罪悪観とは?悪人こそ救われる悪人正機とは?

人間は悪の限りを尽くしている極悪人であることは、こちらの記事で詳しく説明しました。

人間は悪の限りを尽くしている極悪人

罪悪の自覚

自己の罪悪を見て見ぬふりをするのではなく、直視することが人間として正しい生き方です。

悪人正機

仏教で説かれる「悪人」とは、自分の罪悪を自覚して苦しんでいる人であり、反省して罪悪を造らないよう努力している人のことです。
・悪人は人間関係がよくなる
人間は人の欠点はよくわかりますが、自分の欠点になるとわからなくなるものです。お互いが「自分は正しい」と思っていれば衝突しやすくなりますが、自分の非を自覚できれば衝突は起こりにくくなります。
イギリスの思想家、カーライルに一人の婦人が悩みを相談しに来ました。婦人は、「家族が私の気持ちをわかってくれない」と涙ながらに語りました。それを聞いていたカーライルは何を思ったのか、婦人にタンスを調べるようアドバイスしました。
「乱雑になっている衣服があったら整頓したり綺麗にすること。私が申しあげるのはそれだけです」
婦人には理解できませんでしたが、それでもやってみようと思い帰宅しました。
そして、一週間後、婦人が笑顔でカーライルのもとへやってきました。
「恥ずかしいことですが、まったく整頓されていませんでした。やるべきことをやらずして人に自分の気持ちをわかってもらおうなどとは虫がよすぎる、先生はそう言いたかったのですね」
裁縫箱の針も糸も乱雑に入っていたことや、タンスの中の衣服も整頓されていなかったことなどを話しました。そして、気がついたら家中の整理を始めており、なぜこんな基本をおろそかにしてしまったのか、と恥ずかしくなったといいます。
これでは何事も上手くいくはずがない、と知らされたことをカーライルに話すとカーライルは、にっこり笑って頷いたそうです。
「李下に冠を正さず」という諺があります。李(すもも)の木の下で冠をかぶりなおそうとして手を上げると、実を盗ろうとしていると誤解を与えるから、そこでは直すべきではないという意味です。誤解を招くような行動はすべきではないということのたとえです。これも相手の立場に立てないと簡単にケンカになってしまう例といえます。
ある時、一灯園の創始者、西田天香が庄松に言いました。
「娑婆は堪忍土。庄松さん、人は人を許して生きていかなければなりませんね」
すると庄松は、「いえいえ、私は人に許されて生きています」と言ったといいます。
人に迷惑をかけ、人を苦しめなければ生きられないのが人間です。庄松と天香の差は、そのことを知っていた悪人と知らなかった善人様の差であり、仏教とそれ以外の宗教の差といえるでしょう。

・悪人は人の心がわかる
意識するとしないとにかかわらず、人間は自分の心を通して人の心も把握しようとしています。自己を深く知るほど、つまり悪人になるほど、人の心も深くわかります。浅い自己しか知らない人は、人の心も浅くしかわかりません。人の心を知るという点についてはこちらでも説明します。

人の心を知る方法。自分の心を知る、利他をするetc.

・悪人は足るを知る
仏教には「足るを知る」という言葉があります。人間は、すぐ有ることが当たり前になり、感謝を忘れます。また、無い事ばかりに目が向き、もっと欲しいもっと欲しいと飢え渇きます。そして、失って初めて有難さを知るのです。
悪人は足るを知り、感謝を知り、恩を知ります。

