すべての人間は悪の限りを尽くしている極悪人

すべての人間は極悪人

意識するとしないとにかかわらず、人間は日々膨大な量の罪悪を造っています。真実の人間の姿は、悪の限りを尽くしている極悪人です。
「心常念悪 口常言悪 身常行悪 曽無一善」(大無量寿経)
(書き下し:心常に悪を念じ、口常に悪を言い、身常に悪を行い、曽て一善無し)
(訳:心は常に悪を念い、口は常に悪を言い、身は常に悪を行い、今だかつて1つの善もしたことがない)
ここで重要なことは、非連続の連続を意味する「恒」ではなく、「常」を使っている点です。絶え間なく罪悪を造り続けているということです。
別の経にも、「一人一日のうちに八億四千の憶いあり、念々になすところこれみな三途の業なり」と説かれています。これは、「人間は一日の中で、無数の業を心で造っているが、これらはすべて悪業であり地獄行きの業である」という意味です。
他にも、膨大な罪悪を造っていることは聖教に縷々説かれています。
「もし起悪造罪を論ぜば、なんぞ暴風駛雨に異ならん」(安楽集)
(訳:もし悪を起こし罪を造るということを論ずるならば、どうして暴風や豪雨と異なろうか。暴風や豪雨の如く罪悪を造っているのである)

「もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずということなし」(口伝鈔)
(訳:元々、罪悪の塊である凡夫であるので、罪悪の大小に関係なく、心と口と身体で造る行為はすべて罪悪である)
〇心が火の元
「心常念悪」と最初に説かれており、心が根本であることを表しています。ですので、火の元である心の悪を消す必要があります。
ユネスコ憲章には、「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」とあります。
アインシュタインは、「科学が戦争という脅威をもたらしたが、本当の問題は、人々の頭と心の中にある」と言いました。

ストーカー被害を受け続けた末に殺害された、逗子ストーカー殺人事件。被害者の夫は、「殺意が消えない限りいつか殺されていた」と語ります。また被害者の兄も、「警告があって、逮捕もあって。ある意味、やれることは、かなりやっているわけですよね。それでも、まったく止めることはできない。それを考えていくと、単に相手に罰を与えるとかいうことよりも、もう加害者を止めるしかない」と語り、「治療やカウンセリングなど、罰則だけでなく最悪の事態になる前の措置が必要」と訴えます。
口や身体の悪の1部を取り締まるのが法律です。心は対象外で、どんなに悪いことを思っても捕まりません。これから心の科学が進み、心も法律の対象となるかもしれませんが、進んだ法律というのはそうであるべきです。

・心の悪が見えてくる
肉眼では見えなかった小さなものがルーペ(虫眼鏡)で見えるようになり、ルーペでも見えなかったものが顕微鏡で見えるようになります。ちょうどそのように、法律では見えなかった口や身体の悪が道徳・倫理で見えるようになり、道徳・倫理でも見えなかった心の悪が仏法で見えるようになります。
また、顕微鏡の倍率が上がるほど、より小さなものが見えるようになるように、聴聞して自己を知るほど、より深い心の悪が見えるようになります。
そして、肉眼で見えないからといってウイルスやガンを放置しておけばやがて重大な結果をもたらすように、無明という重い病を放置しておけば地獄という重大な結果をもたらします。

・心の悪は消し難い
しかし、これまで様々な事例で見たように、心の悪は消し難いものです。
「見ざる、聞かざる、言わざる」はできても「思わざる」だけは難しいことです。
「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎の如くなり」(悲嘆述懐和讃)
(訳:悪性はどうしても止め難く、心は非常に醜い)
安土桃山時代の大盗賊、石川五右衛門は釜茹での刑に処される前に、次の辞世の句を詠んだといわれています。
「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」
これは、「私を処刑し、砂浜の無数の砂がなくなっても、世に盗人の種は尽きないぞ」という意味です。つまり、人間の心に盗人の種があるのだから盗人は次から次へと出てくるぞと言っているのであり、心が火の元であると言っているのです。盗みは悪いことですが、真実を衝いた句です。
東条英機は、「人間の欲望は本性であり、国家の成立も欲からなり、自国の存在だとか、自衛というようなきれいな言葉でいうこともみな国の欲であり、それが結局戦争となるのだ」と言いました。
戦争を体験した、ある女性兵士はこう語っています。
「戦争中どんなことに憧れていたかわかるかい?あたしたち、夢見ていた、『戦争が終わるまで生き延びられたら、戦争のあとの人々はどんなに幸せな人たちだろう!どんなにすばらしい生活が始まるんだろう。こんなにつらい思いをした人たちはお互いをいたわりあう。それはもう違う人たちになるんだね』ってね。そのことを疑わなかった。これっぽちも。
ところが、どうよ・・・・え?またまた、殺し合っている。1番理解できないことよ・・・・いったいこれはどういうことなんだろう?え?私たちってのは・・・・」(「戦争は女の顔をしていない」より)
よく「戦争は人の心を鬼に変える」といわれます。この表現だと、もともと善人だった人が戦争という悪縁によって悪人に変わると聞こえますが、そうではありません。人間は皆、元より極悪人なのです。

