超心理学とは何か。なぜ発展しないのか。これからどうなっていくのか。なぜ重要なのか

超心理学の説明について、辞書には次のように書かれています。

「自然現象に合致しないと思われる超常現象を対象とする、心理学の一部門。感覚を通じないで観念の伝達が行なわれる現象、第六感、心霊現象、テレパシー(精神感応)、透視などを扱う。」(精選版 日本国語大辞典)

「現在の科学では説明不可能と思われる精神現象を研究する心理学の一部門。テレパシー・透視・予知・念力などを扱う。」(デジタル大辞泉)

超心理事例

超心理研究の例をいくつか紹介します。

DMILS

心的意志が生命体に影響を及ぼすことを調べた研究は数多くあり、この分野は、DMILS(Direct Mental Interaction with Living Systems 生体系との直接的心的相互作用)という名称で知られています。
フライブルク大学病院のステファン・シュミットらのメタ分析(メタとは「分析の分析」という意味で、複数の研究結果を収集し解析すること)によれば、40の実験で総計1055試行なされ、全体の偶然比(偶然である確率)は1000分の1とのことです。

「気」「祈り(遠隔治療)」「思念の記憶」DMILS(Direct Mental Interaction with Living Systems 生体系との直接的心的相互作用)

生まれ変わり

「生まれ変わり」とは「人が死んで、別の肉体で再生すること」です。
ヴァージニア大学精神科の主任教授、イアン・スティーヴンソンは生まれ変わり研究のパイオニア的な存在ですが、彼の研究を引き継いでいるジム・タッカーによれば、2500例の事例を集めデータベース化しており、南極大陸を除くすべての大陸で事例を見つけているとのことです。

【最新版】生まれ変わり研究

臨死体験

臨死体験に似た話は古代オリエント(紀元前4000年頃)からあり、ソクラテスの時代から記録されていますが、1970年代から報告が増えました。
それまでは心肺停止すれば、ほぼ確実に死を意味していましたが、蘇生術が発達して死なないケースが増えたためです。
アメリカの世論調査によれば、人口の5%にあたる1300万人が臨死体験の経験があるというデータもあるようですが、はっきりとはわかっていないようです。

【最新版】臨死体験研究・死に際の言葉。「良い臨死体験」への反論。

体脱体験

ジェフリー・ロングによれば、臨死体験者の75.4%が体脱体験をしているとのことです。

幽体離脱

予知・予感

予感とは、自覚していない無意識のうちに働く予知のことです。

予感実験

欧米と日本の違い

超心理学は心霊研究の流れを汲んでおり、心霊研究は「ハイズビルの幽霊屋敷」と通称される事件から始まったといわれています。

心霊研究が始まるきっかけとなった「ハイズビルの幽霊屋敷事件」とは

心霊研究は欧米でも、「ハイズビルの幽霊屋敷」の事件後、心霊現象について賛否両論がありましたが、真面目に心霊現象を研究する学者も現れました。
特にウィリアム・クルックスを動かしたことが大きな転機となりました。彼は、フローレンス・クックという女性霊媒師と、彼女が現したケイティー・キングと自称する物質化された霊を調査、その研究結果を科学雑誌に発表し、「私はこれらの現象が可能であるというのではない。これらは存在しているというのである」と結論づけました。
すると、欧州中の科学者がクルックスを罵りました。クルックスの厳重な研究によって心霊現象が詐術であることが証明されるだろうと期待していたからです。
しかし、心霊現象に対して生涯を貫き通したクルックスの真撃な姿勢は、多くの科学者を動かしました。たとえば、パリ大学のシャルル・リシェ(1913年ノーベル生理学・医学賞受賞)もその一人でした。
「世人は、クルックス氏をただ冷笑することで満足していた。私もその片意地な盲目者の一人であったことを、恥ずかしながら告白する。科学者の勇気を称賛することの代わりに、私はそれを笑ったのだった。今日となってクルックス氏の業績が本当に理解されるようになったばかりである」(リシェ)
リシェは「エクトプラズム」という言葉を生み出し、「不合理である。しかし、真実である」という言葉を残したことでも有名です。
そして、1882年、クルックスが50歳の時、英国のオックスフォード大学、ケンブリッジ大学の超心理研究会を中心にしてロンドンに心霊研究協会(SPR)が設立されます。
初代会長にはケンブリッジ大学哲学科教授のへンリー・シジウイツクが就任し、その後は、アーサー・ジェイムズ・バルフォア(英国首相)、ウィリアム・ジェームズ(心理学者)、ウィリアム・クルックス(化学者)、オリバー・ロッジ(物理学者)、シャルル・リシェ(生理学者)、アンリ・ベルグソン(哲学者)等々の一流の学者が会長の任に就き、心霊研究の発展に尽くしました。
また、デューク大学教授のジョゼフ・バンクス・ラインは超心理学協会を設立、1969年に米国科学振興協会(AAAS)に加盟します。AAASは世界で最も大きい科学組織であり、第一級の科学論文誌サイエンスの発行母体でもあります。この加盟について、ラインセンターに客員研究員として滞在したこともある明治大学教授の石川幹人は「これは形式的には、超心理学が正統的な科学として認知されたことを示す」と言います。
ラインは世界で最初にこの分野の研究を科学的に証明した人とされており、超心理学という言葉を広め、「超心理学の父」と呼ばれています。

一方、日本の超心理研究は東京帝国大学助教授で念写の発見者である福来友吉がパイオニア的な存在です。ロンドンのある記者は、福来の置かれた立場とクルックスのそれと比較して「研究結果は、自分自ら現象を研究しようと思わぬ伝統的科学者によって、反対され、そして嘲笑された。人情は同じ、西でも東でも」と言いました。
しかし、その後の展開に大きな違いがありました。
福来の研究は妨害の連続で、特に千里眼事件以来、否定する学者の活動が活発化し批判は激しくなりました。
「私が念写研究の結果を社会に発表するや、日本中のほとんどすべての学者が一緒になって私を攻撃したものである。そのうえ、私の研究を破壊しようと企てた悪党なども現れて、ずいぶん私を窮地に陥れたものだ」(福来)
その後、大学での研究に適さないとの理由で福来は休職を命じられますが、この休職規定は一定期間の経過後、自動的に退職扱いとなるもので、事実上の追放でした。
福来は、東京帝大文科大学の学長である坪井九馬三の自宅に呼ばれ、「君が大学の教員として透視や念写を研究すると迷信を喚起するから大いに困る」と言われたといいます。
また、日本最初の心理学者で福来の師でもある元良勇次郎からも、「千里眼問題に対する君の考えは、大学諸教授とは非常に相違しているから、それを研究するには一時学校から離れてやったほうが君のためにも、学校のためにもよい。君の今の研究は心理学者による同情がない」と言われてしまいます。
大学を追い出された当時の心境について福来は、「つまり、私は日本の学界から放逐されたようなものであったのです。その時の私の心持と言ったら、言葉に絶した悲しみと寂しさで一杯でありました」と振り返っています。
この追放に納得できない人は少なくなく、たとえば生物学者の中沢信午(山形大学名誉教授)は、「公務に怠慢でなく、公私混同もなく、詐欺師でもなく、えてして詐欺や迷信の横行する心霊現象に、手を染めたというだけで・・・・」と憤ります。
福来に限らず心霊研究肯定派への風当りは悪く、たとえば、与吉は上司から、「身いやしくも司法官の職にありて、かくのごとき問題に関係することは面白くない」と訓戒を受けていました。
一緒に研究を続けてきた今村新吉も離れていくなど、福来は孤立無援となってしまいます。
こういった流れがあって、福来友吉という稀有な超心理学者がいたにもかかわらず、日本では迷信として排斥してしまい、欧米と大きな違いが生まれたのです。
「日本ではじめて心理学の博士号を取得した福来友吉が、御船千鶴子らの実験を行って、前述したように東京帝国大学を追われた。ここから日本における超心理学の『封印』がはじまったと言ってよい」(石川幹人)