足るを知るとは?仏教が説く足るを知る2つの方法。ヘレンケラーも称賛した中村久子に学ぶ。

・悪人は善をする
悪人は善にも悪にも敏感で善を一生懸命しますが、善人様は善にも悪にも鈍感で多くの悪を造ってしまいます。
知らないで造る罪悪は、知っていて造る罪悪より重いということがあります。たとえば、自分がウイルスに感染していることを知っていれば人前に出ないようにしたり、未然に防ぐことができますが、知らなければウイルスを撒き散らすことになります。経には、火の怖さを知らない赤ん坊が、思い切り手を突っ込んで大火傷を負ってしまうようなものであると説かれています。
このように、罪悪を罪悪と知らずにやっている行為は恐ろしく、悪意がなくとも、「知らなかった」では済まない取り返しのつかない問題があるのです。
「問題のある行動につながりかねない様々な影響力を知っておけば、そういったものを見極め、その影響力が最大になる前に止められる可能性が高まることだ。誰でも大きな害をもたらす側になり得ることを理解すれば、人はもっと注意深く、もっと忍耐強くなれるはずだ」(ジュリア・ショウ/ロンドンサウスバンク大学法社会学部上級講師)

ちなみに根源的な無知のことを無明といいますが、その恐ろしさを人間は知りません。

・悪人は菩提を求める
悪人になるということは、真実の自己を直視するということであり、本当の自分を取り戻すということです。
しかし、善人様は自分を否定しており、自分の心を綺麗だと思っています。つまり、この穢土(この世のこと)の世界を綺麗に見ているということですが、これでは真実の世界に対して憧れません。

・悪人こそ救われる
仏教は悪人になる教えであり、悪人こそ救われます。これを悪人正機といい、悪人こそ救われる正しい根機(心)という意味です。
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」(歎異抄)
(訳:善人でさえ救われるのであれば悪人はなおさら救われる)

「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」という言葉もありますが、自己を知る人間、つまり悪人は強いです。愚か者ほど強いものはありません。己を知らない人間は、一見すると強そうに見えても、無知からくる狂った自信であり、実態は脆いです。

・正しい目的が必要
無常観と同様、罪悪観も、大前提として正しい人生の目的を知っている必要があります。罪悪を直視し人間関係がよくなろうが、足るを知ることで幸せになろうが、それらはすべて無常の幸福にすぎません。世間の人間は罪悪を直視して何をするかというと、無常の幸福しか知らないため、結局、無常の幸福を求めて人生が終わります。これでは、罪悪観が手段として活きません。また、罪悪を直視し続けることもできません。
芥川龍之介は次のような苦しみを訴え自殺しました。
「僕自身には勿論、あらゆるものに嫌悪を感じている」
「周囲は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい」
「若し正直になるとすれば、我々は忽ち何びとも正直になられぬことを見出すであろう。この故に我々は正直になることに不安を感ぜずにはいられぬのである」
誰でも真面目に罪悪を直視すれば、彼のように苦しみます。人生は、臭い物に蓋をして幸せに生きるか、真面目に事実を直視して苦しみながら生きるかの大きく2択です。苦しんでまで生きるだけの動機がなくなれば、芥川のように自殺するのは自然の流れです。どんなに苦しくとも罪悪を直視し続け、雑毒の善をし続ける「目的」が必要になります。罪悪を直視し悪人になる目的は、死の解決のためであり自己を知るためです。無常の幸福を求めるために罪悪を直視するのではないのです。

「自分」とは何か?人生は自分を知るためにある。自分を客観視する方法とは?本当のマインドフルネスとは?

聞き誤る危険がある

世間一般で使われる悪人の意味とはまったく異なるため、中途半端に聞いてしまうと非常に危険です。
・カミソリのようなもの
仏教で使われる「悪人」という言葉は歎異抄に書かれていますが、歎異抄はカミソリ聖教とも呼ばれています。カミソリは大人が使えば重宝しますが、子供が使うと非常に危険なものです。同じように、歎異抄は読み解く力がある人が読めば良い本ですが、そうでない人が読むと非常に危険な本であるために、こう呼ばれます。歎異抄は未だに誰が書いたかもわかっていない、いささか無責任な本でもあり、こういった理由から本願寺の蓮如は「読んではいけない」と釘を刺しているほどです。ですので、どういう意味で使われているのか注意する必要があります。

