「自分」とは何か?人生は自分を知るためにある。自分を客観視する方法とは?本当のマインドフルネスとは?

私以外私じゃないの(ゲスの極み乙女。)

自分を知る重要性

自分を知る重要性は古くから多方面で教えられています。
哲学者のモンテーニュは「世界でもっとも偉大なことは、己自身を知ることである」と言いました。
「朝には四本足、昼には二本足、夕方には三本足の生き物は何か?」
これはギリシャ神話に出てくる有名なスフィンクスのなぞなぞで、答えられなければ食い殺されるとされています。答えは「人間」ですが、これは遠まわしに人間に対して「人間とは何か」ということを聞いており、「人間でありながら人間を知らなければ生きている価値がない」と教えているのです。

人間は「自分」がわからない

では「自分」とは何でしょうか?たとえば、「頭の先から足の先まですべて自分だ」と思っている人は多いですが、果たしてそうでしょうか。
・「自分の〇〇」であって自分そのものではない
身体のあらゆる部位は「自分の手」とか「自分の足」というように、「自分の」という所有代名詞がつきます。「自分の手」や「自分の足」であって、自分そのものではありません。「自分の手」や「自分の足」と言わしめている「自分」とは何でしょうか。
 
・肉体が変化しても「自分」は変化しない
「昔の自分」と「今の自分」とでは、肉体的に変化があります。細胞レベルではまったく違うといっていいでしょう。
しかし、どんなに整形や移植手術をして肉体が変化しても、「昔の自分」と「今の自分」とでまったく別個の人間になることはありません。たとえば、A君がどんなに変わってもB君になるということはあり得ず、A君には変わらない「自分」という主体なるものがあるということです。
智度論に次のような話があります。
ある旅人の腕を鬼が引きちぎり、別の死んだ人間の腕をその旅人にくっつけました。同じように、足、胴、頭と次々に引きちぎってはくっつけを繰り返し、旅人の体と死骸とがすっかり入れ替わってしまいます。恐ろしい目にあった旅人は、こう自問します。
「親からもらった手も足も胴も頭も、鬼に食べられ、いまや自分の手も足も胴も頭も、見知らぬ死体のものである。一体、自分は自分なのか、自分ではないのか」
こう考えるとわからなくなってくるでしょう。
「この話は『私』ということの不可解さをうまく言い表している。このように考えだすとまったく解らなくなる。ここでは体のことになっているが、たとえば、われわれは職業を代えても、私は私と思うだろう。住居を代えても、私には変わりはない」(河合隼雄/元文化庁長官)
ある罪を犯した少年が、次のように主張して検事を困らせたという話もあります。
「時間が経てば、人間の細胞は全部入れ替わりまったく別物だ。心もそうだ。その別物の身心が犯した罪を、なぜ今の自分が責任をとらねばならないのか」
結局、この検事は少年を納得させることができなかったといいます。
また、生物学者の福岡伸一(青山学院大学教授)は次のような話をしています。
「生物学的には、厳密な本人認証ができないんです。私たちは銀行やお役所に行って免許証を見せたりサインしたりして本人であることを証明しているわけですが、実はそんなものは何の証拠にもなりません。指紋や網膜などのパターンも実のところは常に少しずつ変わっているわけで、自己同一性とか自己一貫性とかは、生物学的には何の根拠も基盤もない。比喩ではなく現実に、自己は絶え間なく変わっているわけです。極論すれば私たちは、あらゆる瞬間に死んで、あらゆる瞬間につくりかえられているということになる」
このように、人間は「自分」を知っているようで知りません。
「知るとのみ 思いながらに 何よりも 知られぬものは 己なりけり」という古歌の通りです。

