マッサージをし、看護婦がマウス・トゥ・マウス(口移し)人工呼吸法を開始したが、不幸にも完全な心臓ブロックが起こり仮死状態になった。心臓ブロックを克服して心拍頻数を1分間35ぐらいから80ないし100までにあげるためには、ペースメーカー装置が必要だった。私は、ペースメーカーの導線の先端を、手動で静脈系へ押し込み、心臓内部に宙吊りにさせた。導線の他端は、バッテリを電源とする小型ペースメーカーにつないだ。 患者は意識が戻り始めた。だが、私が胸部圧縮を中断すると患者はすぐに失神し、眼球を上転させ、背を弓なりにそらせ、軽い痙攣がきて、呼吸がとまり、再び仮死に陥るのだった。 患者は心拍と呼吸を取り戻すたびに、『私は地獄にいる!』と悲鳴を上げ、『助けて!』と嘆願した。私は恐怖に駆られた。地獄という言葉が出てきて、私は本当に仰天した。 患者はそれから、まことに奇妙な訴えを発したのである。『止めないでくれ!』と嘆願したのだ。読者にわかって頂けるかどうか?私がこの患者以前に蘇生術を施してきた患者のほとんどは、意識が回復するや否や、最初に口にする言葉が、『その手を私の胸から外して!』という嘆願だったのである。私は大柄だし、私の外部的心臓マッサージ法は、時に肋骨を折るほどに強いことがあるからだ。だが、この患者は私に、胸部圧縮を『とめないで!』と叫んだのである。 その時、私は患者の顔に、正真正銘の恐怖を認めた。死において見られる恐怖表情よりも凄い恐怖のそれなのであった。この患者はグロテスクといえるほどに顔を歪め、まざまざと極限的な恐怖を見せた。瞳孔は拡大し、冷や汗を吹き出させ、震えている。まるで彼の頭髪が逆立った、といってよいほどであった。 それからもう1つ妙なことが起こった。彼はこう言ったのだ。 『わかって頂けないでしょう?私は地獄にいるんです。先生がやめるごとに地獄へ戻っちゃうんです!私を地獄へ戻らせないで下さい!』 こうした際の情動ストレス下の患者に慣れている私は、この時の彼の訴えを斥け、こわがらないでじっとしていなさい、と注意した。私は患者にこう言ったのを憶えている。 『忙しいんです。このペースメーカーを装置し終わるまで、地獄だとかなんだとか私の気を外らさないで下さい』 しかし患者は真剣なのだ。そして私はようやく、患者が本当にどうにもならない窮地に追い込まれていることに気がついた。彼は心から恐がり、私がかつてみたこともないパニックに陥っているのだった。極度の恐怖に震えおののいていることが、患者に接している私にはわかりすぎるほどわかった。私もまたひどく恐ろしくなった。私は、大急ぎで、狂ったように施術を続行した。それまでの間に、患者は3度ないし4度、心搏と呼吸の停止によって完全な意識喪失と臨床死に陥り、そのたびに恐ろしい死後生のエピソードを経験したのだった。 この異常な体験の後、引き続いて、いくつかの恐怖経験をじかに患者から聞くようになった私は、是非ともこの事実を書かなければ、と本書執筆の緊急使命とでもいうべきものを感じるようになった。今の私は死後生はある。ただその死後生が良いものではないと、ほとんど確信に近いものを感じている」
また、臨死体験をして以来、牧師になったというケネス・E・ヘイギンは、「私の証言」という小冊子にその時の体験を書き残しています。
「私の心臓は搏動を止め、私の肉体の中に住んでいる霊的な人は私の肉体から離れた。私は下へ下へ下へとゆき、ついに地上の燈火はすべておぼろげとなり、遠くなっていった。もっと下へ下へと行くにつれ、あたりは更に暗くなり、ついにまったくの闇となった。手を眼の前1インチまでに近づけても、見えなかったろう。 更に下へくだると、闇は息詰まるばかりになり、次第に熱くなっていった。とうとう、私から更に下の方に、地獄に堕とされた人々のいる洞窟の壁にまたたく小さな光がいくつか見えてきた。それらは地獄の業火が壁に反射しているからだった。その光源である巨大な炎の球が、頂が白く燃えているその火の玉が、私を引っ張り、磁石が鉄片を寄せつけるように、私を寄せつけていった。私は行きたくなかった。私は、歩くのではなく、ただ鉄片が磁石へ吸われるように、私の霊魂はその場所へ牽引された。私はそこから眼を外らすことができなかった。熱が私の顔面を襲った。 すでに何年も前の経験ではあるが、今でもこの眼で、その時の様子を私は見ることができる。昨夜起こった出来事であるかのように、私の記憶に、それは常に生々しい」