・性悪説とは違う
一見似ていますが、これまでの説明から一般的にいわれる性悪説とは異なることがわかるかと思います。たとえば、性悪説は元が悪(他因自果)であると説きますが、仏教は元が白紙(自因自果)であると説くという違いがあります。

悪人は偉い人

自分の間違いを反省し直そうと努める悪人は、優れた人であり偉い人です。
天下一の画家になりたいと思っていた田崎草雲は、師である金井鳥洲の紹介で、画界の大御所、谷文晁の門を叩きました。
草雲を見るなり文晁は、絵筆と紙を突き出し、「1つ梅を描いてみよ」と命じました。草雲は、力を見せるにはこの時ばかりと渾身の力を込めて書き上げました。出来栄えには自信がありました。しかし、文晁はそれを見るや、「何だ!こんな梅なら、俺は足でも描いて見せる」と散々に嘲笑しました。ショックを受けた草雲は、その後、人が変わったように絵を描き続けました。
1年半ほど経ったある日のこと、鳥洲は文晁からの手紙を草雲に渡しました。草雲がしぶしぶ読んでみると、その内容に涙を止めることができませんでした。
「梅を描かしたが見事な絵だった。彼の画才は天性のものである。しかし、相当に慢心しているようなので故意に嘲笑した。あのような性格だから転覆の危険も大いにある。その点、注意して面倒を見てほしい」
その後も草雲は研鑽を重ね、最初の帝室技芸員(美術家最高の栄誉とされる)となるなど、大家として名を成しました。
悪人は偉い人ですが、だからといって「悪を見つめて偉いだろう」と自惚れるのは間違いです。人間には、卑下慢といって卑下して自慢する煩悩もあるので戒めなければなりません。

六大煩悩の1つ「慢」とは何か?「私ほど悪い人はいません」という自慢(卑下慢)、不良自慢する心(邪慢)etc.人間は慢の塊

求道は悪人になる道

どんな偉大な仏教者でも最初は善人様です。聴聞し求道が進むにつれ、徐々に分厚い化けの皮が剥がれ悪人になることができます。

相対善悪から絶対善悪へ

仏教の最終目的は、絶対の世界へ導くことです。
・相対善悪の重要性
いきなり、絶対の善悪を説いたところで、相対的な智恵しかない人間にはわかりません。ですので、絶対的な善悪を認識させるために、まずはわかりやすい相対的な善悪を説かれたのです。

善悪はコロコロ変わる。殺人さえ善になる。相対善悪とは?善悪不二とは?善悪の区別がある世界に真の安らぎはない。

・善をするほど悪が見える
善をしないと悪が浮き彫りになりません。
「松陰の暗きは月の光かな」という古歌があります。月の光が輝けば輝くほど松の影は暗く濃くなっていくという意味ですが、善と悪の関係もこのたとえと同じことがいえます。つまり、善を行えば行うほど、自身の罪悪がハッキリと見えてくるのです。善をしないと罪悪の自覚はできず、罪悪を罪悪と思えません。
先に見た通り、戦時には集団で麻痺してしまい、殺人でさえ罪悪感を感じなくなってしまいます。それと同じように、現在、集団で麻痺していることが数多くあるのです。
また、戦争が終わり正常になって初めて、戦時が異常だったことに気づきます。それと同じように、善をして正常になって初めて、今の自分が異常だったことに気づきます。そして、「なぜ今まで、こんな当たり前のことに気づかなかったのだろう」と不思議に思い悔やむのです。

・相対悪から絶対悪へ
一生懸命善をし、十悪五逆罪といった相対悪を見つめることで、やがて謗法罪や一闡提といった絶対悪が見えてきます。人間には、膨大な罪悪(絶対悪)を自覚できるだけの能力が備わっているのです。
別な見方をすれば、相対的な善には、絶対の世界へ導く強い力があるともいえます。ですので、相対的な善や悪、苦や楽だからといって侮ることはできません。