・心に目を向けにくい
女優のマリリン・モンローは、心を軽視する医者を見て、「ああ、なんてことでしょう。人間は月にまで行こうとしているのに、脈打つ人の鼓動には関心がないみたい」と嘆き、トルストイは「誰もが世界を変革することを考える、だが誰も己を変えようとは考えない」と言いましたが、外に目が向きやすい人間が内(自分の心、自己)に目を向けるのは難しいことです。
なぜ目が向かないのか、それなりの理由があります。世間が信頼を置く科学が心を対象にしていないことも一因です。
「科学か主観性ではなく、科学と主観性なのだと言いたい。きちんと説明され承認が得られるのなら、私的な真実は客観性を損なうわけではない」
「科学者は、その習性として、客観性を重んじるあまり、目が外の世界だけに向いていってしまう。そして、その科学的成果が大発見であればあるほど、意識は、自らの内的世界を見ることよりも、外の世界を見ることにますます強く引きつけられてしまうのである」
「私は、ノーベル賞に代表されるような栄誉への科学者の憧れが、科学者1人1人の意識を客観性の虜にさせ、観念だけを肥大化させた機械的人間に科学者の心を歪ませてきてしまったように思う」(マーク・ベコフ/コロラド大学名誉教授)
物質中心の科学が生んでしまった悪しき面であり、心の科学の進歩を妨げる一因となっています。
経典もそうですが、2000年以上も前に書かれた書物にも、人間が外に目が向きやすいことがわかる記述があるので、これは人間に生まれつき備わっている性質なのでしょう。

自分を知る方法

自分を知るとは、正確に言えば客観的な自分を知るということですが、その方法にいくつかあります。
・自分から見た自分
自分で自分を評価するという方法があります。しかし、この方法だとどうしても主観的になってしまいます。「灯台下暗し」という諺もありますが、目で目を見ることができないように、あまりに近すぎてわかりづらいのです。
たとえば欲目が働きます。膨大な罪悪を造りながら、人間は自分をそんなに悪い人間ではないと思っています。

人間は悪の限りを尽くしている極悪人

多くの動物を苦しめているのに、「自分は生き物を可愛がるいい人間だ」と自惚れているのです。世間的にどれほど極悪人とされている人でも同じです。
ヒトラーは「未来の人々は我々に対して、永久に感謝を忘れないであろう」とユダヤ人を絶命させる計画を人類に対する貢献として誇りました。
ルドルフ・ヘスも次のように語っています。
「私自身が、抑留者の一人でも、虐待したり殺したりしたことは一度もない」
「世人は冷然として、私の中に血に飢えた獣、残虐なサディスト、大量虐殺者を見ようとするだろう。———けだし、大衆にとって、アウシュヴィッツ司令官は、そのようなものとしてしか想像しえないからである。そして彼らは決して理解しないだろう。その男もまた、心をもつ一人の人間だったこと、彼もまた、悪人ではなかったことを」
抗争相手をマシンガンで容赦なく殺したギャング王アル・カポネは、「俺は今まで社会福祉のために随分寄付をしてきた、なのに世間の奴らは俺を極悪人呼ばわりする」と嘆いたといいます。
以前、ルアー作りの職人が「自分の仕事を誇りに思う」と笑顔で語っているのを見たことがあります。殺生の道具を作りながら誇ってしまう、それが欲目です。

「私ほど悪い人はいません」という自慢(卑下慢)、不良自慢する心(邪慢)etc.人間は慢の塊

・他人から見た自分(他己)
また、他人が自分を評価するという方法があります。しかし、これも本当の自分を見せてはくれません。
たとえば、人間は他人を評価する際、「自分の都合」を入れてしまいます。つまり、自分に都合がいい人を「いい人」だと思い、自分に都合が悪い人を「悪い人」だと思ってしまうのです。

人間は、自分に都合がいい人を「いい人」だと思い、自分に都合が悪い人を「悪い人」だと思う

・科学から見た自分
先の2つの方法は古くからいわれていますが、科学から見た自分も期待されます。しかし、ようやく心に目が向き始めたという段階で、まだ心の一面しか捉えられておらず、まだまだ長い道のりがあるでしょう。

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・仏法から見た自分
先に挙げた方法では、どれも真実の自分の姿を見せてはくれません。では、どうしたらわかるかというと、仏教では「仏法から見た自分」が真実の自分であると説きます。法とは、サンスクリット語のダルマの中国語訳で、日本語では「真実」という意味です。