・「思っただけ」で済まない

世間常識では「思っただけ」と軽く見なされるでしょうが、それだけでは済みません。たとえば、「死んでくれたらいい」と思っただけで、1つの独立した業として体に染みつき、未来必ず恐ろしい悪果をもたらすということです。1度思ったら取り消しはできません。

〇間接行為
間接行為にも注目すべきです。自分が直接手を下さず、人を使って他を苦しめるといった場合です。
法律でも間接行為の1部は認められていますが(他人を道具のように使って犯罪を行う間接正犯など)、たとえば黒幕と実行犯、被害者との間でつながりができて、被害者を苦しめるほど実行犯だけでなく黒幕にも罪悪がカウントされるという可能性はあるのではないでしょうか。

・膨大な「犯人」
たとえば、黒幕と実行犯の2者だけを罪悪を造った犯人とするのは法律上の粗い視点です。1つの結果が生じるまでに膨大な因縁和合が背景にあります。つまり膨大な「犯人」がおり、その全員に程度に応じた罪悪がカウントされる可能性があります。
たとえば、日本のような豊かな国の繁栄の陰には貧しい国の人たちの苦しみがありますが、彼らが苦しむほど日本人に罪悪がカウントされる可能性があります。
生物学者の丸山宗利(九州大学総合研究博物館助教授)は次のような話を紹介しています。
「そういう話を聞いても、どうもピンとこない。普通はそうだろう。しかし、このカメルーン滞在中、まさにそういう現場を何度か目撃した。私たちが能天気に虫を探していたある日、夕方近くなり、さて宿に戻ろうかという時、山道で小さな女の子が何かを運んでいるのが見えた。追いついてみると、風呂敷に包んだカカオの実を泣きながら運んでいるではないか。その風呂敷も粗末なもので、歩いている間にごろごろとカカオの実がこぼれ落ちた。カカオの実は石のように硬いし、1つ1キログラムぐらいもあり、それを小さな子が5個も6個も運んでいるのである。これには心が痛んだが、何もできなかったし、今考えても何もできなかったと思う」
この例の場合、女の子に指示する人(おそらく親)がおり、さらにその人にも指示する人がおり・・・・、という具合に、この女の子と最終的な消費者である私たちの間には明確な「つながり」があります。そして女の子が苦しむほど、私たち含め、「つながり」がある全員に程度に応じた罪悪がカウントされる可能性があります。

・何もしない罪
何もしていなくとも人を苦しめている場合があり、それは被害者の視点で見るとよくわかります。
漫画家の万乗大智は、小学生の時に受けたいじめ体験をこう語っています。
「毎朝学校に行くのがつらかった・・・・ 地獄のような日々だった。ある時、いじめっ子グループに囲まれて1人1人順番になぐられることがあったの。(中略)そのとき・・・・実は1番悲しくてつらいと感じたのが、いじめっ子グループに何もいわないでただ黙って見ていたクラスみんなの目だったの。なぜかそれが1番つらくて、心がもう壊れそうだったの・・・・ そういう気持ちはね、今でも決して忘れないよ・・・・決して」
実際は、「何もしない」という行為をしています。
法律でも何もしないことが罪になることがあります(不作為犯など)。
被害者が加害者を認識しているとは限りません。
今この瞬間も世界中には苦しんでいる人や動物がゴマンとおり、そういう事実を知っていたり知らなかったりするでしょうが、大抵はスルーしているはずです。

どんな罪悪を造っているか

どんな罪悪を造っているか具体例をあげます。

〇十悪

この世の悪を十にまとめた十悪とは?十悪より重い悪とは?

