人間は必ず無間地獄に堕ちる

無間地獄は、苦しみに間の無い地獄という意味で、阿鼻地獄とも言います。阿鼻とはインドの古い言葉、サンスクリット語「アヴィーチー」の音写(漢字をあてたもの)です。

最悪の地獄

数ある地獄の中でも最悪の地獄が無間地獄です。八大地獄の前7つの地獄が幸せに思えるほどです。

寿命

無間地獄の寿命は八万劫年です。「劫」の説明として次のようなものがあります。

磐石劫:四十里四方の大盤石を、百年に一度、薄い羽衣で払い、その大磐石が摩耗して消えるまでの時間より一劫は長いとされ、このたとえを磐石劫という
芥子劫:四十里四方の城に小さな芥子粒を満たし、百年に一度、一粒ずつ取り出して、すべての芥子粒が無くなるまでの時間より一劫は長いとされ、このたとえを芥子劫という

いずれも気が遠くなるほどの長い時間ですが、これで一劫です。その八万倍が無間地獄の寿命ですから、永遠といっていいほどの長い時間です。人生は苦楽相半ばする世界で、どんなに苦しくても80年程度で終わりますが、無間地獄は苦しみが一瞬も途切れることなく続く世界で、死ぬことができずに永遠に苦しまなければなりません。

苦しみはどのくらいか

釈迦は「言葉では説けない」と説いており、これが一番の説き方となります。しかし弟子は食い下がって「それでは本当にわからないので、何とか、たとえでもって説いて頂けないでしょうか」と懇願しました。
この弟子の切実な要求に釈迦はたとえを用いて、「1日朝昼晩100本ずつ計300本の槍で突かれる苦しみを小豆1粒とするなら、無間地獄の苦しみはヒマラヤ山の如し」(賢愚経)と説いています。苦しみの質からいっても量からいっても、人間界の比ではないのです。

誰が堕ちるのか

「五逆の罪人、阿鼻大地獄の中に堕して、具に一劫の重罪を受く。誹謗正法の人は、阿鼻大地獄の中に堕す」(大品般若経)
(訳:五逆罪を犯した悪人は無間地獄に堕ちて、一劫もの長い間、重い罪の結果を受ける。法謗罪を犯した悪人は無間地獄に堕ちる)

・すべての人間は五逆罪と法謗罪を犯している
五逆罪は、簡単に言うと親殺しの罪ですが、親を殺すとは肉体の死に限りません。
末燈鈔には、「親を謗るものをば、五逆の者と申すなり」とあります。親を謗ることは五逆の大罪なのです。
しかし、誰もが親を謗っています。
遅刻しないよう朝起しに来てくれた親を、「うるさい」と口で謗り、心で殺さなかったでしょうか。親が苦しむのを見て喜んでいなかったでしょうか。実家を出て一人暮らしをすれば、親は心配で仕方ありませんが、便りは出したでしょうか。結婚して自分の家庭のことで忙しくなり、親をないがしろにしなかったでしょうか。親が病気になった時と、子供が病気になった時とでどちらが青ざめるでしょうか。子供が何をしてくれたというのでしょうか。
ある孝行息子が、脳溢血で倒れた母親を看病した時の話です。
最初は、一生懸命看病していましたが、7日、8日と経ち、次第に助かる望みがなくなってくると、「仕事や家族の心配をするようになった」といいます。そして、「もう助からないなら早く死んでくれたらいいのにと思うようになった。心で何度も母を殺していた」と言って泣いたといいます。
医師の矢作直樹(東京大学名誉教授)は、次のように母親が死んだ時、幸福感に満たされたと言っています。
「母の死を受け入れたとき、私は、これでもう心配しなければならない人はいなくなったという思いが湧き上がり、その瞬間言葉では言い表せない大きな安堵感、幸福感のようなものに満たされました」
第1巻から説明してきたように、どんな孝行者でも、いざとなれば親に死んで欲しいと願ってしまうのです。
このように、少し反省しただけでも、人生を通して親を謗り続け、殺し続けていることがわかります。親の恩を感じ、人一倍、親孝行していると自惚れている人もいるでしょうが、誰もが、親殺しの大罪人なのです。

