【自利利他】人を幸せにする幸せ。その限界と本当の価値

人を幸せにする幸せ

これも研究に次ぐ研究が示すように、孤独感を始め様々な苦悩を、愛を与えること、人を幸せにすることで減らすことができます。
カナダの生理学者、ハンス・セリエは、人を幸せにすることでストレスを減らし幸福感が多くなると言いました。ちなみに、ストレスという言葉は、1936年にセリエがストレス学説を発表して以来、広く使われるようになったといわれています。
スタンフォード大学心理学教授のルイス・ターマンが1000人の被験者を、その幼少期から死亡まで追跡調査した「ターマン調査」でも、親切な人は長生きするという結果が得られたといいます。
愛されたいと思っているほど精神的な健康度は低く、愛したいと思っているほど精神的な健康度は高いようです。
「『愛したい』と思っている人ほど、うつ傾向が低く、社会的活動に障害がなく、不眠が生じにくいということがわかりました。現代社会では、人から『愛される』価値が強調されていますが、それよりも人を『愛する』ことのほうが精神的健康にとっては重要だということでしょう」(越智啓太/法政大学文学部心理学科教授)

「親切は人を幸せにし、心臓によく、老化を遅らせる。親切は人間関係を改善する。そしてどんどん拡散する。親切な行為をすると、この5つが一緒についてくるのだ」(デイビッド・ハミルトン著「親切は脳に効く」より)

「嫌なヤツが出世したり、裕福になることは数多くのデータによって示されているものの、彼らは、必ずしも人生を楽しんでいない。ところが、道徳的な人々は幸福度が高いことが調査で裏づけられている」
「人を信頼しないこと、互いに助け合わないことにより、彼らは幸福になれる多くの機会を逃しているのだ。調査によると、私たちは自分自身にお金をかけるより、他者のためにお金を使う方が幸せになれる」
「さらに驚くべきことに、他者を助けるために時間を提供する人は、忙しさが減って、自由な時間が増えたように感じるのだという」(エリック・バーカー著「残酷すぎる成功法則」より)

ドイツのリューベック大学で行われた被験者50人を対象としたMRIスキャンを使った実験でも、「与えることが、自分を幸せにする」ことを示唆する結果が得られています。
実験では、気前の良い行動を取った後の被験者らに自分自身の幸福度を自己申告させたところ、一様に、与えることは快感を覚える経験だと述べました。同時に、気前の良さに関連する脳の部位が、幸福感に関連する別の部位の反応を誘発したことがMRIスキャンで明らかになったといいます。
超心理研究からも同様の結果が得られています。たとえば、第1巻でも紹介した医療ジャーナリストのリン・マクタガートは、祈りの実験から、人を癒そうと祈ることで自分にも癒し効果が得られる「リバウンド効果」があることがわかったといいます。そして、この効果は、水などの物を対象とした祈りでは生じなかったそうです。
「『リバウンド効果』が起こるには実験のターゲットに必要不可欠なものがあると、私は理解し始めていた。それは、『自分以外の人間』の存在だ」
「意識を送る実験参加者には、他人に焦点を当てることで自分という感覚が薄れ、脳右側の自己認識をする領域、つまり創造力の他に主に恐怖、心配、気分の落ち込みといったネガティブな感情に関係のある脳の領域がただちに抑えられる」(リン)
また、祈りの研究で知られる医師のラリー・ドッシーは、「祈りが効くために最も重要な要因は『愛』である」と言い、他人のために祈ることで「祈っている当人にとっても良い作用をおよぼす」と言います。
逆に、利己的だと苦しむことになります。
「脳の回路を分断し、脳全体のバランスを崩し、働きを鈍らせてしまう”犯人”はエゴなのです。私たちは誰しも『まずは自分』『自分さえよければ』といった『エゴ』を持っています。(中略)
私たちが豊かに幸せに生きるためには、これらのエゴを少なくし、脳全体をバランスよく使うこと(脳を私心がない状態に近づけること)が大事なのです」(岩崎一郎/ノースウェスタン大学医学部脳神経科学研究所准教授)