仏法から見た自分

仏教は真実を説いているだけ

仏教は「仏の教え」と書きますが、仏とは釈迦を指します。
釈迦は35歳で仏の悟りを開き、80歳で入滅しましたが、仏として45年間布教した教えを、今日、仏教と呼んでいます。
その仏教は何を説いているかというと、真実を説いているだけです。仏教は、良い話をしているのでもなければ、楽になる話をしているのでもありません。また、明るい話をしているのでもなければ、真面目な話をしているのでもありません。ただ真実を説いているだけであって、それを良い話だとか決めているのは受け手の勝手な偏見です。
また、仏教で説かれるから真実なのではなく、真実だから仏教で説かれるのです。ニュートンが万有引力を発見したように、元々あった真実を釈迦が発見したということです。もっと正確に言えば、釈迦自身も言っているように、過去の仏が発見して埋もれていた真実を釈迦が再発見したのです。
・如来
仏のことを如来ともいいますが、これは真如来現の略であり、真如とは真理のことです。つまり、仏とは真理を説きに来たり現れた方ということです。

・仏教でなくてもいい
ですので、誤解を恐れず言うと、真実を教えていれば仏教でなくても構わないのです。真実は仏教だけの専売特許ではありません。真実をもっと的確に表現している教義があれば、そちらを取るべきです。
この点、人間が作った他の多くの宗教とは大きく違います。人間が作った宗教は、どうしても人間に都合よくできています。 たとえば、キリスト教の間違い(天動説)を科学(地動説)が正してきた流れをみましたが、このように人間の直観はよく間違えます。

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仏教は自己を知るためにある

自己とは、自分自身のことであり、自分の心を意味します。
仏教で説かれる一切は自己を知るためにあります。仏教の目的である悟り(死の解決)が自己を知ることで開けるためです。このため、仏教は自覚教ともいわれます。
「往生要集」で有名な源信は「夜もすがら 仏の道を 求むれば 我が心にぞ たずね入りぬる」と詠み、曹洞宗の開祖・道元は「仏道をならうというは、自己をならうなり」と言いました。
阿含経には次のような話があります。
30人ほどの貴族たちが、それぞれ妻をつれて森に遊びに来ました。その中で1人だけ未婚の男がおり、彼は妻の代わりに遊女を連れて来ていました。
ところが、森でうつつを抜かして遊んでいるうちに、その遊女が彼らの財物を盗って逃げてしまいました。それに気づいた貴族たちが、あわてふためいて森の中を探していると、木陰で休んでいる釈迦と出会いました。
「こちらに女が逃げてこなかったでしょうか」
貴族たちが尋ねると、釈迦は「逃げた女を探すことと、汝自身を探し求めることと、どちらが大事か」と言い放ったといいます。
・一切は自己を知る手段にすぎない
世間一般では無常の幸福に価値が置かれ、基本的に無常の幸福を得れば成功であり進歩であり幸せであり善であると考え、無常の幸福を失えば失敗であり後退であり不幸であり悪であると考えます。
しかし、悟りを求める求道者は自己を知ることに価値を置きます。ですので、たとえば努力した結果、無常の幸福が手に入らなかったとしても、自己を知ることができれば、成功であり進歩であり善であるのです。逆に、無常の幸福が手に入ったとしても、自己を知ることができなければ、失敗であり後退であり悪であるのです。
また、無常の幸福が無いより有ったほうが求道に有利だとはいえません。たとえば、「貧乏より金持ちのほうが有利」ということは言えないのです。求道の基準は自己を知ることであり、無常の幸福の有無や多少といったものとは別個の世界です。ですので、無常の幸福の有無や多少に関係なく、その人の置かれた環境下で求道を進めることができます。

・常に自己を見つめる
常に自己を見つめながら行動します。仕事中でも恋愛中でも食事中でもトイレ中でも、幸せな時でも不幸な時でも、24時間365日、何をする時でも常に自己を見つめるのです。心の動きを見つめながら行動するというのは、最初は意識しないとできませんが、慣れると無意識に自己を見つめながら行動できるようになります。
一見すると、求道者も世間の人と同じように仕事をしたり無常の幸福を求めているように見えますが、根本的な動機がまったく違います。心のベクトルがまったく違うのです。たとえば、世間の人は無常の幸福を手に入れるために仕事をしますが、求道者は自己を知るために仕事をします。
華厳経には、「求道者は、家においては、妻子とともに老いるけれども、しばらくも、さとりへの心を離れず、あらゆる智慧の境界を心に思い浮かべ、みずからにさとりに向かい、他の人々をも、そこへいざなう」と説かれています。
また、一見すると仕事を一生懸命したり世間事を重視しているかに見える求道者が死の解決をし、一見すると仏教用語をよく覚えたり仏教を重視しているかに見える求道者が死の解決をしていないということがあります。どうしてこんなことになるのか、心に目を向ければ仕組みがわかります。この場合、前者は仕事が聴聞になっていたのに対し、後者はただ仏教用語を聞いていただけで大して聴聞になっていなかったのです。

