ガリレオ裁判がキリスト教にとって致命的な出来事といえるワケ。科学の批判に耐えられない宗教に価値はない

教義を変え謝罪した教会

周知の通り、ガリレオはコペルニクスの地動説を支持し、教会が支持する天動説を批判したため、1633年に宗教裁判にかけられ有罪判決を受けました。天動説を取る教会にとって、地動説を唱えるガリレオの存在は聖書を否定し神を否定することであったため、教会は徹底してガリレオを迫害したのです。
しかし、359年後の1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、公式に謝罪しました。359年間、頑なに地動説を認めなかった教会が、なぜ認めて謝罪したのかというと、根底には科学の発展があります。 
科学が発展し、地動説は世間の常識となりました。地動説を取れば「絶対の教え」を否定し神を否定することになります。しかし、このまま天動説を取り続ければ、「非科学的な教え」というレッテルを貼られ世間に笑われます。どちらを選んでもキリスト教にとって致命的ですが、彼らは最終的に地動説を取りました。そして、「絶対の教え」から「科学の成果に目を向け、必要なら神学の解釈を再検討する義務がある」という方針に変わりました。

人間が造った宗教は人間に都合よくできている

このように人間の直観はよく間違えます。
「今では、地球平面説や天動説を信じている人などまずいない。私たちは、知覚を読み違えたことを認識し、それを訂正してきたのだ。それは簡単なことではなかった。その過程を通じて、ありきたりの直観や教会の教えが木っ端みじんに砕かれた。だが、それは準備運動にすぎない。今や私たちは、時空それ自体、ならびにその内部に存在するあらゆるものを放棄しなければならない」(ドナルド・ホフマン/カリフォルニア大学アーバイン校認知科学科教授)
自然というのは、ありのままに観察すべきで、人間の都合を入れてはならないはずです。真実を追究する学問である科学の批判に耐えられない教えに価値はありません。
その点、仏教は科学の批判に耐えられる教えです。
「なぜ仏教は正しいかという問いに対する私のいちばん短い答えは、私たちが自然選択によって生み出された動物だからだ。自然選択は私たちの脳に傾向をそなえつけた。そして初期の仏教思想家は、利用できる科学的な手段がとぼしい中でその傾向を見極めるというすばらしい仕事をやってのけた。今では自然選択に対する現代の理解と自然選択が生み出した人間の脳に対する現代の理解を踏まえて、この見極めを新たな視点から弁護できる」(ロバート・ライト)

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