多くの死者を出した第2次大戦終了時のシベリア抑留(ソ連軍による日本軍捕虜に対する強制労働)では、パンをもらって、こそこそと1人だけ食べた人が早死にしたといいます。
人を幸せにすることの大切さを教えた次のような話もあります。
ある人が地獄の様子を見に行きました。意外なことに、地獄では御馳走が並べられていました。しかし地獄の住人は、御馳走が目の前にあるにもかかわらず、皆ガリガリに痩せ細り苦しんでいました。よく見ると、長い箸で食べようとしているため食べられないでいたのです。
次に、極楽の様子を見に行ってみました。すると極楽でも同じように長い箸を使っていましたが、皆おいしそうに御馳走を食べていました。よく見ると、近くの人と互いに食べさせ合っていたのです。

他と異なる幸福感

このように、人を幸せにする幸福感も強いものがあります。また、他の幸福感とは質が異なる幸福感ともいえるでしょう。欲を満たした時の幸福感とは違う、「人間とはかくあるべきだ」と思わせる幸福感です。そのため、慈善活動をしたり、次のように人を幸せにすることで幸せになろうと考える人は非常に多いです。
「他人のために生きる人生だけが生きがいのある人生だ」(アインシュタイン)

「利他の心でものごとをとらえることができれば、すばらしい社会が築けるはずなのです」(稲盛和夫/経営者)

「人生はまさにブーメランだ。人に与えたものは手元に返ってくる」(カーネギー/作家)

「幸福になりたいのだったら、人を喜ばすことを勉強したまえ」(マシュー・プリオール/詩人)

googleも「Googleが掲げる10の事実」の最初に、「ユーザーに焦点を絞れば、他のものはみな後からついてくる。Google は、当初からユーザーの利便性を第一に考えています」と書いています。
このことを教えた、いわゆる「たらいの法則」というのもあります。たらいに入ったお湯を自分にかき寄せるとお湯は逃げていき、逆に押し出すとお湯は自分に返ってくることから、こう名づけられています。

自利利他

仏教には自利利他という教えがあります。利とは幸せのことで、自利で自分の幸せ、利他で他人の幸せです。
自利利他とは、人を幸せにすると自分に幸せが返ってくるという教えであり、人を救うことは自分を救うことという教えです。逆に言うと、人を不幸にすると自分に不幸が返ってくるという教えであり、人を苦しめることは自分を苦しめることという教えです。
・自他不二
不二とは、紙の裏表のように、二つではないが一つでもなく、互いが密接に関連しあっているということですが、「自分」と「他人」は不二であり、切っても切り離せない関係にあります。

・なぜ利他をすると自利があるのか
利他をすれば必ず自利がやってくるとは、因果の法則の1つである、善因善果の法則ということです。
これまで説明してきたように、結論から言うと、人間は愚痴の煩悩があるため深く信ずることはできません。だから救われないのですが、利他をして自利が返ってこないことは千に一つ万に一つありません。
盗跖のように悪の限りを尽くしながら恵まれた生活をする人もいれば、顔回のように一生懸命善をしながら不幸な一生を終えた人もいますが、どちらも因果の法則で説明することができます。

・2種類の仏教
仏教は大きく、自利仏教と利他仏教とに分けられます。
自利仏教:人を救うことよりも、自分の救いを優先する仏教です。小乗仏教ともいいます。
利他仏教:自分の救いよりも、人の救いを優先する仏教です。大乗仏教ともいいます。こちらが正しい釈迦の教えです。

