人間は悪いことをしやすいようにできている。縁さえくれば何万人でも殺してしまう

罪悪は造りやすい

心理学では、自分の興味・関心のある情報に選択的に注意を向け、優先して記憶に残そうとする選択的注意というフィルターが人間の脳にはあるとされています。代表例として、パーティー会場のような騒がしい中でも、自分が興味のあるキーワードは聞き取ることができるカクテルパーティー現象があります。
この能力を活かせば、善をする→善をしやすくなる→ますます善をする、といった好循環にすることもできるでしょう。

惑業苦の輪廻

しかし、人間は悪を造りやすいようにできています。大毘婆沙論には、酒を飲んだ男が(飲酒)、酒の肴に隣家の鶏を殺し(偸盗と殺生)、さらに鶏を探しに来た女を犯し(邪淫)、そして捕まったが嘘をついてしらばっくれようとした(妄語)という話で教えています。善は意識的に努力しないとできませんが、このように悪は簡単に造ってしまいます。
そして1度悪を造ると、人間は惑いやすくなり、もっと大きな悪を造りやすくなります。つまり、苦しむ→惑って悪を造る→ますます苦しむ→ますます惑って悪を造る、という悪循環になりやすいということです。金に困る→盗む→捕まるのが嫌で殺してしまうといった具合です。これを惑業苦といいますが、すべての人間は惑業苦の輪廻に苦しんでいます。

縁さえくれば人も殺す

歎異抄には、「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」という言葉があります。「縁さえくれば、人間はどんな振る舞いもする」という意味です。阿頼耶識にはあらゆる悪因が蓄積されているために、しかるべき悪縁がやってくれば、どんな罪悪でも造ってしまうのです。
進化心理学の創始者リーダ・コスミデスは、「心はアーミーナイフのようだ」と言いました。アーミーナイフは、柄の中にナイフやハサミ、ドライバーといった多様な道具を格納しています。普段は息をひそめている心理が必要に迫られると現れてくるさまが、アーミーナイフにそっくりだと言うのです。
また、同じく歎異抄には、「我が心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじとおもうとも、百人千人を殺すこともあるべし」と説かれています。これは、「自分の心が善いから人を殺さないのではなく、縁さえくれば百人でも千人でも殺してしまうのが自分である」という意味です。
凶悪犯罪などのニュースを見て、「自分は絶対にこんなことはしない」と思うでしょうが、そうではありません。縁がくれば何でもしてしまう因を誰もが持っているのです。
京都府警の巡査がパトロール中にあて逃げし、道交法違反容疑で書類送検されたというニュースがありました。この巡査は、「頭が真っ白になって逃げてしまった」と話し、依願退職したといいます。
また、お笑いコンビ、ノンスタイルの井上裕介が、ひき逃げの疑いで書類送検されたというニュースもありました。井上は、「事故を起こしたことを世間に知られたら大変なことになると思った」と供述し、逃げたことを認めています。
自転車で走行中に85歳の女性にぶつかり死亡させたとして、20歳の男子学生が逮捕されたというニュースもありました。男子学生は119番通報し、「通りかかったらおばあさんが倒れてけがをしている」と嘘をつき、事故を申告しなかったといいます。「警察に捕まると大学を辞めなければならないと思い、怖くなって嘘をついた」と容疑を認めています。
ひき逃げや嘘をつくのが悪いことは誰でもわかっています。特に、警察官は取り締まる側の人間であるはずです。それなのに、なぜ彼らはこんなことをしてしまったのでしょうか?彼らに限らず、ひき逃げは後を絶ちません。

・76歳の女性をひき逃げした疑いで警察庁技官の男を逮捕。女性は死亡。「大変なことをしてしまい、怖くなって逃げた」と容疑を認めている

・小学生の男の子をひき逃げした疑いで男性教諭を逮捕。「怖くなって逃げた」と容疑を認めている

・小学生の男の子をひき逃げした疑いで32歳の女を逮捕。男の子は意識不明の重体。「事故を起こして怖くなって逃げた」と容疑を認めている

・75歳の男性をひき逃げした疑いで介護福祉士の女を逮捕。男性は肋骨を折る重体。「仕事に遅れそうだった」と容疑を認めている

・27歳の男性をひき逃げした疑いで19歳の女を逮捕。男性は右足を折る重傷。「気が動転して逃げてしまった」と容疑を認めている

彼ら全員が特別おかしい人間だとは考えにくいでしょう。一様に「怖くなって逃げた」という言葉が出てきますが、冷静に考えれば損をするとわかっていても、理性を吹き飛ばす力が働くのです。まさか自分がひき逃げし人を殺すことになるとは、直前まで夢にも思わなかったはずです。
彼ら全員が特別おかしい人間だとは考えにくいでしょう。一様に「怖くなって逃げた」という言葉が出てきますが、冷静に考えれば損をするとわかっていても、理性を吹き飛ばす力が働くのです。まさか自分がひき逃げし人を殺すことになるとは、直前まで夢にも思わなかったはずです。
「ヒトラー」と聞けば、多くの人が「彼は異常者であって普通の人とは違う」というイメージを持っているでしょう。しかし本当にそうでしょうか。