「イギリスではスピリチュアルセラピィによる治療が病院で行われています。また、霊的先進国のロシアでも実際に患者を透視して霊的治療が行われております。しかし日本では昔、東京帝国大学が福来友吉助教授の念写や透視の実験を批判して以来、研究者は霊的問題をタブーとしてしまい、それが今でも後遺症として残っており、霊的な問題に対する研究は立ち後れてしまっております」(樋口雄三/東京工業大学名誉教授)

「日本は不思議な国です。明治以前には『霊』の存在を当然のこととしてきたのに、今では(お盆の『迎え火』など形骸化された風習としては昔のなごりが残っているものの)、過去の欧米に追従して、この種の現象を真面目に考えようとしない風潮が、特に科学者の間に強くあります。アメリカでは、否定的なものにしても、最初から一流の研究者が一流の医学雑誌で論じていますし、アメリカ心理学会でも既に1977年から、毎年ではないにせよこの種のシンポジウムが行われております」
「欧米諸国はこの方面で、ある意味ではむしろ昔の日本に近づきつつあるのに、逆に日本は、過去の欧米の水準から一歩も進もうとしないのは、まことに皮肉というほかありません」(カール・ベッカー/京都大学教授)

このような欧米と日本との違いについて万朝報は次のように報じています。
「日本の理学者は念写を否定するに反して、米国においてはさらにこれを研究せんとする学者あり。迷信と心理研究を混同して軽率に念写を否定するは恐らく学者の所為にあらざるべし」

なぜ超心理学は発展しないのか

ディーン・ラディンが言うように、「いくつかの超心理現象の存在については、懐疑的な視点にありながらも偏見をもたない科学者ならば、十分に説得できるほどの証拠が積みあがっている」と思われるのに、まだまだ発展しているとは言えない状況です。
1960年に、ダートマス大学における会議の中で、米国科学振興協会の元会長であるウォーレン・ウィーバーは、「私はこの超心理学という分野全体が、知的な観点において、非常に気の毒な状態に置かれていることを述べておきたい。私が気の毒だと言うのは、その証拠は否定できないのにその結論をみなが受容しないからだ」と言っていますが、この状況が今も続いているということです。

発展を阻害する要因

その原因を簡単にまとめれば次のようになるでしょう。
「その原因はもはや、実験の不備でも分析の未熟さでもない。受け入れる側の思想や信条の問題なのだ。その成果は科学的方法を踏襲して得られているにもかかわらず、『非科学的だ』などのいわれのない批判にあい、本流科学分野から黙殺されている。超心理学の境遇を事例として、客観的な営みであるはずの科学でさえも人々の集合的な信念に左右されているという、衝撃的な事実を一般の人々に伝えたい」(石川幹人)
もっと詳しく言えば、カール・ベッカーも主張するように、主に次の3つの理由が考えられるでしょう。
・迷信やオカルトとの混同
1つは迷信やオカルトと混同しているという理由です。
報告される事例のほとんどが偽物なので、それは無理もないことかもしれません。
たとえば、SPRの幹部であるバリー・コルビン博士は、「心霊現象に悩まされているという連絡は年間100件程度。そのうち調査する必要があると感じられるものは、1~2%。さらに、実際に現場を訪ねてみて、本物の心霊現象だと感じられるような事件は、ほぼ皆無。(本物の心霊現象は)干し草の中から針を見つけるようなものだ」と言います。
福来は戦後になっても批判され続けました。
寺沢龍は、この理由として「物理学者、中谷宇吉郎(北海道大学教授)の存在がある」と指摘します。
中谷は藤原咲平の後輩であり、世界で初めて人工雪の製作に成功し、雪博士として知られている人物ですが、彼は漫談家の徳川夢声との対談で「千里眼は詐術」と言い切っています。(週刊朝日 昭和26年8月12日号)
たとえば夢声が「日本じゃ福来友吉という博士が千里眼を支持したために、こんな詐術にまどわされるようでは学者の資格がないというので、大学を追われたことがありましたね」と言ったことに対し、中谷は次のように言っています。
「あの千里眼の時は、藤原咲平先生が現地へいきましてね、あれは詐術であるということを発見してきたんです。科学と矛盾することはいけないんですが、ことに詐術じゃ困りますからね。詐術であることを見分けるだけの科学的知識はもっていなきゃいけない」
そして、アメリカで心霊学の研究が盛んであることについても中谷は「このごろ、とくにひどいですね。心霊学の研究なんてものを、大学の心理学の教室でやっていますよ」と言っています。
藤原は詐術を発見したとは言っていませんし、そもそも実験は行われなかったにもかからず、2人はこのような話を影響力のあるメディアで語っているのです。
また、福来と一緒に何度も実験を行い、透視や念写を肯定している井上哲次郎(東京大学教授)は藤原に、「私は何回も、透視や念写の厳密なる実験を重ねているが、透視や念写は確かに事実である。君はなぜ、千里眼事件録を書いて、念写は手品であると言ったのか」と詰問したところ、藤原は井上の家をわざわざ訪ね、「実験録において、むしろ手品であったかの如く言ってはいるが、実験録は迷信を撲滅する1つの政策であり、本当に透視の不能を証明したものではない」と言っています。
この夢声と中谷の対談を、中沢信午は次のように批判します。
「夢声も中谷も、自分自身では研究もせず、実情も調査せずに、単に面白おかしく話を進めているにすぎない。夢声は、本来が漫談家だから仕方ないとしても、自然科学者である中谷の、この発言は科学者にあるまじき言葉であろう」
中谷は、たとえば著書「科学の方法」の中で、「現在われわれが科学と呼んでいるものでは、取り扱えない、あるいは取り扱うことが非常に困難な問題は、いくらでもある」とか、「今日ほど科学が進歩しても、まだまだわれわれの知らないことが、この自然界には、たくさん隠されているということは、常に頭に入れておいてよいことである」と言っています。
このように現代科学の欠点を知っていたはずなのに(科学の欠点を知らない科学者はまずいないでしょうが)、実際に「取り扱うことが非常に困難な問題」に直面すると否定してしまう典型例といえるでしょう。
同様の例をもう1つあげます。
評論家の立花隆は「山川健次郎と超能力者・千里眼事件」と題する記事を書いていますが、この論述は、小見出しの1つが「東大物理学教室、透視術を暴く」となっているように、千里眼が詐術であるかのような論調になっています。
事実と違う箇所が散見されますが、一例を挙げます。
「何者かが準備室をのぞき見し、それを郁子に伝えているのに違いなかった」
「透視においても、郁子に本当の能力がないのは明らかだった」
「山川はあからさまにその疑念を暴露するのも酷と思ったのか、長尾判事を自分の泊まる旅館に呼んで、しばらく語り合うと、長尾はもうこのような実験は2度とやらないと言ったので、以後すべての実験を中止することになった」
「後年、山川は、郁子のことを聞かれて『あれは透視でも何でもない。一種の術をやっていたにすぎない』と語った」
千里眼実験が始まった当初から、山川の権威を利用して、山川が千里眼を否定したとか詐術を見破ったとかさかんに吹聴されましたが、山川自身は生涯を通じて否定したことも肯定したこともありません。たとえば、山川は、東京時事新報に次のように発表しています。
「某紙の伝うる如く、『政策上千里眼を撲滅』しようとか、『千里眼嫌い』などと書かれているのは大いに自分の位置が誤解されている結果である。千里眼に対する自分の位置と態度とを弁明して置きたいと思う。他余の人は知らず、自分としては透視は絶対に不可能であるとは言えない」
また、心理学者の小熊虎之助は、発表した論述の中で「山川が長尾郁子の念写の実験でその詐術を見破り千里眼を否定した」という記述をしていたことがありました。
それを見た福来が不審に思い、山川にその事実を問い合わせたところ、山川から次のような返答がありました。
「念写を拙生(私)は丸亀における会合の結果として否定も肯定も仕らず、かつ長尾夫人ともその前後会見仕らず、いずれへの決定も仕らず候。右の次第につき論文において否定せしことこれ無く候。講演においても同前に御座候」(福来心理学研究所報告 第3巻所収)
これは山川が死ぬ4年前に福来に送られたもので、この一件は小熊が誤っていたことを認め、福来に謝罪しています。
引用箇所を見ると立花は「男爵 山川先生伝」という本を参考にしているようですが、この本は山川の功績を称えるために書かれたものであり、発行者はあの中村清二となっています。
「その記述には必ずしも事実の認識が正しいとは思えない箇所が多い。(中略)『知の巨人』も中村清二の術中に嵌まったかという思いは遺る」(寺沢)
しかし、今や本物の超心理現象の存在を示唆する証拠が出ています。
BBC(英国放送協会)の元記者、ジェフリー・アイバーソンは「超常現象をばかばかしい迷信だとして一笑に付している科学者は、まず間違いなくガンツフェルト実験を知らない」と言っていますが、ガンツフェルト実験に限らず、単純に実験内容を知らないためにオカルトと混同してしまっているということです。
「私はそれまで、自分は心理学の分野について、十分に勉強していると思い込んでいたが、自分の知識がごく限られたものにすぎなかったことがわかってきた。この分野の研究や文献資料が図書館にはこんなにたくさんあるのに、ほとんどの人はそれを知らないのだ。こうした研究の多くは、高名な医師や科学者によって行われ、証明され、再確認の作業が行われていた。彼らがみな、間違えたり、だまされたりしているのだろうか?どの証拠も、圧倒的に輪廻転生の存在を支持するものだった」(ブライアン・ワイス)

