因果応報は正しいか?科学は因果応報を証明できるか?

因果応報について辞書には次のように書かれています。

「仏語。前世あるいは過去の善悪の行為が因となり、その報いとして現在に善悪の結果がもたらされること。」(大辞泉)

「仏語。善悪の因縁に応じて吉凶禍福の果報を受けること。善因には富楽などの善果を受け、悪因には貧苦などの悪果を受けること。現在では悪因悪果の意で用いることが多い。因果報応。」(精選版 日本国語大辞典)

因果応報を信じる人も信じない人もどちらも多いですが、果たしてどうでしょうか。

因果応報の1部は成り立っている

「自分が勉強すれば自分の成績があがる」といった具合に、因果応報の1部は明らかに成り立っているでしょう。
だからこそ人間は努力するのであり、因果応報をまったく信じていないという人はいません。口では信じていないと言っている人でも、一部は信じているのです。
・人間は近視眼的
たとえば、短期的には因果応報が成り立っていなくとも、長期的に見れば成り立っている例もゴマンと見ることができます。しかし人間は近視眼的ですので、原因と結果との間の時間が長くなるとわかりにくくなります。
「人間は時間的に近視眼的である。煙草が喫煙を開始して数十年後でなく1週間後での発ガンの原因となったとしたら、タバコ業界が全世界で兆ドル規模の産業になど決してならなかっただろう」(ディーン・ブオノマーノ/カリフォルニア大学神経生物学・心理学部教授)

「時間的に遠く離れた出来事の間に潜む因果関係を見抜くことは、意外に難しいと考えられます。このことを見抜くには長期的記憶力、観察力、洞察力、好奇心など様々な知的能力が必要なのです」
「動物は生存に直結する短期的因果関係に基づいて行動する能力は備えています。たとえば、天敵を見たら襲われることを予測して逃げる、餌の匂いがしたら、その近くに餌があることを予測して探す、などです。しかし行った行為に対して結果が現れるのがずっと先のような現象に対し、頭で考えて計画的に行動するということは、その日その日を生きている動物には難しいことです」(台場時生著「人工超知能が人類を超える」より)
バタフライ効果というのがあります。チョウが羽を動かすだけで遠くの気象が変化し、竜巻が起こることもあり得るのです。
「バタフライ効果は大げさに聞こえるが、いまやわれわれはそれが真実であることを自然界や人間社会のあらゆる場面で日常的に見ている。気象、洪水や土砂崩れ、株価暴落、一瞬のよそ見が引き起こす悲劇的な交通事故、ばかげたもめごとからいっきに軍事衝突に発展する国家間の対立。この世界に完全な秩序は存在せず、すべての出来事は無限に変転し、まったく同じことは2度と起こらない。たえず生じる取るに足らない小さなきっかけが、明日には全体を混沌と無秩序へと導く、これが現実世界の本質だとカオス理論は述べている」(矢沢サイエンスオフィス著「科学の理論と定理と法則」より)

・帰納法
たとえば複数の特殊な事実から普遍的な事実を推論する「帰納法」という観察方法があります。「人であるAさん、Bさん、Cさんが死んだ。だからすべての人は死ぬ」という具合です。帰納的な観察をすることで、因果応報の真偽に近づくこともできます。

・強く信じる人もいる
また、信じ方や表現方法は様々ですが、次のように因果応報が真実であると主張する人は時代や場所を問わず多くいます。
「結果を焦るな、因果の帳尻はきちんと合う」(稲盛和夫/経営者)

「因果の法則は、永遠の規範であり、最高理論である」(丹波哲郎/俳優)

「運命のなかに偶然はない。人間はある運命に出会う以前に、自分がそれを作っているのだ」(ウッドロウ・ウィルソン/政治家)

「墨で書かれた虚言は、血で書かれた事実を隠すことはできない」(魯迅/小説家)

「偉大な大工は、誰も見ないからといって、床裏にひどい木材を使ったりはしない」(スティーブ・ジョブズ/経営者)

「刑罰は犯した行為につりあわせよ」(キケロ/哲学者)

「一生懸命やっていると、ちゃんと見ていてもらえるんだな」(高倉健/俳優)

「運命の神秘的な力は恐ろしい。それから逃れられないという点では、富も、戦争も、城壁に囲まれた都市も、暗黒の海で難破した船も変わりはない」(スチュアート・オルソップ/コラムニスト)