利他も限界のある幸せ

世間でも幸福研究が盛んですが、結論をみると、「金や名誉といった名利に価値を置く人ほど幸福度が低く、愛に価値を置く人ほど幸福度が高い。だから人を幸せにしましょう」という流れが多いようです。
このように利他で幸せになろうと考える人は多いですが、「人を幸せにする幸せ」も無常の幸福の1つにすぎません。
つまり、「続かない」「安心できない」「満足できない」「相対的」「苦しみが解決できない」「不幸になる人を生む」「有無同然」といった致命的な欠点がある不完全な幸福です。
幸福が無常の幸福になっている限り、無常の幸福を与えて無常の幸福が返ってくることの繰り返しにすぎません。利他をするのは大変なことであり、利他をしないと幸せが得られないという境地は、善悪の区別がある不完全な境地です。
残念なことに、今日、この不完全な境地を「仏」だと思っている人が多くいます。たとえば、脳科学者の中野信子は「仏」について次のように語っています。
「法華経を最高の経典として称えた日蓮は、仏という存在を固定的にはとらえず、菩薩道を行じつづけていく凡夫の姿の中に仏があると説いています。この話は、脳科学的な見方からも納得できる話です。『成仏=仏になる』というゴールがあって、そこにたどりついたらもう菩薩行をしなくてもよいというなら、それ以後は脳にとってなんの刺激もない、退屈な状態に苦しみ続けなければならなくなってしまいます。幸福感は感じられず、脳もどんどん衰えていってしまうでしょう」(中野信子著「脳科学からみた『祈り』」より)
もしこれが「仏」の境地なのであれば完全な境地とは言えないはずです。仏教教学上からいっても間違っており、詳しくは後述します。

利他は自己を知る手段

利他は他の無常の幸福同様、死の解決のための手段です。そして、死の解決は自己を知ることで達成できるため、特に自己を知るための手段です。自己がわかるというのが1番の自利になります。

愛は学ぶべきもの

愛は、他の無常の幸福同様、人生の目的ではなく、自己を知るための手段です。愛は幸せになるために求めるべきものではなく、学ぶべきものです。手段の価値しかないともいえますし、手段として大きな価値があるともいえます。
世を見渡せば、「綺麗で美しい愛、純粋な無償の愛がある」という主張で溢れてしまっています。意識するとしないとにかかわらず、自分に対しても人に対しても嘘をついているのです。完全な愛があると思っていれば、「裏切られた」と恨んだり、理想と現実のギャップに苦しむことになります。
不完全な愛だと頭でもわかっていれば、裏切られても「仏説の通りだった」と学ぶことができます。詩人の石川啄木は、「ひとりの人と友人になるときは、その人といつか必ず絶交することあるを忘るるな」と言いましたが、どんな人間関係にも同じことがいえます。
「愛の進化の大元をたどってみると、そもそもの愛は『個と種を維持するために用意された生物学的な仕組み』であると思われます。そしてより高度な『無償の愛』は、生物進化に伴って派生した『愛』の亜種と見ることができます。そうだとすると『愛は生きる目的』ではなく、どちらかというと『愛は生きるための手段』だといえます」(台場時生著「人工超知能が人類を超える」より)

利他をする生き方が幸せな生き方だと思いながらも、愛の欠点にも気づき苦しんでいる人もいるでしょう。そのような人も、愛が目的ではなく手段だと考えると納得できるはずです。

利他は悟りのキーファクター

自利利他は、大乗仏教の根本精神です。
怒る時も私憤からではなく、正論を言う時も理性だけでなく、どんな時でも常に、根底に利他心が流れていなければなりません。
説明したように、現代では利他が健康のキーファクター(重要な要因)であるという人は多いですが、それだけでなく悟りへのキーファクターでもあると大乗仏教では説くわけです。
むしろ健康にいいというのはオマケにすぎず、悟りに近づけるというもっと大きな力を利他は秘めているということです。