・感情的な反発
また、感情的な反発という理由もあります。
たとえば、物理学者のヘルマン・フォン・ヘルムホルツは、「たとえ英国王立協会員のすべてが超心理現象を認める宣誓供述書に署名し、自分自身が実際に体で超心理現象を体験したとしても、私は現象を信じない」と断言しています。
このような狂信的なまでに頑なに否定する態度は非科学的な態度です。
「ヘルムホルツのこのような断言は、哲学的には価値を持たないばかりか、非常に非科学的な発言といえる。しかし、逆に言えば、多くの科学者が自らの偏見に無意識だったり、認めなかった中で、ヘルムホルツは自身の偏見を明らかに認識していたことになる」
「ファラデー、ティンダール、ハックスレイなどの著名な科学者たちは、超常現象についての報告や実証でさえ否定した。そして、これらの科学者たちは、超常現象を研究しようとするライバルを中傷したり、研究の業績を歪曲するなどして、心理的な妨害を行ったことが知られている」(カール・ベッカー)

「そうした懐疑論者たちはまるで、唯物論の教義を守ろうと必死にしがみつく、熱狂的原理主義者であるかのようだ」(ルパート・シェルドレイク/ケンブリッジ大学フェロー)

「他の学術研究者たちが声を荒げるのは、純粋に、彼らの現実が脅かされるという危機感からでしかない。そうした反論には恐れや嫌悪が見えるばかりで、科学的根拠が示されることはない」(ジム・シュナーベル/科学ライター)

「超心理学研究所の研究が確かなものであることを私に信じさせたのは、超心理学を批判する人々自身であった。私は何十年にもわたる議論を追い、彼らの異議申し立てに対する研究所の答えを読んだあとで、批判者側の身の処し方を見ると、結局反対は間違いであったと潔く敗北を認めて異議をひっこめているか、うまいことうやむやに処理されているかであることを発見した。そうでない時は、彼らは自分たちの異議に満足のいく答えを与えたことでラインに勝ち点を与えることをよしとせず、負けも認めず、議論も続けず、自分の分野にひきこもって沈黙を守っているのである」
「ラインの周辺を調査しているあいだ、私はこの種の偏見に何度も何度も遭遇することになった。もしラインが正しいことを証明されたとして、この科学者たちは何か失うものがあったのだろうか?彼らがよりどころとしていた『科学的方法』は、よりよいデータが示されたならば、どのように守りが堅くても、その教義を放棄するように求めていたはずではないか。
科学者たちは、歴史を通じて考えもつかない発見をし、理屈にあわない、そして時には致命的な抵抗に直面してきたのだから、我々は科学者とはもっと素直な人々だと思いがちである。
しかし、19世紀の自然科学者たちは、当初ダーウィンの進化論に反対した。当時の物質世界の考え方にあわなかったからである。ダーウィンの発見と折り合うためには、それまでの定説を葬り去る必要があった。新発見は知的な損害をもたらすというよりも、感情を傷つけるのだ」(ステイシー・ホーン/「超常現象を科学にした男―J.B.ラインの挑戦」著者)
このような感情的な反発は現代の日本でもまだあります。
大門正幸は、ある著名な心理学者と超心理の話をし出した時の体験を語っています。
その普段温和な学者が、キッっと睨みつけ、顔をこわばらせ、吐き捨てるように、「私、超心理学なんて信じませんから!」と言ったといいます。
「この言葉には心底驚きました。普段、緻密で科学的な研究を進めていらっしゃる方の口から出た言葉とはとても思えなかったからです。『学者としてありえない対応ではないだろうか』と驚いてしまったのです。しかも、その時、その方が筆者に向けた恐怖と敵意と怒りが交ざったような視線は今も忘れることができません」
「この時ようやく、科学者の中には科学的に考えない人がたくさんいるのかもしれないということを真剣に考え、憂えるようになりました」
「科学者が健全な懐疑精神をもつのは何より大切なことです。しかし、懐疑論者を名乗りながら実は狂信的ともいえる『科学教』の信奉者も少なくないようです」(大門)
超心理に関心がある人で、このようなリアクションをされてショックを受けた経験がある人は多いでしょう。
私自身は物理学科の学生時代に初めて受けました。それと同時に、ステイシーも言っているように、超心理研究への信憑性が高まったことも覚えています。
そうした態度を反省する人も中にはいます。
ジョゼフ・ラインの大学の同僚だったドン・アダムスは、ラインに「控え目にしたほうがいい」と進言していた多くの人の1人でしたが、後に次のように本心では感情的に反発し、ラインの失敗を願っていたことを反省しています。
「私は真実を求めていたのではなく、彼の結論が間違っていることを求めていたのだ。自分の価値観の根底をなす信念がゆっくり、しかし容赦なくむしばまれていくという経験をしたことがあるだろうか?私は進化論に追い詰められた天地創造説を信じるキリスト教原理主義者にさほど同情したことはない。しかし、様々な意味で彼らとよく似た状況に直面し、自分が同じくらい不当な行動をとったことを考えると、彼らの行動はそう奇妙なものだとは思えなくなってくる」
エベン・アレグザンダーは次のように、体験前は自分も同じような見方をしていたことを反省しています。
「要するにみんなは私がなんとかして伝えようとしている話を、受け止めることができずにいたのだった。しかし、私にそれを責めることができるだろうか。私自身も以前であれば、受け入れられなかったに違いないのである」
「臨死体験をめぐる『科学的』な解釈を読み進めるにしたがい、それらの見え透いた弱点に対してショックを受けた。しかし同時に、以前の自分が臨死体験について何かを語るとすれば、間違いなくそうした点を指摘していたであろうことも、悔しい思いで認めざるを得なかった。医師という職業にかかわりのない人々には、そうした問題点がわかるはずがないのだ」
「懐疑的な多くの科学者と同様に、私はこうした現象にかかわるデータにあたろうとすらしてこなかった。そんなことが起こり得るとは考えられないと頭から思い込み、データにもその提供者にも先入観を持っていたからだった。確かな証拠が豊富にそろっているにもかかわらず、拡張意識または超意識現象には裏づけがないと主張する人々は、かたくなに目を塞ぎ続けているだけなのだ。事実など確認する必要はない、本当のことはわかっていると考えているのである」
また、体験の力は強いため、体験者の中には現代科学を信奉している自分との間のギャップに悩むということもあり得るでしょう。
これもNHKで紹介された事例ですが、大阪大学の研究員だった佐藤数行さんは、自身の臨死体験を最初は否定したといいます。
「ある意味自分のやってきたことの無力さ、科学の無力さとでも言うんですかね。でも、何か超常的なことがあって・・・。無力さというのが一番つらかったですね。説明できない無力さ」(佐藤さん)