臨終の地獄例

ボルテールは臨終に、「そこに恐ろしい鬼がいる。地獄が見えてきた、助けてくれ」と言いましたが、臨終に「地獄を見た」という人も少なくありません。 モーリスの著書にも、ある医師の報告として臨終の地獄体験の事例が紹介されているので引用します。 「この患者が、これだけの世間的な成功を成し遂げた立派な人であるのに、こんなに意気消沈しているなんて誰も想像できなかったろう。彼は私に、生がせいぜい与えてくれる以上のものを自分は探求しつつあるのだと語った。私は一体彼が何を言おうとしているのか理解できなかった。実はもっと腰を据えてよく傾聴すべきだったといま後悔している。 というのは、実にその晩、私はビバリーヒルズの彼の家へ来てくれと家人から呼び出されたのだ。急いで駆けつけてみると、彼は床に倒れていた。そして、助からなかったのだが、死ぬ少し前、しばらくではあるが意識を取り戻し、私の蘇生術に反応を示した。痛いかと聞くと、彼は首を振るだけだ。私は彼に、皆であなたを救命しようと頑張っているのだと言った。彼は頷いた。最期の言葉は、『私は怯えているんです。どうか私を地獄へ戻さないでください。私には今それが見える・・・・』というのであった。私は彼が何を見たのか、わからなかった」 死の直前に過去の行いが走馬灯のように脳裏をよぎることを紹介しましたが、ベルグソンなど、この行いが悪い行いであると主張する人もいます。

この世の地獄

ちなみに、この世にも六道を見ることができます。 地獄界と形容できるような不幸な境遇にいる人もいれば、天上界と形容できるような幸せな境遇にいる人もいます。

地獄は実在する

地獄というと、「悪いことをやめさせるために作られた架空の世界」とか「自殺を防止するためのたとえ話」といったように、荒唐無稽な世界だと思う人が多いですが、そうではありません。実在する世界です。この世に地獄と形容できるような苦しみが”なぜか”実在するように、死んだ後にも実在するのです。
地獄の苦相を見て残酷すぎると笑う人は多いですが、人間が他の生物に対してやっていることと似ています。
地獄の寿命を見て膨大すぎると笑う人は多いですが、1時間程度の寿命のウミユスリカから見れば人間の80年の寿命は70万倍以上あります。
また、地獄の時間の膨大さは苦しみの質も表しているとされています。まったく同じ時間でも、苦と楽とでは体感時間が異なります。苦しい時ほど時間が経つのが遅く感じられ、逆に、楽しい時ほど速く感じられるものです。
アインシュタインは、この主観的時間の相対性について、「可愛い女の子といっしょに公園のベンチにすわっていると、1時間も1分間のように過ぎるが、熱いストーブの上にすわっていれば、1分間も1時間のように思える」と表現したといいます。

地獄を回避する方法

少しでも死後が心配になった人は、当然、良い世界へ行きたいと思いますが、そのためにどうするでしょうか。 その方法として、大きく次の3通りに分けられるでしょう。
〇名利
名利とは、名聞利養の略で、名誉と利益のことです。 「地獄の沙汰も金次第」という言葉もありますが、死後も金や名誉といった名利で何とかなると、本気で思っている人もいます。意識的に思っている人もいれば、無意識的に思っている人もいます。
・名利に対する疑問
しかし、膨大な殺生罪などの罪悪が名利で帳消し(相殺される)になったり、死後に良い世界へ行くことができる理屈は何なのでしょうか。 一生懸命、名利を手に入れるために努力し、自信に溢れていた人が、キューブラ・ロスのように臨終になってひっくり返ってしまった事例もゴマンと見ることができます(詳しくは第2巻)。