・1番重要な誓い
すべての求道者が、求道をスタートする時に立てるべき4つの誓いがあり、四弘誓願といいます。

【四弘誓願】すべての求道者が、求道をスタートする時に立てるべき4つの誓いとは何か

1番最初に「衆生無辺誓願度」が立てられていますが、この流れの通り、他を救うことが最優先です。衆生とは生きとし生けるものすべてを指し、もちろん人間も含まれます。

・科学が近づく

第1巻で説明した内容に加え、科学が明らかにした世界は、それを裏づけているのではないでしょうか。
たとえば、ジャコモ・リゾラッティ(パルマ大学人間生理学教授)が発見したミラーニューロンもその1つではないでしょうか。
「私たちは、他者が体験している痛みや悲しみ、嫌悪感を知覚すると、自分がそうした情動を経験するときに関与するのと同じ大脳皮質領域が活性化する。ここから、私たちと他者をつなぐ絆がいかに強力で深く根づいたものであるかがわかる。換言すれば、『私たち』を抜きにして『私』を考えるのは、奇妙この上ないのだ」(リゾラッティ)

「科学者たちは私たちがお互いを大切にすることは、人間の本能に矛盾していないことも発見しました。私たちの頭脳にあるミラーニューロンの発見がそれを示しています。ミラーニューロンは、私たちが行動しているときや何かを経験しているときにだけではなく、誰かが私たちの周囲にいるときにも発射されます。他者の悲しみや喜びを見ることが、私たちの脳にまるで自身の悲しみや喜びのような反応を引き起こすのです。
同情や共感は、私たち自身を惑わす何かではなく、人間がもともと持つ潜在能力であり、ニューロンシステムの構造に、それらが織り込まれている、と考えるべきことなのです。私たちが、自己中心的な群れをなして資源と生存を争うのではなく、コミュニティでの調和した生活を発展させていくことは、人間がもともと持っている能力のひとつなのです」(アーヴィン・ラズロ/ニューヨーク州立大学教授)

「互いに深く連結するように生物学的に配線され、進化的に設計されてきたことを、この細胞は教えているように思われる」
「私たちは生まれつき共感を覚えるようにできており、だからこそ社会を形成して、そこをさらに住みよい場所に変えていくことができるのだ」(マルコ・イアコボーニ著「ミラーニューロンの発見」より)

「自他を明確に区別し、他者を本質的に理解不可能な存在と想定する人間理解は、改訂を迫られることになるでしょう。われわれは、四六時中、他者の行動をミラリングしており、ミラーニューロンには自他が相互に乗り入れ、自他不二的に分離不可能となっているのです」(立木教夫/麗澤大学教授)

リゾラッティも、ミラーニューロンの働きは、利他的行動が進化したメカニズムであるかもしれないと考えています。
ミラーニューロンだけではありません。
脳の進化の原動力は社会性にあるというのが社会脳仮説の基本的な了解事項です。
ジョージタウン大学の生理学者、キャンデス・B・パートは、利他主義がなぜ免疫機能を高めるのかについて、「愛情あふれる人間関係をつくるように、人間が進化してきたからです。そのメカニズムをもっていない者は何万年も前に死に絶えたはずです」と言います。
「親切は集団のメンバーのあいだに強い絆を作り、集団を強くする。この強さが生き残りを左右するのだ」(デイビッド・ハミルトン)

「狩猟採集時代の人類は協力集団を形成して生き残ってきました。その集団のメンバーは互いに他者を助けることで、集団全体として生活が成り立っていました。だから私たちには、進んで人助けをすると嬉しくなる傾向や、人助けをするのは義務であると思う傾向が強くあるのです」(石川幹人/明治大学教授)

「人間と人間を結びつける目に見えない力を注意深く眺めてみると、さらに深遠なことがわかってくる。私たちの脳も体も、別個にではなく集団で機能するよう設計されているのだ。社会的なつながりは、たんなる潤滑油ではなく、人間のオペレーティングシステムの基本的な構成要素なのだ」(ジョン・T.カシオポ/シカゴ大学教授)

「自分の考えを他人に効果的に伝達する能力こそがおそらく、表記が私たちに与えてくれた一番重要な力であり、人間の文化の軌道に最も深遠な影響を与えてきた力なのだ」(「ヒトの目、驚異の進化」より)