・社会的な圧力
さらに社会的な圧力という理由もあります。
たとえば、超心理に肯定的な人でも、否定的な人からの嘲笑を恐れ、信じていることを隠してしまうということがあります。
要するに、いじめと同じで、いじめられることを恐れて声をあげなくなるのです。
「日本では、超心理問題に関心ある科学者は、隠れキリシタンのように、その関心をひそかに内蔵していなければならない感がある。幸いにも今日では言論の自由が保証されているから、超心理が政治的弾圧を受けることはない。それでも『あの人は超心理を信じているらしい・・・』などと、ひそひそと噂に上るのは確かである。今日、クルックスの伝記などには、簡単に『一時、心霊現象の研究に熱中した』などと、いかにもそれが彼の汚点であったかのように記されているのは、超心理がまだ一般に異端視されていることを示す重大な意味を含んでいる」(中沢信午)
この点は、特に日本人の国民性とも言うべき心理が悪い方向に働いているのではないでしょうか。
「沈没船ジョーク」なるものがあります。
世界各国の人たちを乗せた船が沈没しかけており、彼らを海に飛び込ませるために船長は次のように言って説得したといいます。

アメリカ人に:「飛び込めばヒーローになれます」
イギリス人に:「飛び込めば紳士になれます」
ドイツ人に:「飛び込むのはルールです」
イタリア人に:「海で美女が泳いでいます」
フランス人に:「飛び込まないでください」
ロシア人に:「海にウォッカのビンが流れています」
中国人に:「おいしい食材(魚)が泳いでいます」
韓国人に:「日本人は飛び込んでいます」
日本人に:「皆さん飛び込んでいます」

これは世界的に有名なジョークのようですので、やはり日本人は人の目を気にしやすく社会的な圧力を受けやすい国民性なのでしょう。
どれほど偉大な科学者とされる人でも、この分野に手を出せば軽蔑されたようです。
たとえば、発明王と称されるトーマス・エジソンは「死後の個性には、記憶、知性、現世で獲得した能力や英知も残ると考えるのが論理的でしょう。そして、死後の個性は、後世の人々と交信したいと考える」などと語り、死者と交信する機械のアイデアを発表していますが、その際にそのような扱いを受けたといいます。
嘲笑ぐらいなんだと思うかもしれませんが、人一倍名誉を求める科学者にとって、嘲笑は人一倍怖いものです。
たとえばダーウィンは世論の嘲笑を恐れ、「種の起源」の出版を20年ほど延期しています。
嘲笑よりもっと酷いのは抑圧行動です。
先に説明したように、福来は大学を追放されました。
能力者の高橋貞子に対しては、ある日「今後生命に注意せよ」という脅迫があり、実際に、その数日後に江戸川付近で刃物を振りかざした書生風の男に襲われました。
戦時中には、神国日本の国家目的に反するとして何人もの超能力者が獄舎に幽閉されました。
また、現代ではテレパシーや千里眼を信じる人間は精神障害者にされてしまう可能性もあります。
たとえば、DSM-5(精神障害の診断と統計マニュアル第5版)の「統合失調型パーソナリティ障害」の診断基準は次のようになっています。
「親密な関係では急に気楽でいられなくなること、そうした関係を形成する能力が足りないこと、および認知的または知覚的歪曲と風変わりな行動で特徴づけられる、社会的および対人関係的な欠陥の広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。以下のうち5つ(またはそれ以上)によって示される」
9項目あげられていますが、その第2項は次のように書かれています。
(2)行動に影響し、下位文化的規範に合わない奇異な信念、または魔術的思考(例:迷信深いこと、千里眼、テレパシー、または「第六感」を信じること;子どもおよび青年では、奇異な空想または思い込み)
そして、診断的特徴として次のように書かれています。
「これらの人々は迷信深く、彼らの下位文化の規範から外れ、正常とは外れた現象にとらわれていることがある。彼らは出来事が起こる前にそれを感じたり他人の考えを読み取ったりするような、特別な力をもっていると感じているかもしれない」
実際、超心理を信じたことで精神障害のレッテルを貼られた人は多くいます。
精神科医のレイモンド・ムーディーは臨死体験を研究したために、精神を病んだと思った父親に精神病院に入院させられ、そこの医師から躁鬱病と診断されています。
「自宅にひきこもり、厭世観に襲われ、世の中との交流を断ったこともある。もっとひどくなることもあった。何年にもわたり私は、こうした自分の状態を公にしないよう、なるべく語らないように努めてきた。それは自分の評判に傷がつくのではないかとおそれたからだった」(レイモンド)
ちなみに、この父親は自身が臨死体験をして信じるようになったといいます。
以上、社会的な圧力について説明しました。
ただ、グローバル化の良い面がでているのか、この点は日本でも少しは変わりつつあるのかもしれません。
東京大学医学部教授である矢作直樹は「学内バッシングなどはとくにありませんでした」と言い、明治大学で超心理研究をしている石川幹人も「大学で超心理学を研究することに対して、福来が東京帝国大学で経験したような批判を、私も学内で受けるだろうかと危惧したが、総じて好意的に受け止められた」と述べています。
「理工学部の長老先生からは『我々が行うべき仕事をやってくれた』と激励の言葉をいただき、心霊研究に傾倒している文学部の先生からは『超心理学は進展が遅い』とお叱りの言葉まで頂戴した」(石川)
また、2014年には「NHKスペシャル 超常現象 科学者たちの挑戦」が放送され、はっきりと超常現象があるとは言っていませんが、概ね肯定的にとらえているように思います。
そして2019年には「生まれ変わり」が政策提言に登場しています。
人間は権威に弱いため、上が変われば下も変わっていくのではないでしょうか。