ヒトラーは異常者だったのか?誰もがヒトラーになり得る

ノンフィクション作家の森達也(明治大学特任教授)は、死刑判決を受けたオウムの幹部やイスラム原理主義の兵士、出所した連合赤軍の元メンバーたちに会って話を聞き、手紙でやり取りを重ねたといいます。その感想を森は、「自分たちとは違う存在ではなく、彼らが皆とても普通」だと言い、「とても善良で優しいことを実感している」と言います。
また、脳科学者の藤井直敬は次のような話をしています。
「これまでの人類の歴史の中で、わたしたちは、考えられないようなさまざまな残虐行為を行ってきました。特に、戦争に関わる残虐行為は、洋の東西を問わず歴史上途絶えたことがありません。これは大変残念なことですが、そのような戦時中の残虐行為を実際に行った人々がすべて生まれつき残虐で、しかも人の命をなんとも思わないような人々であったわけではありません。おそらく逆に、そのような行為に携わった人々のほとんどは、市井に暮らすまったく普通の人々だったのです。わたしたちだって、その場に居合わせたら、それらの行為に加担せずにすむかどうかは定かではないのです。(中略)戦場で敵を殺すことは栄誉ですが、平時では単なる殺人です。まったく同じことを行っても、その評価はそのときの世論によって変化するのです。(中略)そのような社会における強制力は、わたしたちが思ってもいなかったところから、予想以上の強さで行使されます」
「(9.11の同時多発テロのとき)僕は当時アメリカで研究を行っていましたので、そのときのアメリカ国内の変化の様子を実際に肌で感じました。たしかに、このテロによってワールドトレードセンターが崩れ落ちる映像は非常に衝撃的でしたが、その後のアメリカ国内の変化のほうが、僕にはさらに衝撃的でした。特にテレビや新聞などのメディアのヒステリックな愛国報道には、本当に驚きました。それに乗せられてヒステリックにアラブ系住民に不当な差別を加える人々が現れ、メディアもそれをさも正当なことのように報道していました。そんな人々のヒステリックな気持ちにうまく便乗することでブッシュ政権は戦争を開始しました。この時期のアメリカでは、アフガニスタン侵攻も、イラク侵攻ですら、その参戦に関して疑問を口にすることがはばかられました。(中略)当然ながらアメリカ人の中にもそれに疑問を持つ人は少なくありませんでしたが、彼らも、異様な愛国的キャンペーンの前では沈黙を守るしかありませんでした」
「わたしたちは、本質的にきわめて脆弱な倫理感と、無意味に保守的な傾向をもった生きものなのだといえるでしょう。このことは、わたしたちの日常生活でも、日々実感されることです。強いストレス環境下では、脳が後天的に獲得した倫理観や行動規範はすっかりはげ落ち、環境状況が求めるままの振る舞いに無責任に落ち込む危険性を持っているのです」
「似たような構造は常に社会のそこここに散在しています。学校でのいじめ、社内での派閥争いなど、人々が集まるところでは、同様の不幸な構造が常に発生しうるものであることを、わたしたちは肝に銘じるべきなのです。
どんな人でも、『わたしはそんなひどいことをする人間ではない』と言いつつ、知らないうちに誰かを虐待しているかもしれないのです。加害者には、虐待の意識が生まれにくく、被害者は声をあげにくいものであるということを常に心にとめておく必要があります」
「戦争ができるということ、ある文脈下では人を平気で殺すことに違和感がないということは、環境もしくは社会の中で、おそらく人が持っている脳の特質なのだと思います」
そして「誰もがアイヒマンになりうる」と言います。
このように、人間は縁次第であらゆる凶悪犯罪を行ってしまうのです。刑務所と娑婆は紙一重です。
もっと言えば、第1巻から説明してきたように、凶悪犯罪者と同じようなことをすでにしています。
さらにもっと言えば、その凶悪犯罪者よりももっと酷いことをしています。「謗るまじ たとえ咎ある 人なりと 我が過ちは それに勝れり」という歌もあります。
ですので、人の悪を見て「自分とは違う」と見るのではなく、自分の姿でもあり、自分の罪悪を見つめる縁とすべきです。そうすれば、人の悪を見るたびに罪悪感に苛まれ、きっと怒りが出るはずです。
ニュートンは、「天体の運動なら計算できるが、群衆の狂気は計算できない」と言いましたが、人間の心は予測が難しく、信用できない面があるのです。人間の心は波打っています。コロコロ変わるから心という説もあるぐらい、人間の心は変化しやすいものです。どのように変化するか自分でもわからない面があるため、「心は常に信用するものでもないし、信用しないものでもない」ということがいえるでしょう。
縁がくれば誰でも罪悪感を感じることなく人を殺し、そして、後になって「なぜあんなことをしていたのか」と異常な精神状態だったことを懺悔するのです。

縁さえくれば大量殺戮さえ犯す。戦争に学ぶ人間の本性。

科学と仏教の会オンリーライフメルマガ登録