「ヒトは、利他主義をテコとして個体レベルだけでなく集団レベルの選択の結果として生まれた。そこに言語の発生が加わることで、遺伝と文化の共進化という進化のブースターがもたらされる」(吉川浩満著「ヒトの社会の起源は動物たちが知っている 『利他心』の進化論」より)

「最古のヒトの種が誕生してから、脳が巨大化するにつれ、社会的交流に費やされる時間も増加した。この上昇傾向はオックスフォード大学のロビン・ダンバーが推測している。ダンバーは現存するサルと類似年の二種類の相関関係を用いた。1つは集団の規模と毛づくろいの時間の関係、2つ目は類人猿の集団規模と脳の容量との関係である。この手法をアウストラロピテクス属と彼らから生まれたホモ属の系統の種に広げれば、1日当たりの『社交に要する時間』は約1時間から、ホモ属の最古の種で2時間、現生人類では4時間から5時間に増えた可能性を示唆している。要するに、社会的交流の時間が増えることが、脳がより大きく、知性がより高度に進化するカギだったのである」(エドワード・O・ウィルソン)

「生物には、自己保存の本能があると同時に、他者と協調しようとする本能も存在し、この本能は生物学的要因として本来、備わっているものなのです」
「他の人の気持ちに寄り添い情けや愛情をかけることが視床下部でのオキシトシン発現を増加させる要因になっています。オキシトシンは心臓血管系を強くし、新陳代謝を円滑に保ち、痛みを和らげ、抗ストレス性を強めるなどの作用に関連しています」(高橋徳/ウィスコンシン医科大学名誉教授)

「人が心をひとつにできる関係を持てるとなぜ良いのか、根拠の1つは、愛情ホルモン、幸せホルモンなどとも呼ばれるオキシトシンがたくさん出るようになるためです。オキシトシンは妊娠、出産、授乳など子育ての際に重要な役割を果たすこと、抗ストレス作用が働くこと、多幸感を与えるなど、様々な働きをすることがわかっています。(中略)
オキシトシンは前頭前野の活性を変えて、自分と他者を同志として捉える効果を持っていること。また自身と他者の区別を少なくする効果があり、自分のことでなくとも、他者に対して自分ごとのように反応する効果を高めること。また、成功は自分によるもの、失敗は他責という考えを減少させる効果があり、他者を助け、他者を生かすように脳を使う効果があることもわかりました」(岩崎一郎)

「遺伝子は、自身の繁栄を目指すという意味においては利己的な存在なのでしょう。実際、無性生殖のみを行う細菌は、まったく利己的にしか見えません。
しかし、有性生殖のシステムを持つようになった生物は、利己的なだけでは生きていけないのです。生殖細胞が減数分裂して卵子と精子をつくり、1つの受精卵を産み、新たな個体をつくり上げていく、この壮大なドラマは、利己的な遺伝子に支配された細胞だけでは、ストーリーを進めていくことができません。『自ら死ぬ』という利他的なふるまいがなければ、種の存続に適した個体をふるいわけることも、精巧な身体の形をつくることも、複雑な生命活動を維持していくことも不可能だからです。もし遺伝子が『自分を殖やすこと』だけを考えていれば、結局、生物はいまのような繁栄も進化もできなかったことでしょう。
遺伝子が利他的な存在であるということをもう少し丁寧に表現すれば、『遺伝子が真に利己的であるためには、利他的に自ら死ねる自死的な存在でなければならない』ということになるのではないかと思います」(田沼靖一/東京理科大学教授)