以上、超心理の発展を阻害する主な理由をあげましたが、まとめますと、感情的な反発や、迷信・オカルトとの混同といった理由から超心理を信じられず、たとえ肯定的であっても、社会的な圧力を感じて沈黙したり信念を変えてしまうということです。このあたりの批判は、今日ではすでに出し尽くされているといっていいくらいなされていると思われます。
ちなみに、超心理の問題に限らず人間は真実を追究しても誤りやすいですが、その理由は大体この3つで説明できます。3つの力が働いて真実をはねつけてしまうのです。次巻以降でも人間がいかに迷いやすい生物であるか、様々な角度から説明していきます。

〇「証明されていない」という人たち
「証明されていない」という点も触れておきます。
このように言う人には、正しい懐疑論者と否定論者がおり、問題は否定論者です。
超心理に肯定的な人でも、「科学的に証明された」と思っている人はほとんどいないでしょう。
ですので、一見すると、この主張は正しいかのように思えますが、そうではありません。正しい懐疑論者は証拠に目を向けようと努めます。
「最初は、トリックやでっちあげを暴いてやろうと思って文献購読を始めたのだが、読めば読むほど厳密な研究の姿勢に感心して、同時に人の心の時空を越えた広がりを実証するのは、こんなにも難しいものかと驚きもした。気がついてみたら、ミイラ取りがミイラになってしまっていたのである」(中村雅彦/愛媛大学教授)

しかし、否定論者はそのような努力はせず、証明されていないことを間違っていることと同義にしてしまうのです。
これを数字で表すと、現代科学の基準を仮に100として、否定論者は0か100かで考えており、100になってない(証明されてない)=0だ(間違いだ)、という論法になってしまっているのです。言うまでもなく、100ではないことは0であることと同じではありません。
このように、一見すると正しい懐疑論者のフリをして、実態は否定論者になってしまっている人のことをエセ懐疑論者とかインチキ懐疑論者などと言って批判する人は少なくありません。
たとえば、懐疑主義団体CISCOP(サイコップ)の立ち上げメンバーであり、東ミシガン大学の社会学者マルセロ・トルッツィは次のように言います。
「私は経験的に、オカルトの99%が間違いであることを疑ってはいません。しかし、そこへ迫るためには、十分な資格がある人々による、証拠にもとづいた調査をしなくてはなりません。単なる徹底的な有罪宣言であってはならないのです」
「ラインたちは諸問題を、科学における、合理的な謎の領域として研究していました。懐疑主義は否定ではなく、疑いであるべきです。不可知論でなく否定論の立場をとる批評家は、実のところニセ懐疑論者です。本当の懐疑論者は不可知論なのです。彼らは主張が否定されたとは言いません。主張は証明されていないというのです」
その後、トルッツィはCISCOPの姿勢を批判し袂を分かっています。
彼だけではありません。
「この分野は数人のいかさま懐疑論者たちにより、不当な汚名を着せられ続けている。彼らはいかにも『自分たちは全うな懐疑論者である』という顔を、人々にしてみせる。だが、そんなものは鼻で笑われてしかるべき話なのだ」(マリオ・ボーリガード)

「私は親切だが疑り深い、骨の髄まで医師の典型というべき人間だった。その私が言うのであるから間違いないが、疑り深く見えている人々の大多数は実際のところ、本当の懐疑論者ではない。真に疑うのであれば、それを真剣に取り上げて吟味しなくてはならない」(エベン・アレグザンダー)

「『否定のための否定』という立場を貫かれる場合は、このような死後研究をいくら述べたところで、意味をなさないでしょう。ただ、各国のまじめな研究者たちの研究成果を、先入観を捨ててみていただければ、100パーセント否定することもできないという事実に気がつかれるのではないでしょうか」(加藤直哉)

ライト兄弟が飛行機を作った時、ジョンズ・ホプキンス大学のサイモン・ニューカム教授は「空気より重い物体が飛行するなど絶対に不可能」と言いました。隕石が降って来た時も電気が発見された時も、いつの時代も新しい発見がなされた時は似たようなリアクションをする人がいました。
超心理は科学の対象になっておらず、偽物で溢れ、自身に体験もないのですから、最初のリアクションとしては健全ですが、その後の態度が不健全なのです。
そういうエセ懐疑論者は、本書の内容で言えば「因果応報は証明されていない」と言うことでしょう。そして、「死後が必ず地獄であることは証明されていないから安心」と思うことでしょう。
求めるべきは100ではない証拠ではなく、0である決定的な証拠です。100ではないという批判を繰り返しても、「死後は必ず地獄」という命題を覆す決定的な証拠にはなりません。100になってない(証明されてない)という指摘が無駄ということではなく、その点だけに目を向け、肯定的な証拠に目を向けず、0である決定的な証拠を求めようともせず、安心してしまっているのが間違いです。
しかし、懐疑的というスタンスではいられず否定してしまう否定論者の証拠に目を向けない姿勢、証拠と見なせる範囲の狭さにはかなり驚きます。ディーン・ラディンは、有力な証拠が出ているのを知りながら無視される超心理の状況について、「スーパーマーケットで異星人が買い物をしているのを皆が見ているのに、誰も問題にしないのと同様の状況」と表現しました。
2019年3月、東京大学やカリフォルニア工科大学などの共同研究チームが、人間には地磁気を大まかに感じ取る能力があるとする研究成果を米国の専門誌に発表しました。
人間の感覚は視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感だけで、磁気を感じる力はないとされていましたが今回発見され、チームの眞溪歩(またに・あゆむ)東大准教授は「人間に未知の第六感があることが確認された」と語っています、
このように、人間にはまだまだ未知の能力があることもわかっているのですから否定はないでしょう。
「見えないゴリラ」と呼ばれる有名な実験があります。
研究者たちは、あらかじめ録画しておいたバスケットボールの屋内試合の映像を流し、チームの中でボールがパスされた回数を数えるよう被験者たちに指示しました。
すると作業に集中するあまり、ゴリラのぬいぐるみを着た人間がコートを横切ったことに気づかなかった人がかなりいたというものです。
この類の実験は多いですが、ちょうどこのようなものといえるでしょう。
「1つのことに注意を払っていると他が見えなくなってしまう、そんな人間の傾向をこの実験は見事に示しています。『心は脳が生み出している』、『人間は死んだら無になる』、そう考える多くの科学者たちは、パスを数えるのに夢中になって、ゴリラを見落としてしまった、この実験の協力者達のように思えます」(大門正幸)

