足るを知るとは?仏教が説く足るを知る2つの方法。ヘレンケラーも称賛した中村久子に学ぶ。

足るを知る幸せ

仏教には「足るを知る」という言葉があります。
「足るを知るもの貧しといえども富めり。足るを知らざるものは富むといえども貧し」(仏遺教経)
「吾唯足知(われ、ただ足るを知る)」という言葉を、「口」の文字を中心に並べたつくばいを見たことがある人も多いでしょう。

人間は「足りない、足りない」と無いことばかりに目が向き、失って初めて有難さが身にしみてわかります。
イギリスの諺にあるように「物の値打ちは、それが無いときに、いちばんよくわかる」のです。「自分の命」はその最たるものです。
しかし、この流れでは遅いので、足るを知り、失う前に有難さを知ることが大切です。そのため、足るを知る大切さも多くの人が言っています。
「(成功した理由は)『世界一』という高い目標を目指して、あくなき挑戦と努力を積み重ねると同時に、『足るを知る』ことを実践してきたからです。会社や事業の置かれている状況を見つめ、決して暴走しなかったからこそ、大きくつまずかなかったのです。また事業がうまくいっても、有頂天にならず、己を見失うことなく、地道な努力を重ねてきたから、発展を続けることができたのです」(稲盛和夫/経営者)

「わずかしか持たない者ではなく、多くを望む者が貧しいのである」(セネカ/政治家)

足るを知る2つの方法

死を見つめる(無常観)

死を問い詰めることで足るを知ることができます。たとえば、ボクシングジムのトレーナーとしても活動している刀根健は、末期の肺がんを宣告され、著書にその苦しみを綴っていますが、次のようにも述べています。
「毎日が谷底にいる気分だった。でも、谷底じゃないと見えない景色があった。僕は今まで自分の力で人生を切り開いてきたと思っていたし、自認してきた。でも、谷底から見ると、それは違った。僕は1人じゃなかった。僕には家族がいた。友だちがいた。仲間がいた。気遣ってくれる多くの人たちがいた。僕は今までそんなことにも気づかずに、自分の力で生きてきたと思い込んでいた。そういう自分が恥ずかしい。みんなの気持ちを受け取っていなかった自分は、なんて小さい人間だったんだろう」
「こんなにも僕を大切に思ってくれている人が『いる』ということ。『いる』んだ、僕には。なんて幸せなことなんだろう。いる、いる、いる、いっぱいいるんだ」

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罪悪を見つめる(罪悪観)

罪悪を直視する悪人は足るを知り、感謝を知り、恩を知ります。
人間の本当の値打ちからいえば1円の価値もありません。「服を着るにも値しない人間である」ということから裸で説法した僧侶もいます。女性は目のやり場に困ったでしょうが、それはともかく、この僧侶の気持ちはわかります。どんな極貧生活でも贅沢すぎるのであり、息を吸えるだけで、生きることができるだけで贅沢すぎるのです。多くの人はそうは思えないでしょう。それは極悪人の自覚がないからです。

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中村久子という人を紹介しましょう。
この人は、ヘレン・ケラーが「私より不幸な人、私より偉大な人」と称賛した人です。
明治30年に生まれた久子は、2歳の時に凍傷になり、その後、それがもととなって突発性脱疽となり、両手両足を失ってしまいます。
しばらくして、盲目にもなりかけると、手足もなく、眼も見えなくなってはかわいそうだと思った母親は心中しようとします。結局、この時は久子が「死んでは嫌だ」と言ったため思いとどまります。
7歳の時に父が死ぬと、母は自立できるよう厳しくしつけることにします。
やがて努力の甲斐があって、肘までしかない両腕と口を使って、1人で針に糸を通し縫物ができるようになります。編み物、洗濯などすべて口で行い、見世物となって稼ぎます。
他にも、いじめや差別、弟や夫の死、関東大震災etc.久子の人生は不幸の連続でした。
「お前さえ無かったら、大事な長男をあんな所へやらなかったのに、お前があるばっかりになぁー」
「お前さえ無かったら、こんな苦しい思いはしないのに・・・」
久子は、「母のこうしたくり言を幾十度、幾百度聞かされた」と言います。
母を恨み、自分の運命を恨んでいたそうですが、仏教と出遇い変わったといい、厳しくしつけた母に感謝しています。
「昔はなんときつい母だろうと恨んだものでしたが、今から考えますとこれが母の大きな慈悲だった」(久子)
久子は、「ある ある ある」というタイトルの詩を書いています。

「さわやかな秋の朝 
『タオル取ってちょうだい』
『おーい』と答える良人(おっと)がある 
『ハーイ』という娘がおる 
歯をみがく
義歯の取り外し
かおを洗う
短いけれど
指のない

まるい強い手が
何でもしてくれる
断端に骨のない
やわらかい腕もある
何でもしてくれる
短い手もある

ある ある ある

みんなある
さわやかな
秋の朝」

また、久子は次のようにも書いています。
「真理の鏡によって 自分の心のとびらを そうっと開いてのぞく そこにはきたない おぞましい自己がある」

足るを知るのは手段にすぎない(正しい目的が必要)

足るを知る幸せも、大前提として正しい人生の目的を知っている必要があります。足るを知ることで幸せも無常の幸福の1つにすぎません。世間の人間は足るを知って何をするかというと、無常の幸福しか知らないため、結局、無常の幸福を求めて人生が終わります。これでは、足るを知ることが手段として活きません。

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