〇道徳的な善
ボランティア活動をしたり、道徳的に善とされる行為を一生懸命行うことで、死後の安心を得ようと考える人もいます。 「癌のために苦しみの連続で、ついに亡くなったその友人の死のありさまは、傷ましくて、見るに耐えなかった」 俳優の丹波哲郎は、このような友人の悲惨な死をきっかけに死や死後を研究するようになったという人ですが、彼は次のように地獄に堕ちる可能性は誰にでもあると言います。 「一度くらいは、誰でも、『殺してやりたい』と思ったことがあるだろう。こうした『業』が、あの世では罰として自分の身にふりかかってくるというのが『自業自得』の意味であり、となると、実は、人間には誰もが『地獄堕ち』の可能性が多分にある」
「仏教では『三業(身業・口業・意業)』を問題にするのだ。実際に盗みをはたらく(身業)だけでなく、口に出してそう言ったり(口業)、あるいは盗もうと心の中で思った(意業)だけでも罪となり、それを自分で刈り取らねばならないとされるのである。そんなことを言えば、現実に罪を犯していない人間などひとりもいなくなるだろう。たとえば、実際に殺人や盗みはしなくても、誰でも一度は『あいつを殺してやりたい』などと思ったことがあるはずだからだ。 従ってうまく罰を免れたと思っていた行為や、心の中で犯してきた様々な悪業が、すべてあの世において罰として戻ってくるというのが自業自得の本来の意味なのであり、地獄の存在理由ともなるわけだ。つまり、『私は地獄などというところとは縁がない』などとは何人といえども言えない。誰もが『地獄』に堕ちる可能性があるということであり、各地獄でのむごたらしい刑罰も、決して他人事ではないし、絵空事ではないということなのだ。そのように認識した時、初めて往生要集で描かれる地獄の恐ろしさも身に迫ってくるはずなのである」
そして、地獄に堕ちないために重要なこととして彼は次のように考えているようです。
「現世に生きるわれわれにとっても肝要なことは、やはり『素直に、素直に、素直に!』『真っ直ぐに、真っ直ぐに、真っ直ぐに!』と繰り返し何度も徹底的に念じることだと思う。そしてあえて再び言う。地獄界は厳然として存在する。この事実は、どうしようもない」
・道徳的な善に対する疑問
道徳的な善についても、名利と同様の疑問が生まれます。 たとえば「素直になる」というのは主観的なもので、程度も人によって様々ですが、その「素直になる」という行為で膨大な罪悪が消える理屈は何なのでしょうか。 膨大な罪悪と比較して、善は圧倒的に少ないように思えますが、あまりに虫がいい理屈ではないでしょうか。 人間関係であれば悪いことをしても逃れることができたり、「反省しているのだから許してあげよう」という気にもなりましょうが、因果の法則は自然法則ですので、そういった人間の都合に関係なく狂いなく結果を生じさせるはずです。

〇宗教
あるいは宗教の中に解決法を見つけようとする人もいます。大まかに言えば、キリスト教圏であればキリスト教、仏教圏であれば仏教を信じることで死後の安心を得ようとします。
江戸中期の禅僧、白隠には次のようなエピソードがあります。 白隠は幼い頃、近所の寺で仏教を聞いていましたが、中でも地獄の話に身の毛がよだつ思いがしました。
(自分は虫や魚を殺した。自分はきっと地獄に堕ちるに違いない・・・・)
ある日、風呂を炊く火の音を聞いて、白隠は寺で聞いた「悪いことをした人間は必ず地獄に堕ちる」という話を思い出し大声で泣きました。
「お前は男の子じゃないか。どうしてそんなに憶病なのか」
母親が叱ると白隠は「私は地獄が怖いのです。お母さんと一緒にいても怖いのに、1人で地獄に堕ちたら誰が助けてくれるのでしょうか」と再び泣きました。 しばらくすれば忘れるだろうと母親は思いましたが、白隠は地獄について深刻に悩むようになりました。
やがて白隠は地獄の解決のために激しい修行に励むようになります。
「このからだが火にも焼けず、水にも溺れぬような力を得るまでは死んでも修行を止めぬ」
このような固い決意で修行を続けた白隠は、後年、「駿河には過ぎたるものが2つあり、富士のお山に原の白隠」とまでいわれるようになり、臨済宗中興の祖と称されるようになりました。
そんな白隠ですが、彼は「南無地獄大菩薩」という言葉を残しています。これは「地獄こそ真実の幸福に導く正しい先生である」という意味です。白隠のように、死後の地獄に対する恐怖が求道の強いモチベーションとなった人は数多くいます。
・真実を追究する
宗教はゴマンとあります。 そして、1つの宗教団体には複数の教義があります。 その教義を1つ1つ正しいかどうか精査するということになります。1つでも間違っていれば欠陥のある宗教です。100個の教えがあれば100個すべて正しくなければなりません。 たとえば、現代科学は心が対象外であるため、超心理体験をした人は、体験と合致する教えがあればそれだけで飛びつきやすく、その宗教のすべてを信じやすいですが、それは早計で、1つ1つ理性で教義を精査し、すべての教義が正しいか追究しなければなりません。 信じないより信じたほうが得だと考え、神も仏も何でも信じるという人も少なくありません。たとえば、もしその神なり仏なりが実在したら救われる、たとえ実在しなくても害はない、という理屈です(パスカルの賭けと呼ばれているようですが)。 しかし、この理屈には「信じる」という心の行為が害(罪悪)ではないという前提が必要で、これまで説明した通り、心の行為にも善悪があり、ある対象を信じることが罪悪である可能性があります。 また、ガリレオ裁判の例のように、ある教義に間違いがあることが判明すれば、まだ明らかになっていない他の教義(たとえば神の存在など)の信憑性が疑われるでしょう。 逆に、ある教義が正しいことが判明すれば、まだ明らかになっていない他の教義の信憑性も増すでしょう。

悟り

仏教で説く地獄の解決法が「悟り」というものです。

「悟り」とは何か?本当に可能なのか?どうしたら開けるのか?どれほど難しいのか?