・表現できない罪悪
絶対悪は、相対智の人間にはわかりづらいものです。
相対悪を造れば相対苦が返ってきますが、相対苦でさえ強くなれば筆舌に尽くし難い苦しみです。まして絶対悪です。造れば苦の極みである絶対苦となって返ってきます。
口に出してしゃべれたり、言葉で表現できるような罪悪は大した罪悪ではありません。罪悪ではありますが、そんな罪悪ではなく、もっともっと深刻な罪悪があるのです。そして、その筆舌に尽くし難い世界は聴聞でしか知ることができません。

・もっと大きな悪に目を向ける
罪悪には大小レベルがありますが、人間の善悪観はトンチンカンで、大きい罪悪を大きい罪悪と思えません。たとえば、頭では謗法罪が1番重いと聞かされても、腹底では法を謗ることより親を殺すほうが重いと思っています。
人間の本性が悪性だと思っている人も多く、罪悪感に苛まれ苦しんでいる人も多いですが、今見えている罪悪は氷山の一角にもならないレベルです。それは、たとえるなら膨大な1億の罪悪に目を向けず、1や2の罪悪を気にしているような状態です。
世間でいう善人や悪人といった言葉は、目くそが鼻くそを笑っているような世界で、高が知れています。絶対悪が見えるまで、もっともっと罪悪観を問い詰める必要があります。

・目的に向かうことが大前提
小さな罪悪であっても造らないよう努めることは大切ですが、悪をやめ善をすることの目的は絶対悪という大きな罪悪を知るためであり、死の解決のためです。悪をやめ善をすることは死の解決のための手段です。相対善悪は絶対善悪や死の解決へ導くための手段であり方便であるといえます。
ですので、たとえば、小さな罪悪を気にするあまり、大きな罪悪に目を向けることができないということがあれば、小さな罪悪を気にするということが悪になってしまいます。たとえば道徳・倫理を忠実に守っていることを誇りに思い、さも人生の帳尻が合っているかのように思っている人は多いですが、それは自惚れです。
道徳的な善悪に限らず、どんなに悪をやめ善をしたところで膨大な罪悪は帳消しにできません。膨大な罪悪を帳消しにすることを問題にすべきです。その方法が死の解決ですので、死の解決をしているかどうかを問題にすべきなのです。
「万事、信なきによりてわろきなり。善知識のわろきと仰せらるるは、信のなきことを僻ことと仰せられ候う」(御一代記聞書)
(訳:何事にしても死の解決をしていないから悪なのだ。善知識が悪と言うのは、死の解決をしていないことを間違いだと言うのだ)

「罪の有り無しの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰、いくたびもいくたびも、よし」(御一代記聞書)
(訳:罪が有るか無いかを議論するより、信心を獲たか否かを何度も何度も問題にすべきだ)

早急に善悪観をイチから見直さないと、大変な結果を招いてしまいます。

・死の解決をするまで善人様
求道することで少しずつ悪人になることができますが、結論から言うと、死の解決をするまではどんな人も善人様です。人間は、どこどこまでも自分が悪い人間だとは思えません。ほとんどすべての人は善人様のまま、真実の自己を知らずに死んでいくことになります。

悪性の自己が見える

自己を追求していくと、罪悪の塊である悪性の自己が見えてきます。
「皆人の 心の底の 奥の院 たずねてみれば 本尊は鬼」という古歌もあります。
龍樹は自身を獰弱怯劣と言っています。
「獰」は悪い、「弱」は弱い、「怯」は卑怯、「劣」は劣るという意味ですから、「自分は、悪くて、弱くて、卑怯で、劣った人間である」と言っているのです。
道綽は、「もし起悪造罪を論ぜば、なんぞ暴風駛雨(しう)に異ならん」と言い、「暴風や豪雨の如く罪悪を造っている」と懺悔しています。
親鸞は無慚無愧と言っています。
「慚」とは己に恥じる心、「愧」とは人に恥じる心を意味しますので、「自分は悪の限りを尽くしながら、己に恥じる心も、人に恥じる心もない」と懺悔しているということです。人間は、「罪悪を造れば恥じる心ぐらいある」と思っていますが、「自分はその心さえない」と親鸞は言っているのです。これ以上の懺悔は、おそらく人間にはできないでしょう。