〇五逆罪

殺人より重い五逆罪とは何か?五逆罪より重い罪とは何か?

〇謗法罪

親殺しより重い謗法罪とは?

雑毒の善

どんな人でも、1つぐらいは善をしたことがあると思っています。しかし、人間の行う善は雑毒の善といって、毒が雑ざる善だと説かれます。

人間の善はすべて偽善であるワケ。偽善でもする必要があるワケ。

「善悪は人それぞれ」に対する反論

「善悪は人それぞれ」「善も悪も考え方次第」という人もいます。
確かに、「違い」に目を向ければ善悪は正確には人によって変わります。たとえば、日本人とアメリカ人とでは善悪観は違いますし、同じ日本人でも、現代と100年前とでは善悪観は違います。もっと正確に言えば、隣の人の善悪観とも、1秒前の善悪観とも違います。善悪観は刻一刻と変化しています。
・共通点に目を向ける
しかし、こう主張する人は大抵「違い」に目を向けすぎなので共通点にもっと目を向けるべきです。
ヒトという種であることが大前提としてあり、その上での個性です。遺伝子レベルでは99.99%同じです。同じ種だから同じような生き方をする運命にあり、別の種とは根本的な違いがあります。どれほど個性的だといってもアリはアリ、魚は魚、犬は犬です。どれほど個性的だといっても、人間は人間です。根本的な善悪観は共通しており、それに比べれば「違い」は微々たるものです。
「ヒトは姿形・体質・性格など極めて多様ですが、実はゲノムのおよそ99.9%はみな同じものを持っています。ヒトは99.9%は同じゲノム配列を持っている上で0.1%だけ差異があるから多様だということが認識できるのであって、ミジンコやコアラ、ウーパールーパーなどゲノム配列が大きく異なる生物を入れて考えてしまうと、ヒト間の差異など微々たるもので多様であるとはいえません」(高橋祥子著「生命科学的思考」より)

「人間の文化は表面的には多様で、とても珍しい慣行や風習があるかのようにみえても、本質的には変わらない。他の文化と根本からして違うまったく異質な文化などというものは存在しない。人間の体はさまざまな個人差があっても、根本的な構造はみな同じで、目が3つあるなど、まったく違う体をもつ人などいないのと同じことだ」(アラン・S.ミラー/北海道大学教授/「進化心理学から考えるホモサピエンス 一万年変化しない価値観」より)

多くの共通点があるからこそ、医学や心理学、法学といった学問も可能になります。
心理学者のポール・ブルーム(イェール大学教授)によれば、「人は、生まれながらにして道徳感を備えている」といいます。
また、人だけでなく他の生物にも善悪観に共通点があります。

生き物の命の価値はどのくらいか

それらは進化論で説明できるのかもしれません。
「ダーウィンの進化論は認めても、人間の抱く道徳律は、それとは別のものだと考える科学者は多い。でも、それでは生命の営みという全体から見た時、矛盾が生じてきてしまう。進化論と道徳律とは別というのでは、人間はでは一体どのようにして生まれてきたのか、進化論では説明がつかないものになってしまうであろう。生命の進化としてのこの宇宙の営みは、宇宙の誕生から、人間の誕生まで、そこには一貫した生命の営みが貫かれているのが自然であるから、人間の抱く道徳律に関しても、生命進化の必然性が秘められているはずである。統合力の進化は、人間の抱く道徳律が、共通感覚の誕生によってもたらされたものであることをはっきりと示している」(望月清文/城西国際大学教授)

・激しい苦は万人共通
そして、何より重要なことは、激しい苦しみは万人共通であるということです。
たとえばトゲが刺さるぐらいの苦しみであれば、人によっては気の持ちようで苦にも楽にも変えられるでしょうが、段々と苦しみを増していき、たとえばナイフが刺さるぐらいになれば共通したリアクションになります。
ましてや死後の地獄です。苦しみ以外の何ものでもありません。