他にも、「身から出たサビ」「積善の家には必ず余慶あり」「天網恢恢疎にして漏らさず」など、因果応報を教えた言葉や話も世の中にゴマンとあります。

因果応報の1部は成り立っていない

しかし、因果応報の1部は明らかに成り立っていないでしょう。たとえば第1部で説明した通り、1人殺そうが100人殺そうが受ける死刑の回数は1回で変わらず、原因と結果が釣り合っていません。
また、善い行いをしながら悪い結果を受けたり、悪い行いをしながら善い結果を受けているように見える例も数多くあります。
そのため、悪いことをしたもん勝ちと考えて、凶悪犯罪に走る人間は後を絶ちません。
また、「どうせ努力しても報われない」と悲観し、いわゆるアキラメ主義となって自殺する人も後を絶ちません。
際立った例を1つあげましょう。
儒教の祖である孔子には、顔回という弟子がいました。
3000人いる弟子の中でも徳行第一の人で、人の物は糸くず1つ取ることもなく、ひたすら善に励んでいました。
しかし、生活は貧しく、路地裏のあばら家に住み、毎日の食事にも事欠く有様でした。それだけでなく次から次へと不幸に見舞われ、最後は32歳で夭死しています。
一方、同時代に盗跖という大盗賊がいました。
彼は、一家を皆殺しにした上、屍から肝を取り出してなますにするといった蛮行を平気で繰り返すような男でした。善を行う者を異常に軽蔑しており、そのため孔子を罵倒していました。
しかし、悪の限りを尽くしながら、盗跖は一生捕まることもなく豪華な家に住み、王侯貴族のような生活を楽しんでいました。家族にも健康にも恵まれ長生きしています。
そんな顔回と盗跖の対照的な運命を比べて、孔子は「ああ、天道是か非か」と嘆いたといいます。善を一生懸命している顔回が不幸になり、悪の限りを尽くしている盗跖が幸せになっている、世の中一体どうなっているのかというのです。
また、次のようなエピソードもあります。
ある時、孔子が盗跖を諭すために彼の屋敷に行ったことがありました。要するに、「悪い行いをやめ善い行いをすべきである」と説教しに行ったのです。
それを聞いた盗跖は大声で笑い、顔回と自分との対照的な運命の違いを例にあげながら一蹴しました。
「善い行いをしながら悪い結果を受けたり、悪い行いをしながら善い結果を受けている例はゴマンとある。これをどう説明するのか」
言い返せないでいる孔子を盗跖はさらに責め立てます。
「答えられまい。ぐずぐずしていると貴様の肝を膾にしてくれるぞ。さっさと立ち去れ!」
よほど恐ろしかったのか、孔子は這う這うの体で逃げ帰ったといいます。
程度の差はありますが、世を見渡せば、いつの時代も孔子タイプの人間も盗跖タイプの人間もいることがわかります。

・中途半端な信じ方をしている
人間は、ある時は因果応報を信じ、ある時は信じないといった具合に中途半端な信じ方をしています。
つまり、1人の人間の中に、孔子タイプの心も盗跖タイプの心もあるともいえます。

仏教と因果応報

仏教で説く因果応報については以下のページで詳しく説明しています。

釈迦が1番伝えたかった因果の法則とは

先程の顔回と盗跖の話に戻りましょう。盗跖は、現在恵まれた結果を受けています。ですので、盗跖は過去に善い行いをしたということです。しかし、盗跖は現在悪い行いをしているので、未来必ず悪い結果を受けます。
一方、顔回は不幸な結果を受けています。ですので、顔回は過去に悪い行いをしたということです。しかし、顔回は現在善い行いをしているので、未来必ず善い結果を受けます。
因果の法則にあてはめれば、このようになるでしょう。

・釈迦に笑われる孔子
もしこれら仏説が正しければ大変なことです。釈迦から見れば、盗跖の指摘に言い返せなかった孔子は笑われてしかるべき存在になってしまうでしょう。江戸時代後期の儒学者・頼山陽は、孔子を信奉するあまり、仏教に対して快く思っていませんでした。
ある日のこと、頼山陽は、釈迦が孔子と相撲をとり、釈迦がものの見事に投げ飛ばされている画を書いて、仏教学者の大含に賛を頼みました。皮肉です。
しかし、大含は涼しい顔をしてさらさらと画に筆を走らせました。
どれどれと尊大な態度で頼山陽が覗き込むと、そこには「孔子三世を知らず、釈迦絶倒してこれを笑う」と書いてあったといいます。