・三品の懺悔

「真心徹到するひとは 金剛心なりければ 三品の懺悔するひとと ひとしと宗師はのたまえり」(高僧和讃)
(訳:死の解決をした人は、絶対に崩れない信心であるので、三品の懺悔をする人と等しいと、善導大師は言っている)
三品の懺悔とは、次の3つの懺悔のことです。
上品の懺悔:目から血の涙、全身から血の汗
中品の懺悔:目から血の涙、全身から熱い汗
下品の懺悔:目から熱い涙、全身から熱い汗
聴聞によらなければ、人間は深重な罪悪を自覚することができず、ここまでの懴悔をすることができません。

・生きながら地獄に堕ちる
膨大な罪悪が見えれば当然、大きな衝撃を受けます。普通の人でも、大きなショックを受けると気絶したり失神したりすることがあります。まして膨大な罪悪です。その衝撃でショック死することになります。肉体の死ではなく心(阿頼耶識)が死ぬのです。その即死状態を地獄一定といい、生きながら地獄に堕ちる体験です。
「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄)
(訳:どのような行も及び難い自分は、地獄しか行き場がない)

「ただわが身は極悪深重のあさましきものなれば、地獄ならではおもむくべきかたもなき身なる」(御文)
(訳:ただわが身は極悪深重の浅ましい者なので、地獄しか行き場のない身である)

正法念処経には、「地獄の苦悩を説き切る人がおり、聞き切る人がいれば、共に血を吐いて死ぬ」と説かれています。
普通の人でも、精神的なショックを受けて、気絶したり失神したりすることがあり、ショック次第では死ぬこともあります。
「多くのストレスが重なると、キラーストレスともいうべき危険な状態に陥ります。血管が破壊され、脳卒中や心筋梗塞、大動脈破裂を引き起こします。最新の研究では ストレス反応は、心臓の筋肉を流れる血液が減少し心不全を引き起こす、がんを悪化させる、体内に入った細菌を増やして血管の破壊を起こすなど、命に関わることがわかってきました」(NHKスペシャル「キラーストレス」より)

・生きながら極楽に生まれる
そして、地獄に堕ちたと同時に、一念で極楽に生まれることができます。地獄に堕ちたのが先か、救われたのが先かという境地です。一念で救われるので、完全に死ぬ一刹那まで諦めてはなりません。

・二種深信
二種深信が立ちます。
「一つには決定して深く、『自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし』と信ず。二つには決定して深く、『かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得』と信ず」(観無量寿経疏)
(訳:一つには、「自分は実際に罪悪に苦しんでいる凡夫であり、極めて遠い昔から常に苦悩の海に沈んで迷い続け、これからも抜け出すことはできない」と深く信じる。二つには、「阿弥陀仏はすべての生物を救って、疑いなく思いはかることなく、阿弥陀仏の本願力にまかせ、必ず往生する」と深く信じる)
地獄一定と極楽一定は矛盾です。その絶対矛盾するものが自己の中で同一化するのです。
これを日本を代表する哲学者、西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」と言い、こういう境地が救われた世界であると結論づけました。
ある時、蓮如が聴衆に向かって、「この中で絶対に助からない者がおる」と言いました。すると、聴衆の中で一人だけが、サッと手を挙げました。蓮如が今度は、「この中で絶対に助かる者がおる」と言いました。すると、さっき手を挙げた人だけが、またサッと手を挙げました。この人だけが死の解決をしていたのです。
人間は、膨大な罪悪を自覚して生きながら地獄に堕ちる能力と、生きながら極楽に生まれ変わる能力の両方が備わっているといえます。
涅槃経には「一切衆生悉有仏性」と、一切の衆生には生まれながら仏になる素質があると説かれています。