生物学者のN・K・ハンフリーは、「他者の情動状態を感知する能力は遺伝子を広める上で有利だったので、人間の知性の発達ばかりか、人間の意識そのものの発達につながったかもしれない」と推測しています。
悟りの研究をしている神経科学者のアンドリュー・ニューバーグ(トーマス・ジェファーソン大学医学部教授)は次のように言います。
「報告によれば、人が悟りを体験している最中には他人への思いやりをより強く感じていることが多いようだ。だから、思いやりと親切心を育てれば、悟りへの道を拓くことにもなる」
「愛、ゆるしと思いやりの感情を育てれば、コルチゾールの分泌も減り、からだのストレス負荷も減少できる。コルチゾールのレベルが低下すれば免疫力も急増して、脳はより効率よく働けるようになるのだ」
また、臨死体験をした人はよく、「物質的な幸福に価値を感じなくなり、愛が最も重要だと思うようになった」といったことを言います。
精神科医のレイモンド・ムーディーは、臨死体験者に共通して現れる重要な心境変化について次のように強調しています。
「息を吹き返すと、すぐにほとんど全員が、『愛は人生で最も大切なものだ』と言うようになる。人間がこの世に生を受けるのは、愛のためだと言う者も多い。大半の者は、幸福と達成願望は愛の証明であり、愛に比べると他のものは色あせて見えるという。
このことを悟ることにより、臨死体験者のほとんどが、根本的に価値観を変えてしまう。自分の信念に凝り固まっていたものが、人間はそれぞれ大切だと思うようになり、有形の財産こそあらゆるものの頂点にあると思っていたものが、同胞愛を重んずるようになるのである」
医師で前世療法の施術も行っている加藤直哉は、次のように語っています。
「過去世療法という1つの学問が、カルマの法則の存在を肯定します。とすると、私たちは人生の生き方に1つの指針を得ることができます。それは『人に優しくしなければならない』ということです。人をいじめれば、カルマの法則で考えれば、いつか必ず自分に返ってきます」
高橋徳は、次のように魂の進化のキーファクターは利他であると言います。
輪廻転生については、幾多の報告があり、疑問の余地はありません。(中略)個々の魂は、最終の目標点を目指して進化すべく、様々な体験を蓄積していきます。そして魂が進化の究極の目標に到達できたとき、私たちはこの物質の世界に生まれ変わる必要がなくなります。魂の進化には宗教心を育む事が重要ですが、この宗教心は『利他の心』と言い換えることができます」
「仏教徒が瞑想や祈りの行為によって深い宗教的境地に達すると、瞑想者は『自分と外界との区別がなくなり、自分が孤立した存在ではなく、万物と分かちがたく結ばれてる』という実感を味わいます。
そしてこの宗教的境地に達するときには、脳の『方向定位連合野』という部分の活動が低下することがわかっています。『方向定位連合野』は『頭頂葉』の一部で『自分』と『他者』の境界を認識する部分です。興味深いことにこの宗教的境地は『自己と他者の境界がなくなるような感覚』であることです。その無境界の感覚と『方向定位連合野』の活動が低下していることとが密接に関連しています」
ドーキンスは、「人間だけが唯一、利己的な遺伝子に反逆する力がある」と言い、「利他性は、それを支えている遺伝子の利己主義を最大限にする手段となり得る」と言いましたが、「最大の幸福」は死の解決ですので、利他は死の解決のための重要な手段となり得るのです。
第2巻から見てきたように、無常観罪悪観を問い詰めることは利他心につながります。愛情(利他心)と無常観や罪悪観は密接な関係があるのです。利他をすることで無常観や罪悪観が問い詰まって自己がわかり、さらに利他心へとつながり・・・というサイクルを自然は望んでいるのではないでしょうか。
また、人を幸せにする幸福は他の幸福と質が異なる幸福だと言いましたが、利他が菩提(真実の幸福)へのキーファクターということであれば、「菩提と種類が似ている幸福」とでもいうような幸福となっている可能性はないでしょうか。

・2種類の利他
1億円持っている人が1万円出すのと、1万円しかない人が1万円出すのとでは1万円に対する「念い」が違い、価値が違います。まったく同じ行為に見えても、心に目を向ければ1人1人違うのです。
同様に、人生の目的に向かっている人がする利他と、世間の人がする利他とでは違います。阿弥陀仏に心をかけて行う善を係念の善、そうでない善を汎爾の善といいますが、死の解決をするには係念の善が必要です。