科学と因果応報

科学は因果応報を明らかにできるでしょうか。

超心理学

因果の法則と超心理学とで類似点を見出すことができます。
たとえば福来研究で言えば、「過去経験」という言葉は、仏教で説く「業」とよく似ています。福来の著作を見る限り、先に仏説として説明した業の働きについては知らなかったようです。つまり、福来研究(科学)と仏教(宗教)が、この点でも別々のアプローチから一致したといえるのではないでしょうか。
生まれ変わり研究でも、スティーヴンソンが心搬体と呼び、タッカーが「何らかの媒体の存在」と呼ぶものは、阿頼耶識と似ています。
「過去世療法という1つの学問が、カルマの法則の存在を肯定します。とすると、私たちは人生の生き方に1つの指針を得ることができます。それは『人に優しくしなければならない』ということです。人をいじめれば、カルマの法則で考えれば、いつか必ず自分に返ってきます」(加藤直哉)

「魂は、明るい心、優しい心、潔い心、清々しい心、因果応報(カルマ)の意識を記憶している。そして、人間としての善悪ももち合わせている」(神原康弥)

本流科学

たとえば量子論はどうでしょうか。
シンプルな例で考えてみます。
「ポジティブに捉えれば健康になり、ネガティブに捉えれば病気になる」わけですが、これはなぜでしょうか。
ポジティブに捉えれば(善因)健康になり(善果)、ネガティブに捉えれば(悪因)病気になる(悪果)ということですが、人間の心の善悪に応じて肉体の善悪が決まるのはなぜでしょうか。
心の情報を肉体に伝える伝達媒体のような何か(たとえば素粒子など)があるのではないでしょうか。もしそうであれば、福来は観念は生物であると表現しましたが、素粒子はまるで心を持っているかのような振る舞いを見せていると予想されます。そして実際にそのような結果が出ています。
「量子論の科学実験(粒子性、波動性、状態の共存性、波束の収縮性、遅延選択など)によって、素粒子は心を持っていて、人間の心を感知し挙動することが明らかにされた」
「現代生物学の概念では、情報を処理し、それによって行動する能力、したがって心を持っていて、それによって行動する能力を持っているのは有機体(生物)でしかないとされている。これに対し、量子論では、電子は有機体(生物)でないのに情報を処理し、それによって行動するから、電子は心を持っていると認めざるをえないとする」
「この世の万物はすべて心を持っていて、この世のあらゆる事象は、その心を持った万物と心を持った人間との相互作用によって創造されている」(岸根卓郎)

「量子力学の研究者によって集められた証拠によると素粒子が常に判断をしているように見えるということである!そればかりでなく、素粒子の判断らしきものは他の場所での様々な判断に基づいている。素粒子は別の場所で行われた判断を即座に知っているように見えるが、その別の場所たるや、われわれのいる銀河系とは別の銀河系と同じくらい遠いところである。大切なのは即座にということである。ここにある素粒子があちらにある素粒子の判断したことを、その判断の行われた瞬間に、どうやって知ることができるのか」(ゲーリー・ズーカフ)

「量子のふるまいと人間の心のふるまいは、確かにすごく似ていると思うんです。とらえどころがない部分があって不確定で・・・・、という量子の不思議な性質は、心の性質と非常によく似ている。これはおそらく、多くの科学者が感じていることではないでしょうか。脳や細胞間で情報のやりとりをする際に、量子レベルで何かを伝達しあっているということは十分にあり得る。つまりそこで量子もつれと呼ばれる相関関係が生まれるわけです。すごく離れているのに情報が伝わっている。細胞と細胞が連動している。量子の複雑な絡み合いとそれによる情報のやりとりというのは、生命の究極のレベルではあってもおかしくないと思います」(竹内薫)

