すべての人間は、無明という自覚症状がない恐ろしい病にかかっている

無明とは

無明とは、無明の闇とも、三途の黒闇ともいい、書いて字の如く、明かりの無い真っ暗な闇のような心で、何をやっても安心・満足ができない心です。最も根本的な煩悩であり、この無明の心を持っているために、すべての人間は根本的に幸せにはなれないということです。

恐ろしき病

死後の地獄を惹起させるため、無明は非常に重い病にたとえられます。蓮如は「無始よりこのかたの無明業障の恐ろしき病」と表現しています。
普段は無明を自覚することはなくても、臨終になると底知れない恐怖を伴って現れます。
ドイツの文豪ゲーテは臨終に「暗い、もっと光を」と言い、ヴィクトル・ユゴーも臨終に「黒闇が見える」と言って死んでいきました。
これまで何度も紹介した岸本英夫は最期、彼の息子によれば、昼間なのに「暗い」と言って電気スタンドをつけさせたといいます。
私の祖母も死の直前、付き添っていた母によれば、やはり昼間なのに「電気をつけてくれ」としきりに言っていたそうです。
ちなみに、「恐ろしい病にかかっている」と言われて病院でレントゲンを撮ってもらった人もいますが、無明の病は今のレントゲンには写すことができません。聴聞し、自己を追求しないと見えません。

自覚症状がない危険

しかし、この病は自覚症状がありません。
「苦痛」というのは、どこかに異常があることを教えてくれるシグナルでありアラームなので、「痛み」といった自覚症状がある病は、それほど恐いものではありません。
本当に危険な病は、ガンなどの自覚症状が無いものです。自覚症状となって表れた時には、すでに手遅れである場合も多いのです。
たとえば、無痛症という痛覚がない人たちがいます。気づいたら骨が折れていたとか、歯を抜いたり舌を噛み切ったりして血だらけになって遊ぶ子供もおり、そのため無痛症の人は寿命も短いといいます。
他にも、麻酔をした後は、熱いものに気をつけるよう医師から注意を促されますし、痛みを我慢すると取り返しがつかなくなったりします。
こういったことは、痛みがいかに大切であるかを教えています。
「ほとんどの医師は、苦しみを変革への入口、触媒と考えるようには訓練されていない。苦痛は敵で、できるだけ早く退治しなければならないと考えている」
「苦痛には理由がある。苦痛はこう教えているのだ。
『ほらほら!聞いてくれよ!注意を向けてくれよ!あんた、自分にとってまずいことをやってるんだよ!』
苦痛はメッセンジャーであり、情報だ。苦痛に耳を傾けず、メッセージを聞かず、根本的な問題に取り組まないで、ただ苦痛を鎮めるだけなら、火災報知器を止めるだけで、火事を消さずにまた寝てしまうのと同じだ。炎はますます高く燃え上がり、家は焼け落ちてしまう問題の原因に取り組まないからである」(ディーン・オーニッシュ/カリフォルニア大学サンフランシスコ校医学部教授)

病人の自覚

すべての人間は無明の病を患った重病人です。
重病人であるという自覚は非常に重要です。自覚できれば、自ずと治したいという欲求が生まれ解決に向かうからです。ガンなど、死に直結する重い病が見つかれば財産を投げうってでも治そうとします。放っておけば死ぬという大変な結果がやってくると思うからです。
地獄という大変な結果を引き起こす無明の病を自覚できれば、誰でも必死に治そうとします。自覚できなければ、治したいとは思いません。ほとんどの人間は、無明の病を自覚できずに臨終に突っ込んでしまいます。
「湯火身を焼けば急に自らはらう 他人推縁のことを待つものなし 貪瞋の火宅は相焼の苦あり 障重く心頑にして未だ痛を覚らず」(般舟讃)
(訳:熱湯や火が身を焼けば、急いで自ら払おうとする。誰かがそれを払ってくれるのを待つ人はいない。この世は三毒の煩悩に次々に焼かれる苦しみがある。障りが重く心は頑なであるので、いまだその痛みの自覚がない)

根本解決に目を向ける

人間の考える苦しみの原因は、すべて浅いものであり、対症療法にすぎません。病気や災害といった、無限に生じる枝葉の苦を対症療法で解決することばかりに意識が向き、わずかな寿命と無常の幸福を手に入れることにだけ躍起になっているのです。
確かに、無常に抵抗し、枝葉の苦を解決するという視点も大切です。たとえば、ピストルの弾丸が飛んでくれば、まずは避けるべきでしょう。対症療法が無駄と言っているわけではありません。
しかし、対症療法ではキリがありません。根本解決の方法がわからないので無理もありませんが、解決法はあり、そして第1巻から説明してきたように今や科学的な根拠もあるのですから、それに目を向けなければなりません。
釈迦は初転法輪で、次の真理を説きました。

苦諦:この世の一切は苦であるという真理
集諦:苦の原因は自分自身にあるという真理
滅諦:苦は完全に滅することができるという真理
道諦:苦を完全に滅する道があるという真理

「諦」とは真理を意味し、4つを合わせて四諦、または四聖諦といいます。
昔、あるゲームで樹をイメージした敵キャラがいました。この敵は、一見すると枝葉が攻撃してくるため、プレイヤーは枝葉を倒そうとします。
しかし、しばらくして、いくら枝葉を倒しても枝葉は無限に再生することに気づきます。実は、この敵は根を倒す必要があったのです。
人生はこれと同じようなことがいえます。
また、無間地獄というやがてくる巨大な苦しみに目を向けず、目先の小さな苦しみにばかり目が向いている状態でもあります。いつかは無限に生じる苦に敗れ、地獄に飲まれてしまいます。
死の解決をしなければ、この世の地獄から死後の地獄への綱渡りとなってしまい、生きるも死ぬも地獄となります。これを従苦入苦といいます。
「悪人行悪 従苦入苦 従冥入冥」(大無量寿経)
(書き下し:悪人は悪を行じて苦より苦に入り冥より冥に入る)
(訳:悪人は悪を造り、この世の苦しい闇の世界から、未来の地獄へと、苦から苦への綱渡りとなり沈んでいく)
あくまで根本解決が目的であり、その目的を達成するための対症療法であることを知るべきです。

破闇満願

闇を破って願いを満たすという意味で、闇とは無明の闇を指します。人間には、「死にたくない」という願いをはじめ無数の願いがありますが、どんな願いであっても死の解決をすることですべて満たすことができます。つまり、破闇満願とは、苦悩の根源である無明の闇を破り、死なない身になりたいという人間最大の願いを満たすということです。
「難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」(教行信証)
(訳:思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は、救われ難い苦悩の海を救う大きな船であり、何ものにも遮られることがない光明は、無明の闇を破る智慧の光である)

「無碍光如来の名号と かの光明智相とは 無明長夜の闇を破し 衆生の志願をみてたまう」(高僧和讃)
(訳:阿弥陀仏の名号と、阿弥陀仏が放つ智慧の光明は、無明長夜の闇を破り、人間最大の願いを満たす)

「無始曠劫よりこのかたの、恐ろしき罪咎の身なれども、弥陀如来の光明の縁にあうによりて、ことごとく無明業障の深き罪咎たちまちに消滅す」(御文)
(訳:始まりがわからないほどの遠い昔から、恐ろしい無明を抱えた身であるが、死の解決をすることで、たちまちにすべて消滅する)

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