・「地獄は仕方ない」
「人間は悪いことをしないと生きられない。だから地獄は仕方ない」という人もいます。関連して、「苦は耐えられる」「苦は脳が生み出した幻」「みんな地獄に堕ちるのなら怖くない」といったものもあります。
このように思ってしまう理由は、たいして苦しくない地獄を想像しているからであり、他人事に思っているからです。
また、このように言う人は、この世の地獄もまず知りません。
ジョン・ポーキングホーンは、悪が実在的な性質ではないという主張について、「これは、悪の経験の恐ろしい強烈さを理解しておらず、あまりにも気楽な理論」と言っています。
哲学者のボルテールは「幸福は夢にすぎず、苦痛は現実である」と表現しました。
火に触れただけでも耐えられないはずです。「心頭滅却すれば火もまた涼し」などとはどうしても思えないでしょう。実際に激しい苦がやってくれば、「仕方ない」では済ませられません。「何を差し置いてでも優先して解決したい」という欲求が生まれます。
「私たちが死に直面した時、生来もっていた土着の死生観を捨て、『死は刹那生滅の一時にすぎぬ』として現実を素直に受け止めることができるでしょうか。あるいは最愛の者を失っても、『無常は世の常』といって流せるでしょうか。とても俗人ではできません。わが事(主体的問題)と他人事(客観的問題)は別次元のものです」(泉美治/大阪大学名誉教授)
こんな話もあります。
源信が7歳の時のことです。
川で遊んでいると、比叡山の僧侶がやってきて弁当箱を洗い始めました。
それを見て源信は尋ねました。
「お坊さん、どうしてこんな汚い水で洗っているのですか」
「私たちにはキレイも汚いもないのだよ」
こう答える僧侶に、源信は再び尋ねました。
「ではなぜ洗うのですか」
洗うということは汚いと思っているということであり、キレイと汚いの区別、つまり善悪の区別をしているではないか、と源信は指摘したのです。
僧侶は返答に詰まり、偉い智恵のある子だなと感心したといいます。
この時代の比叡山の僧侶ですから、それなりに一生懸命修行していたでしょう。それでも、どうしても善悪を区別してしまっていたのです。
まして死後の地獄です。「仕方ない」などと済ませられるはずがありません。人間心理からいって、どうしても不完全な地獄(たとえば苦しみに間がある地獄など)を想像してしまいますが、近づくことは可能です。

人間は罪悪に鈍感

「それだけ重い罪悪を造っていれば、強い罪悪感を感じるはずだ」と思っている人もいます。
しかし人間は、自分の苦しみには敏感ですが、人の苦しみや罪悪には鈍感です。
釈迦がまだ少年だった時、小鳥が虫を啄む光景を見て大きな衝撃を受けました。つまり、その光景から、虫を小鳥が食べ、その小鳥を大鳥が食べ、その大鳥を人間が食べるという食物連鎖の頂点にいる人間の罪悪に驚いたのです。
普通の人間は、ここまでは感じないでしょう。内側(自分自身の心)からも、外側(社会的な圧力など)からも力が働いているため罪悪はわかりにくくなっています。
詳しくは第4巻で説明しますが、大抵の人間の善悪観の基準は「法律」や「道徳・倫理」といったものです。しかし、これは人間が造った不完全な基準であり、粗くて罪悪を正確にとらえることができません。口や身体の悪の1部しか対象にしていませんし、心の悪に至ってはすべて対象外です。

【法律は不完全、因果律は完全】世間と仏教の善悪観を比較する

人間には人を殺しても何とも感じない心理がある

・大衆に混ざる安心感
大衆の力は強いため、人間は大衆に迎合しやすいです。
「群衆の中にいる個人は容易に暗示にかかりやすい。そのためには何かちょっとしたことが起こりさえすればよい。たとえば大多数が賛成するような提案がなされると、たとえそれが非道徳的であっても、誰もがそちらに加担してしまう。大衆の中にいると、なんの責任も感じないし、また恐怖も感じないのである。このように集団との同一化は簡単で楽な道である。しかし、集団体験に陥ると、ちょうどそれに同一化した状態に止まってしまい、それよりも深いところに達することはない」(ユング/心理学者)
俗に言う「赤信号、みんなで渡れば怖くない」の心理です。
しかし車に轢かれれば激しく苦しむことになり、そして助かりたいと強く願うようになります。

・妄念
このあたりの心理の根本原因として、仏教では末那識があると説かれます。
罪悪を罪悪と思わせない心であり、「地獄は苦しくない」とか「苦しむのは他人であって自分ではない」「自分だけは絶対に死なない」といった顛倒した妄念を生み出す心です。(詳しくは第3巻)