・自分で気づくしかない
真実の自己に気づかせるために仏教では様々な教えが説かれていますが、最終的には、自分で気づくしかありません。
ガリレオは「人を教えることはできない、ただ自悟させる手助けをするにすぎない」と言いましたが、自分で自分の欠点に気づいて自分で良くしていくしかないのです。
有名な「見えないゴリラ」と呼ばれる実験のように、気づけば必ず驚き、「なぜ、こんな当たり前のことに気づかなかったのだろう」と不思議に思うはずです。

・より深い心を知る
自己を知るということは、より深い層の心理を知っていくということであり、無意識を意識化できるようになるということです。求道することで今までなかった心が新たに生じるのではなく、すでにあったものの自覚できずにいた心が自覚できるようになるのです。

・八つの心
心には大きく8つあり、これを八識といいます。識とは心のことです。

眼識:視覚
耳識:聴覚
鼻識:嗅覚
舌識:味覚
身識:触覚等
意識:第六識にあたる心で物事を分別したりする心
末那識:第七識にあたる心で阿頼耶識の本当の姿を覆い隠す心
阿頼耶識:第八識にあたる心で最も深層にある心

阿頼耶識とは

自己を追求していくと、最も深い心であり、真実の自己である阿頼耶識が見えてきます。

阿頼耶識とは

・「自分」とは阿頼耶識
先ほどの例で言えば、「自分の手」とか「自分の足」と言わしめている「自分」が阿頼耶識であり、どんなに肉体や思想といったものが変わろうが、変わらない主体なるものが阿頼耶識だということです。
第1巻でも見たように、生命は無意識を意識化する方向へ進化していますが、最終的には阿頼耶識を意識化することにあります。
「内を見る目がとらえた統合力は、最も進化した統合力としての共通感覚であるが、その共通感覚によって、今度は、その共通感覚の基盤となっている根源の統合力を意識的にとらえることができる。その意識がとらえた根源の統合力こそ『私』という感覚である」(望月清文)

・心理の真理
根本的な人間心理というのは万人共通であり、時代や場所によって変わることはありません。釈迦が生まれた2500年前のインド人であろうと、現代の日本人であろうと同じです。
阿頼耶識が、何よりも優先して知る必要がある深刻な心理であり、たとえば現代心理学で教える心理というのは、優先して知る必要のない浅い心理です。大乗仏教の視点から見れば、心理学は最終的に、この阿頼耶識を発見しようとしていると説いているわけです。
「現代は、唯識が哲学として求めたことの多くが科学的事実として知られている時代でもあります。このことは、唯識にとって、また仏教にとってまことに幸せなことで、仏教は恵まれた時代にあるといえましょう」(泉美治/大阪大学名誉教授)

「西洋では仰々しく『無意識の発見』などと言っているが、仏教ではそんなの当たり前のことだったのではないか。仏教の『唯識学』などは深層心理学そのもので、千年以上もたってから西洋で『発見』などと言い立てることもない」
「その『科学性』はあやふやであることがすぐわかります。深層心理学にいろいろな学派があるという事実も、自然科学者の『真理はひとつ』という観点からみると、おかしいと思われるでしょう」(河合隼雄)
また、あくまでオマケですが、根本的な心理を知ると応用が利き、テクニック的なことをいちいち覚えなくてもいいから便利です。

本当の自分は極悪人

仏法の鏡に映し出された真実の人間の姿は、悪の限りを尽くしている極悪人です。

人間は悪の限りを尽くしている極悪人

「心常念悪 口常言悪 身常行悪 曽無一善」(大無量寿経)
(書き下し:心常に悪を念じ、口常に悪を言い、身常に悪を行い、曽て一善無し)
(訳:心は常に悪を念い、口は常に悪を言い、身は常に悪を行い、今だかつて1つの善もしたことがない)
ここで重要なことは、非連続の連続を意味する「恒」ではなく、「常」を使っている点です。絶え間なく罪悪を造り続けているということです。
別の経にも、「一人一日のうちに八億四千の憶いあり、念々になすところこれみな三途の業なり」と説かれています。これは、「人間は一日の中で、無数の業を心で造っているが、これらはすべて悪業であり地獄行きの業である」という意味です。
他にも、膨大な罪悪を造っていることは聖教に縷々説かれています。
「もし起悪造罪を論ぜば、なんぞ暴風駛雨に異ならん」(安楽集)
(訳:もし悪を起こし罪を造るということを論ずるならば、どうして暴風や豪雨と異なろうか。暴風や豪雨の如く罪悪を造っているのである)

「もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずということなし」(口伝鈔)
(訳:元々、罪悪の塊である凡夫であるので、罪悪の大小に関係なく、心と口と身体で造る行為はすべて罪悪である)

心が火の元

「心常念悪」と最初に説かれており、心が根本であることを表しています。ですので、火の元である心の悪を消す必要があります。
ユネスコ憲章には、「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」とあります。
アインシュタインは、「科学が戦争という脅威をもたらしたが、本当の問題は、人々の頭と心の中にある」と言いました。

ストーカー被害を受け続けた末に殺害された、逗子ストーカー殺人事件。被害者の夫は、「殺意が消えない限りいつか殺されていた」と語ります。また被害者の兄も、「警告があって、逮捕もあって。ある意味、やれることは、かなりやっているわけですよね。それでも、まったく止めることはできない。それを考えていくと、単に相手に罰を与えるとかいうことよりも、もう加害者を止めるしかない」と語り、「治療やカウンセリングなど、罰則だけでなく最悪の事態になる前の措置が必要」と訴えます。
口や身体の悪の1部を取り締まるのが法律です。心は対象外で、どんなに悪いことを思っても捕まりません。これから心の科学が進み、心も法律の対象となるかもしれませんが、進んだ法律というのはそうであるべきです。

・心の悪が見えてくる
肉眼では見えなかった小さなものがルーペ(虫眼鏡)で見えるようになり、ルーペでも見えなかったものが顕微鏡で見えるようになります。ちょうどそのように、法律では見えなかった口や身体の悪が道徳・倫理で見えるようになり、道徳・倫理でも見えなかった心の悪が仏法で見えるようになります。
また、顕微鏡の倍率が上がるほど、より小さなものが見えるようになるように、聴聞して自己を知るほど、より深い心の悪が見えるようになります。
そして、肉眼で見えないからといってウイルスやガンを放置しておけばやがて重大な結果をもたらすように、無明という重い病を放置しておけば地獄という重大な結果をもたらします。

・心の悪は消し難い
しかし、これまで様々な事例で見たように、心の悪は消し難いものです。
「見ざる、聞かざる、言わざる」はできても「思わざる」だけは難しいことです。
「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎の如くなり」(悲嘆述懐和讃)
(訳:悪性はどうしても止め難く、心は非常に醜い)
安土桃山時代の大盗賊、石川五右衛門は釜茹での刑に処される前に、次の辞世の句を詠んだといわれています。
「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」
これは、「私を処刑し、砂浜の無数の砂がなくなっても、世に盗人の種は尽きないぞ」という意味です。つまり、人間の心に盗人の種があるのだから盗人は次から次へと出てくるぞと言っているのであり、心が火の元であると言っているのです。盗みは悪いことですが、真実を衝いた句です。
東条英機は、「人間の欲望は本性であり、国家の成立も欲からなり、自国の存在だとか、自衛というようなきれいな言葉でいうこともみな国の欲であり、それが結局戦争となるのだ」と言いました。
戦争を体験した、ある女性兵士はこう語っています。
「戦争中どんなことに憧れていたかわかるかい?あたしたち、夢見ていた、『戦争が終わるまで生き延びられたら、戦争のあとの人々はどんなに幸せな人たちだろう!どんなにすばらしい生活が始まるんだろう。こんなにつらい思いをした人たちはお互いをいたわりあう。それはもう違う人たちになるんだね』ってね。そのことを疑わなかった。これっぽちも。
ところが、どうよ・・・・え?またまた、殺し合っている。1番理解できないことよ・・・・いったいこれはどういうことなんだろう?え?私たちってのは・・・・」(「戦争は女の顔をしていない」より)
よく「戦争は人の心を鬼に変える」といわれます。この表現だと、もともと善人だった人が戦争という悪縁によって悪人に変わると聞こえますが、そうではありません。人間は皆、元より極悪人なのです。