地獄の解決をしないとどうなるか

地獄の解決をしなければ、地獄に堕ちます。
「この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり」(御文)
(訳:死の解決をしなければ、極楽には往生できず、無間地獄に堕ちるのである)
〇絶対にしなければならない
ですので、死の解決は「絶対に」しなければならないものであり、「したほうがいい」とか「できたらいいな」というものではありません。 どんなに苦しくても、どんなに年を取っても、ずってでも這ってでも求めてゴールする必要があります。 どんなに真面目な求道者でも、ゴールしなければ意味がありません。 死の解決をして極楽に行く100点の人生となるか、死の解決をせず無間地獄に堕ちる0点の人生となるか、人生は2択です。 ですので、昔から求道者は「進めば極楽、退けば地獄」と言い聞かせながら求道したのです。
・死ねば仏でも救えない
一度地獄に堕ちれば助かる方法は無く、阿弥陀仏でも救うことができません。
「ああ、夢幻にして真にあらず、寿夭保ちがたし、呼吸のあひだ、すなわちこれ来生なり。一たび人身を失ひぬれば、万劫にも復せず。この時悟らざれば、仏、衆生をいかがしたまはん。願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔を貽すことなかれ」 (教行信証)
(訳:ああ、この世は夢、幻であって真実ではない。命は保ち難く、吐いた息が吸えなければ死んでしまう。一度死んでしまえば、無間地獄に堕ち、永遠に抜け出すことはできない。生きているうちに死の解決をしなければ、阿弥陀仏でもどうしようもできない。どうか深く無常を問い詰めて、いたずらに後悔しないでほしい)

・急いでしなければならない
人間は死と隣り合わせであり、今日死んでもおかしくありません。今日死ねば、今日から地獄が始まるのです。今、幸せの絶頂にいようが、不幸のどん底にいようが関係ありません。 ですので、肉体が健康なうちに、一刻も早く心の臨終を済ませ、死の解決をしなければなりません。
「一日も片時も、いそぎて信心決定して、今度の往生極楽を一定せよ」(御文)
(訳:一刻も早く急いで死の解決をし、極楽浄土への往生を決定せよ)

「人生死出離の大事なれば、これより急ぐべきはなく、またこれより重きはあらざるべし」(御裁断申明書)
(訳:死の解決ほどの一大事より急ぐべきことはなく、これほど重いことはない)

「仏法には、明日と申すこと、あるまじく候う。仏法のことは、急げ、急げ」(御一代記聞書)
(訳:今日死ぬかもしれない無常の人生なので、仏法には「明日」ということはないのである。仏法のことは、急げ、急げ)

「誰の人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」(白骨の御文)
(訳:皆早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く深く信じて死の解決をすべきである)

・必ず後悔する
疑情を晴らし死の解決ができなければ、血の涙を流して後悔することになります。
「明日も知らぬ命にてこそ候うに、何事を申すも命終わり候わば、いたずらごとにてあるべく候う。命のうちに、不審もとくとくはれられ候わでは、定めて後悔のみにて候わんずるぞ。御心得あるべく候う」(御文)
(訳:明日もわからない無常の命であり、何をしようとも死ねば意味がない。生きている間に死の解決をしなければ、必ず後悔することになる。よくよく心得なければならない)

仏教を聞いていた人であれば、「もっと一生懸命求道していればよかった」と必ず後悔し、仏教を求める気持ち、善知識を求める心が強く生じます。
「一たび地獄に入りて長苦を受くるとき はじめて人中の善知識を憶す」(般舟讃)
(訳:一度、地獄に入って長い苦悩を受ける時に、初めて人間界の善知識を憶い後悔する)

「彼の衆生地獄に堕つる時、仏において信を生じ追悔の心を生ず」(大悲経)
(訳:人間は、地獄に堕ちる時、仏を思い必ず後悔する)

阿育王譬喩経には、「餓鬼が寒林で屍を打つ」という話があります。 ある日、釈迦が寒林を散歩していると、泣きながら「しゃれこうべ」を打っている餓鬼を見つけました。不思議に思った釈迦が「なぜそんなことをしているのか」と餓鬼に尋ねると、餓鬼は涙で顔をくしゃくしゃにしながらこう言いました。 「私は、前世で人間に生まれておりました。このしゃれこうべは、そのときの頭です。人間界にいたときに、こいつがもっと真剣に仏法を聞いていれば、餓鬼道に堕ちてこんな苦しみを受けずに済んだでしょう。それを思うと悔しくて悔しくて、こいつを打たずにはおれないのです」 この話は、死んで堕ちる餓鬼道について説いたものではなく、人間の臨終の姿を説いています。

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