求道の難しさは罪悪の重さ

求道は非常に難しい道ですが、なぜ難しいのかというと自己の罪悪が重いからです。
・「簡単に救われるはずだ」
念仏を称えるだけで救われる」といった具合に、簡単に助かると思っている人は多くいます。
また、求道すると、「何でこんなに厳しい救い方しか無いのだろうか」とか「もっと楽な救い方がなぜできなかったのだろうか」という具合に、救い主である阿弥陀仏や善知識に対して疑問を持つこともあると思います。
他にも、「将来いいことがある」とか「死後にいい世界へ行ける」「地獄に堕ちない」等々、色々とありますが、こういった思いはすべて、自己の罪悪の重さがわかっていないことから生じます。
たとえば、凶悪犯罪者が簡単に罪が帳消しになり許されるということになったら、「虫がいいこと言うな!そんな都合のいい道理があるわけない!」と思うでしょう。罪悪の重さがわかれば、そんな簡単な種まきで重い罪悪が解決できる道理が無いということがわかります。

死の解決の境地と罪悪

死の解決をすると膨大な罪悪はすべて消えます。
・業報は受ける
仏でも因果の法則には従わなければなりません。
「仏の三不能」といって、仏でも捻じ曲げることができない3つの真理があると説かれますが、因果の法則はその1つです。ですので、死の解決をしても罪悪が消えることはなく、罪悪の結果(業報)は受けなければなりません。

・業報を感じない
しかし、業報を受けても、それを喜びに転じることができます。これを煩悩即菩提といいます。煩悩(悪)が即、菩提(善)に転じ変わる境地です。「即」は同時即ともいい、時も隔てず、場所も隔てず、時間の極まりを意味します。ですので、業報を悪果と感じず、結果として悪果を受けないのと等しいことになります。
「念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善もおよぶことなき故に、無碍の一道なり」(歎異抄)
(訳:死の解決は、何も妨げとなるものがない絶対の世界である。その理由は、死の解決をした人はすべての神々が敬って平伏し、どんな悪魔や外道も妨げることはないからであり、どんな罪悪も業の報いを感じさせることができず、どんな善もこの境地に及ばないからである)

「一念のところにて罪みな消えてとあるは、一念の信力にて往生定まるときは、罪はさはりともならず、されば無き分なり。命の娑婆にあらんかぎりは、罪は尽きざるなり」(御一代記聞書)
(訳:死の解決をすると罪悪がすべて消えるというのは、他力の信心の力によって往生が定まった時は罪悪が妨げとならないので、罪悪が無いのと等しいという意味である。しかし、この世に命がある限りは、罪悪は尽きないのである)

・善悪に関係ない
死の解決は善も欲しからず、悪も恐れずという境地で、善悪に関係なく喜べる境地です。
「されば善きことも悪しきことも業報にさしまかせて、偏に本願をたのみまいらすればこそ他力にては候へ」(歎異抄)
(訳:善であろうと悪であろうと因果の法則にまかせて、ただ阿弥陀仏の本願力の働きに身をまかせるからこそ他力なのである)
このような境地に出ない限り、真の安らぎはないのです。