超心理の未来

こういった状況におかれた超心理研究は、今後どうなっていくのでしょうか。人間がやることなので封印されてもおかしくないですが、進展する可能性があるとしたら次のような場合ではないでしょうか。
・実用化
実用化できれば、先に説明した3つの理由を含め様々な問題がクリアされていくのではないでしょうか。
1995年、米国議会は政府主導で過去に行った超能力に関する調査の検証を求めました。その結果は次のようなものでした。
「再検討の結果、こうした研究結果が偶然であるとはとても言い難い。これらの結果が実験の方法論的な誤りによって導き出されたと反論する声があるが、その可能性はない。政府支援によるこうした研究と同じような結果は、世界各地、数多の研究所でも同じく確認されている。これらを、単なる過ちや虚偽として捉えるのには、いささか無理がある。将来におけるこうした研究においては、超常現象がどのようなはたらきをもち、どのように有効利用できる可能性があるのかを検討することに重点をおくべきだ。証拠の確認を目的とした研究を続けることに、多くの価値は見いだせない」
つまり、仕組みが未知のまま実用化するということですが、それはよくあることです。
「それは、科学や医学の世界ではよくあることだ。たとえば、薬物療法が有効だと判断されるのは、多くの場合、その薬の効果が決定的に証明されたわけではないにしても、実際に効果があることを裏づける証拠が存在するためだ」(ジム・タッカー)
もしかすると今は、電気が注目され始めた頃と同じような状況なのかもしれません。
「昔の電気がそうでした。初期の電気などは手品師の素材でしかなかった。それが今日、電気がなければ世の中がパニックに陥るほど、私たちは電気に頼る生活をしています。そういうことが可能になったのは、電気の発生と測定と制御ができるようになったからです。電気の正体そのものは、いまでもわからないことばかりです。つまりエネルギーのようなものは、それを引き出せて、測定して、コントロールできれば十分に利用できるのです。
宇宙エネルギーについては、今その引き出し方(発生)がわかりかけてきたところです。不十分ではあるが計測もできるようになっている。あとはそのエネルギーを蓄え、コントロールが自在にできるようになれば、人類の新しいエネルギーとして電気を超える利用が可能になるのではないでしょうか」(佐々木茂美/電気通信大学名誉教授)

「私たちは絶え間なく電気を生成していますし、大気の帯電に応じて変化する磁場のなかを歩いてもいます。ところが、何千年ものあいだ、何百万人もの人々が電気の存在に気づかずにすごしてきました。きっと、テレパシーについても同様なのです」(ベルグソン)
そして、実用化され世間に定着すると学者は「後から」態度を変えるのかもしれません。
「学者は、新たな発想を否定する理由を考えるのがおそろしく得意だ。最終的にそのアイデアが否定できないほどすばらしく、コミュニティに定着すると、そんなものは自明であり、正しいことは最初からわかっていたと主張する理由を見つける」(スティーブン・スローマン著「知ってるつもり 無知の科学」より)

カリフォルニア大学の研究チームは、重度の障害を抱えた人々のコミュニケーションの手助けとなるツール(頭の中で考えた電話番号に、携帯から電話をかけられる)を開発し、思念だけで、また簡単なトレーニングを受けただけで、誰もがほぼ100%間違いなく電話をかけられることが確認されたといいます。
Facebookやgoogleの元役員だったマリー・ルー・ジェプセンは言います。
「この技術を応用すれば、いずれは映画監督は脳から夢をダウンロードしてそのまま映画にできるし、プロダクト・デザイナーは頭に浮かんだアイデアを直接3Dプリンターに送り、模型を制作することもできるようになる」
脳波でコントロールできるというドローン「UDrone」なるものも作られており、日本でも販売されているようです。
お笑いタレントの劇団ひとりがテレビ番組で操作していましたが、コントロールが難しいようで、「まず己に向き合う必要がある」と語っていました。
エンタメ業界が先かもしれないし、医療業界が先かもしれません。
意識がありながら、まばたきすらできず、その事実を伝えるいかなる手段も持たない患者もおり、こういった患者がいることは脳画像法で判明しました。
コレージュ・ド・フランスの認知神経科学者スタニスラス・ドゥアンヌは、「おそらく20年後には、自分の意思で車いすを操る四肢麻痺患者や閉じ込め症候群患者の姿が、日常的に見られるようになるだろう」と言います。
「新たに登場するテクノロジーのおかげで、いつか他者の心が読めるようになるだろうことは間違いない。(中略)インターネットとワールドワイドウェブの出現以来、世界が途方もない変化を遂げてきたのと同じように、世界の動きは劇的に変わるだろう。だが私たち人間という種はそれに適応するだろうし、そうした変化もすぐにこの世界にとって当たり前の在り方になるだろう」(エイドリアン・オーウェン著「生存する意識」より)
現状は、このようなツールはブレイン・マシン・インターフェース(BMI)と呼ばれ、「脳波」を利用しているということになっていますが、やがてこれまで説明したような仕組みが明らかになるかもしれません。

・他分野の発展
たとえば、本流科学からのアプローチで超心理を結びつけるものが見つかるかもしれません。
とりわけ期待されるのは、やはり量子論ではないでしょうか。
「大地が足もとから崩れ落ちていき、依って立つ基盤がどこにも見当たらないような気持におちいった」(アインシュタイン)

「自然というものは、それほど不条理な性質を持つものなのだろうか」(ハイゼンベルク)

「量子理論に初めて接した人で衝撃を受けなかった者は、おそらくこの理論を理解し得なかったに違いない」(ニールス・ボーア)

「もしあなたが量子力学を理解していると思うなら、あなたは量子力学を理解していないのだ」(リチャード・ファインマン)

量子論は原子や素粒子といったミクロな世界の物理現象を扱う分野ですが、量子の不思議な振る舞いを知れば誰でもこういうリアクションになるでしょう。
「『量子』には『不気味』という言葉がどうしてもつきまとう。同時に二か所に存在したり、障壁の向こう側にテレポートしたり、並行世界を訪れたりといった不気味な出来事は、もし日常生活で起こったら完全に奇々怪々だろう。しかし、原子や分子というミクロの世界ではつねに起こっている。これほどたくさんの量子の魔法が用意されているのであれば、生命はそれを利用しているとも考えられるだろう。そして確かに利用しているのだ!いくつもの重要な生物学的プロセスに、不気味な量子の持つ何らかの側面が使われているかもしれないことをうかがわせる証拠が、ここ数年で増えてきている。そして、量子の魔法が生命全般に行き渡っているかもしれないという、思わせぶりな手掛かりも得られている」(ポール・デイヴィス/アリゾナ州立大学教授)
マリオ・ボーリガードは「量子論は、唯物論の世界観に強烈な一撃を食らわせ、その器を粉砕して無限の可能性の世界を開拓する」と表現しました。
粒子であり波動でもある二重性、片方の粒子が変化すると遠く離れた(たとえ宇宙の果てでも)他方も瞬時に変化し、アインシュタインが不気味な遠隔作用と呼んだ「量子もつれ」など、超心理現象と量子の性質とで様々な類似点があります。
そのため、超心理を論じる人はまず量子論にも触れます。
「量子論は可能性の地雷原である。超常現象は今のところ科学の本流に受け入れられていないが、量子が伝統科学の学者たちの、そんな現象は信じる信じないの”らち外”だというかたくなな態度を吹き飛ばしてくれたこともあって、将来に可能性を残している」(ジェフリー・アイバーソン)