・利他心を起こさせる
利他は死の解決をするために非常に重要であるため、釈迦を始め、仏教者は人間に利他心を生じさせるため、様々な手を使っています。たとえば、托鉢や乞食(こつじき)といった行為は、自分が欲しくてやっているのではなく、縁を結ぶためであり、相手に大切なものを出させて利他心を生じさせるためにやっているのです。

托鉢や乞食は自分のためにやっているのではない

利他に徹する

人間の愛の欠点を自覚し、完全な利他ができるよう努めることが大切です。結論から言えば、そのような利他は人間にはできませんが、近づくことはできます。
たとえば、差別の愛であれば、平等の愛が与えられるよう努めるということです。どんなに身分が低い人であろうが平等です。

差別やいじめは人間の本性。仏教が説く絶対平等の世界とは。

・自利を捨てる
一切の自利を捨てようとすべきです。
たとえば、人間関係を大事にすることも大切ですが、「困った時に助けてもらおう」といった下心が混ざるので、その心を捨てようとしなければなりません。
最終的には、「自分の幸せ」の最たるものである「命」を捨てることが要求されます。普通は、ここまでして利他をしようとは思わないでしょう。利他が悟りのキーファクターであり、悟りを開かないと死後が地獄だからこそ、これほど利他を強調するのです。
一見すると仏教で説く自利利他と似たような教えは数多くあるように見えますが、すべて似て非なるものであることが、この点からだけでもわかるでしょう。たとえば、少林寺拳法には「半ばは自己の幸せを、半ばは他人の幸せを」という自他共楽の理念があります。生物学も次のように自利を捨ててはならないという立場です。
「利己主義の延長線上にある利他主義として、他者のことも考えて行動することで集団としての生存につながり、結果として自分も生き延びることになります。他人のためだからといって利己主義を完全に捨ててしまうと自分が生き延びることはできず、それはひいては集団のためにもなりません。このように、利己主義と利他主義は相反するものではなく、利己主義を拡張して他人の利益も考えられるようになったものが利他主義であるといえます」(高橋祥子著「生命科学的思考」より)

一方、仏教で説く自利利他は、自分の幸せを完全に捨てることが要求されます。

・形だけでもやる
利他とは、形やテクニック的なものではなく、心の問題です。第4巻で説明した「長者の万灯より貧者の一灯」の通りです。
「オキシトシンが作られるには、親切が心からのものでなければならない。手っ取り早く効果を獲たいからといい加減な気持ちで親切にしても、効果はあらわれない」(デイビッド・ハミルトン)

しかし、このような利他は難しいので、まずは形だけでも実行することが大切です。何度も続ければ、徐々に真の利他に近づくことができます。

・時間も金も人のためにある
一切は死の解決のためのツールであり使い捨てるものですが、自利利他の教えから、特に利他をするために使うものです。時間も人のためにあるのであって、自分の時間をつくるというのは我利我利の行為です。時間だけでなく、肉体や財産など一切に同じことがいえます。
しかし日々の行為を反省すれば、人のために使う時間は非常に少なく、ほとんどは自分の時間です。肉体や財産も自分のために使ってしまっています。
一休が、飢えに苦しむ人々を何とかしようと考えていた時のことです。
時の将軍、足利義政から一休に茶の誘いがきました。ある考えを思いついた一休は出席することにしました。
「将軍は珍しい古器をお集めと伺っていますが拝見できませんか」
一休が尋ねると義政は、「いろいろと珍品を集めた、見せよう」と自慢げに部屋一杯に並べました。
「どうじゃ」
「見たところ大した物はないようで」
「なに、大した物はないと言うか」
「はい、私は老子が愛用した杖、周光坊の茶碗、天智天皇月見の筵をもっております」
「ふーむ、それはまた珍しい物だ。どうじゃ、わしに譲ってくれんか」
「されば三品で三万両頂戴します」
話がまとまり、翌日、義政の使いが品物を受け取りにやってきました。すると何を思ったのか一休は、垣根の腐れ竹、猫の茶碗、破れた筵を使いに持たせてやりました。
当然、それらを受け取った義政は怒り、一休を呼びつけました。すると、一休はこう諭しました。
「世は飢えに苦しんでいるというのに、将軍は茶碗1つに千金万金を投じて今日も茶の湯、明日も茶の湯と興じておる。三万両は米に変え、将軍の御名をもって人々に与えた。将軍のいかなる名器も、あの品々以上の働きはいたすまい。私がしたことが心にそわずば遠慮なく手討ちになされませ」
これを聞いて義政は反省し、すぐに対策するよう家臣に命じたといいます。
大富豪のジョン・モーレーは、ロウソクの火もこまめに消すほどの節約家でしたが、一方で大金を寄付していたといいます。このような金の使い方が理想的です。
しかし、もっと理想的な使い方があります。それは仏法を広めるために使うことです。開顕ともいいますが、開顕についてはこちらで詳しく説明します。