「光にも心がある。これは、私が光の研究を通して見えてきた世界であるが、その心は、人間の心のようにはっきりと感じる心や、意識する心など多様な心の世界はもってはいない。でも、1つ1つの光子には、統合力に支えられた意志的なものは秘められている」(望月清文)
「統合力」の意味を含め、彼の研究については後で紹介します。
物理学者の山田廣成(立命館大学名誉教授)は「電子には意志、個性があり互いに対話(他者と情報交換)して未来を決め、その結果万物は流転する」と言います。彼は、「意志」を「個体を統合する力」「他者と対話する力」「他者と干渉する力」と定義しています。
「同種の個体が複数で存在していることは極めて重要であり、それがこの世の中の規則や法則を作っている」
「鉄にせよ金にせよ、どういうわけか金鉱石や鉄鉱石、銅鉱石という形で、掘り出される。同種類の個体は集まるという習性がある」
「同種粒子同士のほうが対話しやすいという性質が明らかにある」
「あらゆる個体が、電子も細胞も人間も、それぞれの番地に収まり、安定な状態を形成している。すべての個体には、集合して安定な状態を作りたいという意志があるからだろう。それが実在である」
「すべての個体には意志があるという思想は実に仏教と親和性が高い」
量子論によって因果応報が証明されたと考える人もいます。
「光子の1つ1つは互いに情報を持ち合って、他の空間領域で何が起こっているのか光子同士が追跡記録しながら情報交換していることを意味する。これはまるで、蟻のような生物が有する行動様式そのものである」
「自己の不運や不幸せを嘆く人も多いが、すべては自分の想念が創りあげてきたことで、他人も客体も一切関与しないと言っているのである」(コンノケンイチ)
ちなみに彼は、量子論によって死後の存在も証明されたと考えているようです。
先の超心理研究の結果を考慮すれば、仏教が説くように、悪因は悪果と、善因は善果となるように動いているのではないでしょうか。そこに善悪の区別をつけているのは人間の心であって、素粒子は一定のルールに従って動いているだけ(善因は善果になるべく、悪因は悪果になるべく)ではないでしょうか。
もし、そのような力が働くのであれば、脳など身体のどこかにその徴候が見られるのではないでしょうか。
カリフォルニア大学教授のベンジャミン・リベットらによる有名な一連の実験によれば、行動を起こすことを本人が自覚する0.35秒前(10秒前という研究もある)に脳が行動を起こしているといいます。
「私たちの意識を伴う思考はすべて、無意識に起動し、無意識が始まった後、最大0.5秒遅延します。つまり、私たちの意識を伴う思考はすべて無意識に沸き起こるのです!」(リベット)
これは常識的な感覚から言えば驚くべき結果です。
「最近の知見では、『やろう』という意図を自覚するより少し前に、すでに脳内ではそれに対応する活動シグナルが生成していることが、わかっています。自由意志だと思っていたのに、それより先に脳が動いていたとは、『私』の意識的な自発性って一体なんだったの?そんな疑問が湧いてきます。これは薄気味悪くなるほど驚くべき事実です」(中垣俊之/北海道大学教授/2008年、2010年イグ・ノーベル賞受賞)
この研究結果を決定論の強い根拠にしている人は多くいます。
これは推測ですが、この「無意識に起動させる力」が過去に造った業による力ではないでしょうか。
「予感という現象がたしかに存在することを示す証拠から考えてみると、決断がなされる前にそれが予想されていた、というリベットの観測は、過去をさかのぼることのできる、より高いレベルの意図が存在することを意味しているとも解釈できるのではないでしょうか」(ジュード・カリヴァン/物理学者)

「時間は人間の心が生み出したもの」という物理学の知見も考慮すれば、やはり予知は可能なのかもしれません。
「私たちの直観的なイメージでは、時間は流れると考えています。しかし現代物理学では、時間は流れません。ただそこに存在するだけなのです。そんな馬鹿な、と思われるかもしれません。過去は変わらないし、未来はまだ来ていませんし、現代だけがあるように思えます。毎日毎日、時間がどんどん流れているように思えます。これは実は、人間の心理的な時間の感覚なのです。時間が流れないことを明らかにしたのが、アインシュタインの相対性理論です。相対性理論では、過去・現在・未来という考え方はありません。時間は単に相対的なもので、過去・現在・未来はどれも等しく現実ということになります」
「アインシュタインの相対性理論から、光の周囲では過去から未来まで永遠の時間が過ぎています。もし光に意識があったとしたら・・・・。過去から未来永劫にわたるまで、すべてを知ることが可能となります。様々な宗教の神様というのは、光のような存在としてよく説明されています。もしかしたら、このこととも関係があるのかもしれません。もし私たちの心が、一瞬でも光のような性質をもったらどうなるでしょうか。そうであるとすれば、過去や未来のできごとを知ることができるのかもしれません」(奥健夫/滋賀県立大学工学部教授)

一部の離人症患者は、自己の存在性の喪失と共に、時間の流れの感覚の喪失も訴えるといいます。
「この時間の流れの感覚と自己の感覚が同時に喪失(断片化)するという現象は、一見すると何の関係も無いようにみえる2つの事象(時間と自己)には、共通の心理学的あるいは生物学的な基盤が存在することを予見させるものである」
「ドイツの哲学者イマヌエル・カントは、時間と空間の形式は人間の感性にあらかじめ備わっているもの(ア・プリオリ)であると考えたが、そのような経験に先立つ(先験的な)内なる時間と空間の形式は、赤ちゃんにおいて既に完成されているボディ・イメージによってもたらされているのかもしれない」(三島ジーン/ハーバード大学医学部研究員等)