「量子論の世界では、ある人が量子を観測しようとすると、その行為が観測対象に影響を及ぼすという現象が知られています。量子力学には初めから『人々の意識が物質世界に影響を及ぼしているかもしれない』という考え方があるのです。その意味で、超常現象は量子論と親和性があると言えます」(ブライアン・ジョセフソン/ケンブリッジ大学名誉教授)

「『気』の性質と素粒子の性質を比較すると、多くの類似点がある。たとえば、『念写は距離や時間の枠組みを超えて出現するが、その効果は減衰しない』、『透視・念写は遠距離でも可能であり、時間の枠組みには拘束されない』は、素粒子の『二面性』と『非局所性』で説明される。(中略)また、『再現性に欠ける点がある』は素粒子も『気』も同一である」(佐々木茂美)
説明してきたように、現代科学は心は脳の産物だと考え、脳を調べれば心もすべてわかると信じて疑いません。しかし、いまだに単細胞生物1つつくれない現状をみると、従来のアプローチに問題があるのではないでしょうか。
「私は今、自分の肩書きの分子生物学から分子をとって、さらに分解ではなく統合の方向で考えたいと思っています。遺伝子と遺伝子、あるいは要素と要素をむすびつけている力のあり方については、暫定的な見通しではあるけれど、量子論的な同時性みたいな方向でしか解けないんじゃないかな、と今は考えています」(福岡伸一/生物学者/青山学院大学教授)

「通常の量子論の範囲を広げた『弱い量子論』が、ワラチらにより提案されています。量子論の枠組みを、大きくしようという試みです。弱い量子論の特徴は、次のようになります。
①相補性:硬貨は2つの側面があって初めて存在できます。同様に、ものごとには2つの側面がありお互いに補うことで、本当の姿を述べることができるという考えです。
②全体的なエンタングルメント:量子がお互いにつながりあいをもっています。
③プランク定数hのような値はない:量子の最小単位がはっきりしなくなります。この弱い量子論の特徴は、生命の特徴に似ているところがあり、生命現象を説明することに使える可能性があります」(奥健夫/滋賀県立大学工学部教授)

不確定性原理の提唱者であるハイゼンベルクが言うように、「目に見えない生命力のような存在を否定できない段階に至っている」のでしょう。
量子生物学の発展を見ると、人間にはもっと未知の能力があることがわかります。
「欧州のコマドリでも、外部の地磁気の量子と自分の目の細胞の量子とが絡み合いをして、方向性が定まることが量子生物学でわかっている。それがあるぐらいなら、外部の量子と自分の身体の中の量子が、さまざまに絡み合いをしているだろうと、容易に推測できる。量子に付随する情報に、人間が超意識下でアクセスしているらしいことは、さまざまなスピリチュアルの記録があるので、実際にそれが起きているのであろう」(久慈直登/日本知的財産協会専務理事)

乱数発生器を使った実験などから、意識と量子のつながりを示す証拠はそろってきた段階といえるかもしれません。
「意識の集中と、量子で働いている乱数発生器の異常との間に、偶然とは言い切れないような、かなりはっきりした相関関係が観察されているのは事実である。意識と量子のつながりを示す状況証拠はかなりそろってきた段階だといえるかもしれない」(「NHKスペシャル 超常現象 科学者たちの挑戦」より)
(乱数発生器は電子的なコイン投げ器で、純粋にランダムなコイン投げを1秒間に数千回もの速度で行える。コイン投げの表と裏のかわりに、乱数発生器は0と1のランダムなビットを生成する。念じた方向に乱数が偏る結果が得られており、たとえばプリンストン大学の心理学者ロジャー・ネルソンとディーン・ラディンによる乱数発生器実験のメタ分析によれば、515の実験で偶然比10の50乗分の1と算出されている)

ディーン・ラディンによれば、250人の被験者に2本のスリットの片方だけに念ずるという実験を行ったところ、ほぼ全員が、壁に偏ったスリットの映像を映すことができたといいます。
量子論で超心理現象を説明しようとすると次のようになるのかもしれません。
「予知やテレパシーなどの超常現象もまた、不可視な世界の宇宙の意思と可視の世界の人間の意思が、電子の波動の世界を介して引き起こす共時的現象であるから、科学的にも何ら不思議ではない」
「祈りには電子の波動(エネルギー)が大きく関与しており、祈りがその電子の波動を介して電子の粒子(物性)に作用すると、それが電子の粒子(物性)に変化を生じさせ(量子効果)、物性の創生や消滅に関与することになるから、そこに願望の事象が生まれ(波束の収縮)、それによって祈りは実現する」(岸根卓郎/京都大学名誉教授)
量子論の世界的権威で、32歳の若さでノーベル物理学賞を受賞したブライアン・ジョセフソンは、ノーベル賞創設100周年を記念して英国郵政公社が発行した記念切手セットに添付された小冊子で次のように語っています。
「量子理論は、今や、情報理論や計算理論と結びついてきており、このような発達によって、伝統的な科学の枠内では未だ理解されていない、たとえばテレパシーのようなものの働きがいずれ説明できるようになるかもしれない」
そして、「テレパシーや、心と物質の相互作用(念力)のような現象が、やがて科学に受け入れられ、事実と認められる日が来ると思う」と結んでいます。

超心理研究の重要性

心と科学はどのような関係にあるか説明します。

心は科学の対象外だった

次のような理由から心は科学の対象外でした。
「『科学的』であるためには、理論的な説明がつくこと、それゆえ『論証性』があること、および、いつでも実証できて、再現できること、それゆえ『実証性』と『再現性』があることの3つの基本的条件が満たされることが必須条件とされてきた。そのため、『論証性』も『実証性』も『再現性』も保証されないような『心の世界』といった曖昧な世界の研究は非科学的であるとして完全に排除ないし捨象されてきた」(岸根卓郎)
しかし、「心の世界といった曖昧な世界を無視してつくられた仮説は現実から乖離するという重大な欠点がある(岸根)」のです。
・人生の根本問題に科学は無力
エジソンは、ある記者に「君は何をしにここへ来たんだ?この地上に」と問いました。
記者が答えられないでいると、エジソンは「ほら、そうだろう。われわれはわかっていない。わからないんだ。わかるには限界がありすぎる。本当に重要なことは、人間にはまだつかめていないんだ」と言ったといいます。
また、サイエンスライターのコンノケンイチは「この世に生きているとは?誰も避けられない死とは?死後の世界は?こうした肝心なことに人類は完全に無力で、現代科学には権威しかない」と言って死んでいきました。
心を対象外にしてしまったことによっていろんな問題が生じてきますが、人間にとって何よりも問題なのが人生の根本的な問題に対して科学が力にならないということでしょう。無数の宗教ができてしまった一因です。

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心に科学のメスが入る

たとえば、量子論によって不可解な心の世界の多くを科学的に説明できるようになるかもしません。
そうであれば、「科学的見地からも、ついに心の時代がやってきた!(岸根)」ということになるでしょう。
「人間は、これまで洋の東西を問わず『宇宙の不思議』や『心の不思議』や『命の不思議』や『生死の不思議』など、総じて『人類究極の謎』を解き明かそうと様々な試みを行ってきた。ちなみに、『科学的な試み』や、『宗教的・哲学的な試み』や『芸術的な試み』などがそれである。しかし残念ながら、そのどの試みも『単独』では所期の目的を達成することができないことが判明した。ところが、幸いなことに、私は、量子論の登場によって、外なる物質世界へ向かった西洋も、内なる精神世界へ向かった東洋も、同じ山頂を目指すようになり、やがて人類にとっての真のパラダイムが切り開かれることになると考える」(岸根)