絶対にしなければならない

死の解決をしなければ死後は地獄です。一度地獄に堕ちれば助かる方法はありません。
ですので、「悪人になったほうがいい」とか「なれたらいいな」というものではなく、絶対に悪人になって死の解決をしなければなりません。どんなに苦しくても、どんなに年を取っても、ずってでも這ってでも求めてゴールする必要があります。
どんなに真面目な求道者でも、ゴールしなければ意味がありません。死の解決をして極楽に行く100点の人生となるか、死の解決をせず無間地獄に堕ちる0点の人生となるか、人生は2択です。
・急いでしなければならない
人間は死と隣り合わせであり、今日死んでもおかしくありません。今日死ねば、今日から地獄が始まるのです。今、幸せの絶頂にいようが、不幸のどん底にいようが関係ありません。ですので、一刻も早く死を解決する必要があります。
「ああ、夢幻にして真にあらず、寿夭保ちがたし、呼吸のあひだ、すなわちこれ来生なり。一たび人身を失ひぬれば、万劫にも復せず。この時悟らざれば、仏、衆生をいかがしたまはん。願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔を貽すことなかれ」(教行信証)
(訳:ああ、この世は夢、幻であって真実ではない。命は保ち難く、吐いた息が吸えなければ死んでしまう。一度死んでしまえば、無間地獄に堕ち、永遠に抜け出すことはできない。生きているうちに死の解決をしなければ、阿弥陀仏でもどうしようもできない。どうか深く無常を問い詰めて、いたずらに後悔しないでほしい)

「一日も片時も、いそぎて信心決定して、今度の往生極楽を一定せよ」(御文)
(訳:一刻も早く急いで死の解決をし、極楽浄土への往生を決定せよ)

「人生死出離の大事なれば、これより急ぐべきはなく、またこれより重きはあらざるべし」(御裁断申明書)
(訳:死の解決ほどの一大事より急ぐべきことはなく、これほど重いことはない)

・必ず後悔する
死の解決ができなければ、血の涙を流して後悔することになります。
「明日も知らぬ命にてこそ候うに、何事を申すも命終わり候わば、いたずらごとにてあるべく候う。命のうちに、不審もとくとくはれられ候わでは、定めて後悔のみにて候わんずるぞ。御心得あるべく候う」(御文)
(訳:明日もわからない無常の命であり、何をしようとも死ねば意味がない。生きている間に死の解決をしなければ、必ず後悔することになる。よくよく心得なければならない)

・罪悪感を感じるだけでは済まない
罪悪が消えることなく記憶され、未来必ず悪果をもたらす因果応報の実在性が示唆されています。罪悪感を感じるだけでは済まないのです。
たとえば、養老孟司は次のような話をしています。
「私自身は、肉も魚も食べますし、ベジタリアンだって何らかの形で生き物の犠牲の上で生活をしているのです。ただ、私たちの誰もがそういう罪深い存在であるという思いは持っているべきだ、と思うのです」
彼のように、「罪深い存在であるという思い」を持っていると自負している人は多いですが、それだけでは済まないのです。
冒頭でも言いましたが、「死後の存在」「因果応報」「重い罪悪」の1つ1つについては信じている人は多いですが、3つを結びつけて考える人はほとんどいません。
3つが結びつくと、「死後は必ず地獄」という深刻な結論が導かれます。3つが結びつかないと、たいして深刻な問題にはなりません。

・苦しんでも手遅れ
「夢の世は 罪を罪とも知らねども 報わんときや 思い知られん」という古歌があります。
「夢の世」とは人生のことですが、これは比喩ではありません(詳しくは第2巻)。
人間は、重い罪悪を造っている自覚がありませんが、悪果となって返ってくれば激しく苦しむことになります。
この世は何も確かなものはないですが、唯一地獄行きの種を知らず知らずのうちに積み上げているのです。
これを、妙好人(仏教の篤信者のこと)として知られる「六連島のおかる」という人は、「ないないづくし」という歌の中で、「ないないないで何にもない ない中あるのが地獄種」と表現しました。
その時になって後悔しても手遅れです。
「罪報自然にして従って捨離することなし。但し前行して火鑊に入ることを得て、身心摧砕し、精神痛苦す。この時に当たりて、悔ゆともまた何ぞ及ばん」(大無量寿経)
(訳:罪の報いは必然で、絶対に逃れることはできない。やがて必ず地獄に入り、身も心も粉々に砕かれ痛み苦しむことになるが、その時になって後悔しても手遅れだ)

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