【布教】真実を広めることは最高の利他

・利他を基準に考える
利他がしやすい環境を整えていくという視点も大切です。
たとえば、仕事にしても利他がしやすい仕事を選んだ方がいいでしょう。もちろん人生の目的を知っていることが大前提です。

やっぱり人生には目的があった!「生き方は人それぞれ」ではない

・利他ができるうちにやる
利他ができるということは有難いことです。苦しみが増せば、どうしても他人を思いやれなくなってきます。
「元気ですかー!」と叫び、「元気があれば何でもできる」というフレーズでおなじみのアントニオ猪木。
彼は、「元気を売る人間が、元気を売れなくなっちゃった」と言い、背中を丸め、杖をつきながら76歳で政界を引退していきましたが、いつかは誰もが元気を売れなくなる時がきます。
あるいは周りに利他をする相手がいなかったり、環境的な理由でできなくなるかもしれません。
他にも利他の心がけは色々とありますが、利他は善の1つですので、善の心がけにいえることは利他にもいえます。

人間の善はすべて偽善であるワケ。偽善でもする必要があるワケ。

何を与えるか

「人を幸せにする」といった場合、大きく次の2つの方法があります。
・無常の幸福
ほとんどの人は、金や名誉といった無常の幸福を与えることで幸せにしようとします。無常の幸福しか知らないので無理もありませんが、説明したように、無常の幸福は手段としての価値しかなく、人間を根本的に幸せにすることはできません。

・法
死の解決をしない限り根本解決にならないので、法を与えなければ真の利他とはいえません。
「財は一代の宝、法は末代までの宝」といわれます。実際は、財は一代の宝にもなりません。
また、説明したように、法と無常の幸福は別個のものではなく、密接な関係があります。

【布教】真実を広めることは最高の利他

死の解決の境地と自利利他

・利他をしなくても幸せ
利他をしないと喜びを得られない境地は、善悪の区別がある不完全な境地です。死の解決は、利他をしてもしなくても喜べる、人が集まっても集まらなくても喜べる、善悪の区別がない完全な境地です。かといって、我利我利の行為をしたくなるわけでもありません。

・恩返し
死の解決をした後は、大きな御恩を返すことに一生を捧げるようになります。
「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし」(恩徳讃)
(訳:阿弥陀仏の大きな慈悲への恩返しは、身を粉にしても報いるべきである。善知識方への恩返しも、骨を砕いてでも感謝すべきである)
つまり、法を広めるということです。
死の解決をすれば、死後の地獄がはっきりとわかり、そして仏凡一体の身になるため、当然、人を救おうとします。信前は人からケツを叩いてもらわないとなかなか動かないものですが、信後は誰から言われなくとも自発的に開顕します。
「大悲、弘く普く化すること、真に仏恩を報ずるに成す」(往生礼讃)
(訳:開顕し、人を救うことが真に仏の恩に報いることになるのである)

「他力の信をえんひとは 仏恩報ぜんためにとて 如来二種の回向を 十方にひとしくひろむべし」(正像末和讃)
(訳:死の解決をした人は、阿弥陀仏の恩に報いるために、往相と還相の二種の回向を、すべての世界に広めるのである)

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