ちなみに予知夢は私もたまに見るので、予知夢の実在性については体験的に保証できます。小さい頃から体験しているので、夢で見た通りの現実になっても、あまり驚くことも少なくなりましたが、それでも驚き不思議な感じがすることもあります。
写真のように寸分違わない光景が広がり、自分が話す言葉も夢で見た通りで、強制的にしゃべらされているという感覚です。
人間は皆、予知夢を見ているのだろうと思っていましたが、そうではないことがわかったのはもっと大きくなってからです。
リベット自身は自由意志の存在を肯定していたようです。そのように考えていた根拠として、無意識の脳の起動と本人の自覚との間のわずかな時間で動作を拒否する選択ができたことがあるようですが、その後も、無意識の脳からの指令を拒否できることを示す研究はなされています。
また、超心理系の本を読むと、予知した通りの結果となった話だけでなく、予知した結果を変えたという話も少なくありません。福来研究の中にも未来を念写したと思われる事例があります。
そういったことを考慮し、運命と自由意志の関係をまとめると、「運命と自由意志は共存し、常に互いに影響し合っている(ブライアン・ワイス)」ということであり、「『この世』の営みは、ほぼ『あの世』で書かれたシナリオ通りに進行するが、人間は自由意志があるのでシナリオから逸脱することもできる(天外伺朗)」ということではないでしょうか。
そして、どちらがどれくらいの割合かというと、これも難しい問題ですが、多くの人が経験的に感じているように、とりあえずは半々ぐらいと思っていいのではないでしょうか。
「運命は我々の行為の半分を支配し、他の半分を我々自身にゆだねる」(ニッコロ・マキャヴェッリ/哲学者)

「半ばは自由意志を信じ、半ばは宿命を信ずべきである。或は半ばは自由意志を疑い、半ばは宿命を疑うべきである」(芥川龍之介)
リクルートが「大人になって知った人生の真理10」というテーマでアンケートを取ったところ、1位は「人生は『努力』と同じくらい『運』に左右される」だったといいます。
大阪大学名誉教授の櫛田孝司は「量子論的因果律と縁起の理法の比較が、この『偶然』という問題に迫るカギを与えてくれるかもしれません」と言っていますが、無意識に脳を起動させるまでの因果関係(プロセス)を追跡することで、因果応報の解明は進むのではないでしょうか。
もう1つ推測ですが、同類因・等流果と異熟因・異熟果についてです。
後述しますが、素粒子にしても人間にしても、全体としての振る舞いは秩序がありますが、個としての振る舞いは確率で表現されます。同じように、全体としては善因は善果に、悪因は悪果に統合しようとする秩序があるのではないでしょうか。そして、その秩序の上で個々は振る舞い、その振る舞いは複雑すぎて確率でしか表現できず、それを仏教ではこの言葉で表現したのではないでしょうか。
「嘘つきは泥棒の始まり」という諺があります。嘘と泥棒は違うことですが、どちらも悪というカテゴリに入ります。ちょうどそのようなものなのではないでしょうか。
以上のような点を考慮すれば、因果応報も科学で接近可能のように思われます。
「もしその場に含まれている情報が、あたかもウェブサイトのように、それ以前の情報と一貫性をもって統合されているのなら、これまでしばしば注目されながらも神秘的な現象として片づけられてきた因果応報や輪廻転生に対して、意味のある科学的な説明を与えることができる」(アーヴィン・ラズロ)

因果の法則は仏教の要

科学と仏教との一致が見えてくると、まだ科学で明らかにされていない他の教義の信憑性も高まるでしょう。特に、因果の法則は仏教の根幹的な教義です。それが間違っているということがあるだろうか、という思いになるのが自然でしょう。
「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺があります。
思いもよらない意外なところに影響が及ぶことのたとえですが、なぜ風が吹くと桶屋が儲かるのか、その因果関係に納得できる人はまずいません。しかし、次のように細分化すれば、明確な因果関係があることが理解できます。

1.風が吹くと砂ぼこりがおきる
2.砂やゴミで目の病や怪我をする人が多くなる
3.目が見えない人は三味線で生計を立てようとする
4.猫の皮が三味線に使われるため、猫が殺され減少する
5.猫が減ることで、猫が捕食するネズミの数が増える
6.ネズミが桶をかじるので桶が売れ、桶屋が儲かる

ちょうどこのように、因果の法則は、あまりに複雑すぎて人間の知恵に及ばないだけで、狂いなく成り立っているのではないでしょうか。

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