悪人のくせに善人ぶるな

「玉に瑕」という諺があります。「それさえなければ完全であるのに、ほんの少しの欠点があること」を意味しますが、人間については逆に、「瑕に玉」という表現がピッタリです。もっと正確に言えば、玉は一切なく瑕しかありません。
先日、ある強盗が、盗みに入った家のパソコンの中に、たまたま児童ポルノがあるのを見つけ警察に通報したというニュースがありました。この強盗の罪の意識は、強盗に対してはなく、児童ポルノに対してはあったようです。どの人間の善悪観も、これと似たようなところがあります。
人間は、膨大な悪に比べてほんのわずかに雑毒の善をしますが、そのわずかな雑毒の善をもって善い人間だと自惚れています。
・人間は皆嘘つき
「とにかくね、生きているのだからインチキをやっているのに違いないのさ」(太宰治/小説家)

本性が悪性であるにもかかわらず、いい人間であるかのように見せて自分も人も騙しているのです。別な言い方をすれば、「いい子ぶる」「真面目ぶる」「上品ぶる」といった具合に、「ぶりっ子」しているということです。
「心口各異 言念無実 佞諂不忠 巧言諛媚」(大無量寿経)
(書き下し:心口おのおの異に、言念実なし。佞諂不忠にして巧言諛媚なり)
(訳:心で思うことと口で言うことが異なっており、どちらも誠実でない。口先が上手く、お世辞を言って真心を尽くさず、言葉巧みにこびへつらう)

「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ」(教行信証)
(訳:外面だけ利口で善人ぶった姿に見せてはならない。なぜなら、内心は嘘偽りであって、欲を貪り、怒り、邪で人を欺くといった心が絶えず起こり、悪性は止め難く非常に醜いからである)
人間は、「これだけは口が裂けても言えない」というのを、一人一人が持っています。人は嘘をついているのに、その自覚がありませんが、これでは救われません。
藤村新一という考古学研究者が起こした旧石器捏造事件なるものがあります。藤村が掘るところ次々と石器が「新発見」されたため、彼は「ゴッドハンド(神の手)」などと呼ばれ、彼の発見は教科書にも載りました。ところがある時、藤村が石器を埋めている瞬間をメディアの隠しカメラがとらえました。藤村は事前に石器を自分で埋めて、それを掘り起こすことで新発見であるかのように見せかけていたのです。25年間捏造を続けていたそうで、その間、一部疑う人はいたものの、メディアに撮られるまでバレなかったといいます。
因果応報の網から逃れることはできません。こんなバレ方もあります。
「市議が議会休みクルーズ旅行」というニュースがありました。岡山県総社市の仲達幸弘市議(65)が、入院・手術を理由に議会を欠席しながら、妻と豪華客船で旅行していたというものです。地元紙が同客船クルーズの特集を組み、中央部分に佐渡島のたらい船に乗った男女の写真を掲載、このうちの1組の男女が仲達市議夫婦によく似ていたことから疑惑が浮上したといいます。仲達市議は取材に対し次のように話しています。
「豪華客船の旅ということで楽しみにしていた部分もあったので、できれば行きたいなという思いが、僕の中に。誠に申し訳なかったなと思っています」
「(偽の証明書は)自分で作りました。ごまかしてごまかして、何とかなりゃせんかなという思いがあったんです。まさか新聞に載るなんて思ってもみませんでしたし」
写真を見ると確かに、たらい船に乗って川を渡っている夫婦の姿があります。どことなく元気がないように見えます。その後、彼は辞職願を提出したそうです。
第1巻では超能力の世界について詳しく説明しましたが、本当に超能力があったと思われる超能力者がイカサマした事例や超心理学者がデータを捏造した事例もあります。そういった行為が、ただでさえ難しい超心理の世界を、より複雑にしてしまっています。
この世には「真の人」だとか「立派な人」などという人間はいません。それにもかかわらず、人間は正しく人間を評価できず、戦国武将でさえ「英雄」とされている有様です。

織田信長や豊臣秀吉は英雄といえるのか?

・悪因は必ず悪果となる
悪い行いをすると必ず悪い結果が返ってくるという法則が悪因悪果の法則です。膨大な罪悪を造っている人間は、膨大な悪果を受けることになります。

釈迦が1番伝えたかった因果の法則とは

・死後は必ず地獄
膨大な悪果を受ける世界が地獄です。ですので、人間の死後は必ず地獄です。

地獄は本当にあるのか?苦しみはどれくらいか?誰が堕ちるのか?

罪悪の自覚

自己の罪悪を見て見ぬふりをするのではなく、直視することが人間として正しい生き方です。

罪悪観とは?悪人こそ救われる悪人正機とは?

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