「人間の徳性とか経験とか、これまでは科学でなかったものが、いまは科学に組み入れられるところまできている。物理学はすでにその方向に進んでいるし、私のみるところ、心理学もそちらの方向に向かおうとしている。そうなれば、いよいよ『心の科学の時代』が始まることになる」(ブライアン・ジョセフソン)

認知神経科学者の金井良太(サセックス大学准教授)は、次のように「心も数学によって表現できる」と言います。
「数学の一分野である統合情報理論によれば、意識(心)も情報の量として数学的に定量化できるばかりか、情報の形(情報の質)としても数学的に計算できる」
つまり、「人類は、すでに心の問題までも、数学によって科学的に把握できる段階にまで進化してきている(岸根)」ということでしょう。そして、必然的に宗教にも科学のメスが入ることになります。

「超心理に興味がない」と言う人の間違い

この分野にあまり興味がない人も多いでしょう。
比較的肯定的な人であっても、自分で積極的に真偽を追究しようとまで思う人は少なく、興味がある人や、科学の発展に任せるといった「待ち」のスタンスでいる人がほとんどでしょう。かくいう私も、「ある事実」を示唆する証拠が出てなければ、そのようなスタンスでいたはずです。否定はしなかったと思いますが、それほど優先順位が高いことだとは思わず、他のことを優先していたでしょう。
しかし、「ある事実」を示唆する証拠が出ているとなると話が変わってきます。「ある事実」とは「死後は必ず地獄」ということです。これを示唆する証拠が出ているとなると、緊急度は一気にあがり、そのようなスタンスではいられません。
これほど人間にとって重大なことはありません。火に焼かれれば、火を消すことが最優先になります。猛火が迫ってくれば、猛火を避けることが最優先になります。死は将来的には100%、早ければ今日やってきます。積極的に興味を持って真偽を追究しようとしなければなりません。事の重大さにおいて、天動説か地動説かといった問題の比ではないのです。
・優先すべき超心理研究
同じことは超心理に興味がある人にもいえます。
優先すべき超心理研究は、死後の地獄の解決法です。他の研究よりはるかに優先度が高いのです。
そうであるのに、いつまでも他の研究を優先するということになれば、仏教でいう戯論(優先する必要のない議論)であり、有名な「毒矢のたとえ」のようなものでしょう。
1人の弟子が、何か思いつめた様子で釈迦のもとにやってきました。
哲学が好きだったこの弟子は、釈迦がある種の問題について解答を示さないことについて不満を持っていました。それは、「この世界は有限であるか無限であるか」といったものです。
「答えを示してくれないならば、私はもう修行をやめようと思います」
弟子がこう言うと釈迦は、1つのたとえを出しました。
「ここに1人の男がいて毒矢で射られたとする。彼が、私を射た者は誰か、私を射た弓はどんな弓だったのか、その矢はどんな形をしているか、それらのことが解明されぬうちはこの矢を抜いてはならない、といったならばどうだろうか」
弟子は答えました。
「なんという愚か者でしょう。何が大切かわかっていません」
現代の超心理学者も、きっと釈迦に叱られたはずです。
世界には優れた科学者がたくさんいるのですから、そういった人たちが優先すべき研究に注力すればもっと強力な証拠が早く見つかるでしょう。

・体験は遅い
ほとんどの人は0である決定的な証拠も100である決定的な証拠もないまま臨終に突っ込み、体験的に決定的な証拠を得ることになります。
言うまでもなく、死は体験した時には手遅れです。体験的に証明されますが、証明された時にはもう手遅れということです。ですので、自分が死ぬ以外の方法で明らかにする必要があります。
しかし、科学的な証明というのは体験しない人に信じさせる強い力を秘めていますが、遅いという欠点があります。アインシュタインが「私は、理詰めで考えて新しいことを発見したことはない」と言い、湯川秀樹が「科学は直観で把握して、後に理性で処理する」と言った通りです。
今のペースだと、科学で証明される前に自分が死ぬ可能性のほうが高いでしょう。
ですので、今出ている証拠から推論するという努力が重要になってきます。
また、さらなる科学の発展を待たずとも、信ずるに足る証拠はすでに出ています。
もっと言えば、福来研究の時点で証拠はすでに出ています。わざわざ福来研究から長々と取り上げた理由はいくつかありますが、「信じる」とは何か、証拠とは何かといったことを考えるいい機会でもあるからというのが1つです。
さらにもっと言えば、仏教が説かれた2500年前であろうと、それよりもはるか昔であろうと証拠はありました。目を向けようとしなかっただけです。

「当たり前の話」と言う人の間違い

「そんな難しいことを言わなくても、あるものはあるでいいじゃないか」とクレームしてきた人がいたと石川幹人は言っていますが、このように思う人は少なくありません。
一言で「信じる」といっても、いろいろな信じ方があります。
たとえば、殺生で言えば、「魚や虫を含めて、すべての生き物は人間と同じ価値がある」と言う人は多いですが、魚や虫を殺してどれほどの罪悪感を感じているでしょうか。同じ価値だと思うなら、人間を殺した時と同じぐらいの罪悪感を感じているはずですが、そうではないはずです。それは、本心では命の価値が同じだと思っていないからです。
このような、言っていることとやっていることが違う「嘘つき」に、科学が正しい信じ方を与える可能性があります。
また、仏教徒であれば当然「業」を信じているという人は多いですが、信じ方は千差万別です。
たとえば、西本願寺勧学(学階の最高位)の源哲勝は著書「業の認識と弥陀の救済」の中で次のように語っています。
「業の思想について、それがはたして現代の科学の批判に堪えうるかどうかを問題とする人がある。しかし、その問題は私の問題とはならない」
「業思想が科学的に正しいか正しくないかの問題ではなく、業の道理によって心が安定し、心の喜びを感じられるかどうかが問題なのである」
これは情緒的で曖昧な信じ方であり、今風に言えば「ふわふわした信じ方」であり、はっきり言えば業が何なのかよくわからないということでしょう。
福来は、次のように仏教学者は神通力を迷信だと思っていると指摘していますが、これは今でも同じでしょう。
「現代は科学万能の時代である。仏教学者も科学思想に支配せられ、これと矛盾するものを迷信と思っている。だから科学と矛盾する神通を彼らが信じ得ようはずがない。仏典中に神通のことが記載されてあっても、彼らは唯仏の徳を讃美する形容にすぎぬものとしてそれを省き、科学と矛盾せざる部分のみをひきだし、それを仏教だと言って宣説するのである。かくして宣説される仏教は科学万能の現代人にはよくわかるであろうけれど、吾人から見ると魂の抜けた仏教である」
業や神通力だけではなく、死後の存在や因果応報、罪悪等々、あらゆる超心理現象にいえます。
仏教界のリーダーからしてこの調子です。世間の人が仏教を信じられないのも無理がありません。
このように情緒的で曖昧な信じ方をしている仏教者に、科学が正しい信じ方を与える可能性があります。
仏教が、真実を追究する学問である科学の批判に耐えられる宗教であるかどうか、大いに問題としなければならないはずです。

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