また、法謗罪は、仏法を謗る罪であり、無間地獄に堕ちる恐ろしい罪です。
「念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなく受くとぞ説きたまう」(正像末和讃)
(訳:法謗罪を犯す悪人は、無間地獄に堕ちて、八万劫もの長い間、大苦悩を絶え間なく受け続けると説かれている)
しかし、誰もが仏法を謗っています。
善知識を謗ることはもちろん、おろそかにするだけでも謗法罪です。
たとえば末燈鈔には「善知識をおろかに思ひ、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり」とあります。
「善知識をおろそかにし、謗る者を謗法の者というのである」という意味です。
善知識とは仏教の正しい先生という意味です。
「自分が理解できないのは、お釈迦様が出し惜しみしているからだ」と文句を言う弟子もいました。釈迦が死んだ時、「これでやかましいことを言う人はいなくなった。少しは楽ができるぞ」と言った信者もいたといいます。
しかし、心をたずねれば、誰もが形だけ尊び畏まったフリをして、善知識を謗りっぱなしであることがわかります。たとえば善知識の指示に従わなかったり、聴聞しながら他事を思ったり、善知識を軽んじる行為はすべて謗法罪です。
また、仏法を聞いて「今日の話は良かった」などと誉めることも謗法罪になります。誉めるということは評価しているということです。仏法を評価するということは、釈迦より上の立場になっており、いわゆる「上から目線」であり、釈迦に説法している状態です。素人が玄人を批評し、幼稚園児が大学教授を誉めているようなものです。
そして、善知識に近づかないのも謗法罪です。善知識に近づくのは怖いことですが、怖いと思っているのは、自分が不真面目だからです。真面目な求道者であれば、その厳しさが非常に有難く思えます。
「同行・善知識には、能く能く近づくべし。親近せざるは、雑修の失なり」(御一代記聞書)
(訳:善知識には、十分に近づくべきである。親しみ近づかないのは、雑修の失の1つである)
雑修の十三失といって、死の解決ができずにいる求道者には13個の欠点があると説かれますが、その1つに「人我おのづから覆ひて同行善知識に親近せざるが故に」というのがあります。これは、「自分の小さな考えにとらわれて善知識に親しく近づかないから」という意味です。

・後生の一大事
すべての人間が無間地獄に堕ちる罪を犯しているため、すべての人間が無間地獄へ堕ちるということになります。
「念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなく受くとぞ説きたまう」(正像末和讃)
(訳:法謗罪を犯す悪人は、無間地獄に堕ちて、八万劫もの長い間、大苦悩を絶え間なく受け続けると説かれている)

「人間は五十年百年のうちの楽しみなり、後生こそ一大事なり」(御文)
すべての人間が、例外なく100%堕ちるということです。ですので、「ひょっとしたら無間地獄に堕ちるのではないか」といった疑問は間違いになります。

・因果の法則は狂いがない
因果の法則は自然法則ですので非常に厳しいものです。
人間関係であれば、たとえ悪い事をしても「一生懸命やったのだから許そう」だとか「知らなかったのだから仕方ない」と同情する感情も出ましょう。また、悪事を隠し通すこともできるかもしれません。しかし、自然法則である因果の法則に、そういった容赦は一切ありません。
また、造った罪悪の中で1番重い罪悪だけが優先され、それ以下の罪悪は消えると思っている人もいますが、これももちろん間違いです。
たとえば、八大地獄の中の等活地獄に堕ちる罪悪と焦熱地獄に堕ちる罪悪の両方を造った場合、より重い地獄である焦熱地獄だけに堕ちるのではなく、等活地獄と焦熱地獄を合わせた地獄に堕ちるということです。
「五逆の罪人、阿鼻大地獄の中に堕して、具に一劫の重罪を受く。誹謗正法の人は、阿鼻大地獄の中に堕して、この劫もし尽くれば、また転じて他方の阿鼻大地獄の中に至る。かくの如く展転して、百千の阿鼻大地獄を径」(大品般若経)
(訳:五逆罪を犯した悪人は無間地獄に堕ちて、一劫もの長い間、重い罪の結果を受ける。法謗罪を犯した悪人は無間地獄に堕ちて、ここでの罪の結果が尽きれば、また続いて他の無間地獄に堕ち、他の罪の結果を受ける。このように転々として、無数の無間地獄を巡るのである)

・釈迦が一番伝えたかったこと
「死後が必ず無間地獄」という一大事を抜きに仏教は成り立たず、釈迦を始めすべての善知識が人類に1番伝えたかったことなのです。
ある時、庄松が突然、鐘をやかましく鳴らしながら「火事じゃ、火事じゃ」と叫び出しました。人々が驚いて飛び出てくると、庄松は「後生が火事じゃ」と叫んだといいます。
人間は今日死んでもおかしくありません。つまり、明日の今頃は、地獄にいるかもしれず、人間にとってこれほど深刻なことはありません。だからこそ、すべての善知識方は手に汗握る思いで警鐘乱打して叫び続けているのです。

・自殺は愚か者
ちなみに、死後は無間地獄ですので、どんな理由があろうと自殺は愚か者がすることです。
EDM(Electronic Dance Music)界で最も人気のあるDJといわれていたアヴィーチーは28歳の若さで自殺していますが、彼は自らアヴィーチーに堕ちてしまいました 。

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