何をするか

では、自己を知るために具体的に何をしたらいいかということですが、無常観と罪悪観を問い詰めるということになります。「観」は「感」とは異なり、心の眼で見るという意味があります。無常観と罪悪観を問い詰めることが、自己を客観視する1番の訓練になるということです。その理由については、読んでいけばわかるでしょう。
・無常観
無常を観じるということです。
道元は「無常を観ずるは、菩提心のはじめなり」と言いましたが、無常を観じることは菩提(真実の幸福)を求める心につながります。ちなみに菩提を求める人を菩提薩埵といい、略して菩薩といいます。

無常観とは?寂しさには2種類ある

・罪悪観
自己の罪悪を見つめるということです。
仏教には悪人正機という言葉があります。悪人こそ救われる正しい根機(心)という意味です。仏教で説かれる「悪人」とは、自分の罪悪を自覚して苦しんでいる人であり、反省して罪悪を造らないよう努力している人のことです。
歎異抄には「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という有名な言葉があります。「善人でさえ救われるのであれば、悪人はなおさら救われる」という意味です。

罪悪観とは何か?悪人こそ救われるとは?

闇が深まるほど月は光り輝くように、無常観や罪悪観が問い詰まるほど菩提心が強く生じます。
無常観と罪悪観は別々なものではなく密接な関係があり、求道が進むにつれ2つが1つになっていき、やがて一致します。ですので、どちらか問い詰めやすいほうを問い詰めればよく、無常観が強い人は無常観を突き詰め、罪悪観が強い人は罪悪観を突き詰めればいいのです。ちなみにあくまで一般論ですが、無常観は若い人が問い詰めやすいです。

自分を知るのは難しい

自己を知るには、自己に勝つ必要がありますが、それは非常に難しいことです。
見えないのでわかりづらいですが、自己との闘いは激しい闘争です。
「気づき」を得、自己を知るということは難しいのです。
「山中の賊を破るのは易く、心中の賊を破るのは難し」(与楊仕徳薛尚誠書)

「自らに勝つことこそ、最も難しい勝利」(アリストテレス/哲学者)

「自己に打ち勝つことは勝利のうちで最大のものである」(プラトン/哲学者)

「運動のほうがなじみ深いし、男らしい。何かをしているという実感がある。ところが、静かに瞑想するのには、ある人の言葉によれば『女々しい感じ』がある。瞑想は、外からは何もしていないように見える。しかし、本当は瞑想とは力強い行動的なプロセスなのである」(ディーン・オーニッシュ/カリフォルニア大学サンフランシスコ校医学部教授)

「『気づき』を促すためであれば、時に大きく感情を揺るがすような攻撃的言動も辞さないほどの姿勢が取られ、まさしく壮絶な苦闘が繰り広げられることもしばしば見られる。『気づき』という契機は、それほどの努力をもってして、ようやく得られる困難な過程であり、またそれほどの努力をしてでも手にするべき、重大なものであるともいえるだろう」(安藤治/精神科医/花園大学教授)

求道は自己との戦いの連続です。
内側からは煩悩が逆巻き、外側からは迷った大衆が圧力をかけてきますが、それらに勝ち続ける必要があります。

どれくらい努力が必要なのかについてですが、先達がいますので、こちらを参照ください。

【熾烈な修行をした仏教徒の事例】釈迦・求法太子・雪山童子・達磨と慧可・明恵・親鸞・慧春・苅萱道心・山本良助・白隠

「悟り」は本当に存在するのか?どうしたら悟りを開けるのか?

本当のマインドフルネス

マインドフルネス(mindfulness)というのが流行っていますが、元は仏教用語で、日本語では「気づき」という意味です。辞書には次のように書かれています。

今この瞬間の自身の精神状態に深く意識を向けること。またそのために行われる瞑想。2010年代半ば頃からストレス軽減や集中力の向上に役立つ心的技法と見なされ、特に欧米の企業を中心に社員研修などに採り入れる動きがある。(大辞泉)

世間で流布しているマインドフルネスと、本当のマインドフルネスがいかに違うか、わかって頂けたと思います。
小さな「気づき」を積み重ねることで、やがて大きな「気づき」である悟りを開くことができます。

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