「悟り」とは何か?本当に可能なのか?どうしたら開けるのか?どれほど難しいのか?

よく「悟りを開いた」などと言われますが、何を悟るのかというと、人間が幸せになる真理を悟るということです。本当に悟りは実在するのでしょうか。そして人間に可能なのでしょうか。

仏教が説く悟り

まず、仏教では悟りについてどう説いているか簡単に見てみましょう。
・人間だけが悟りを開ける
すべての生物の中で人間だけが悟りを開けると説かれます。

・万人共通の人生の目的
悟りは人間に可能であるだけでなく、人生の目的であると説かれます。
長阿含経には「天上天下唯我独尊」という有名な言葉があります。釈迦は生まれてすぐに東西南北に7歩ずつ歩き、右手で天を指差しこのように言ったと伝えられています。
この話が本当かどうかは別として、本質は次の2点です。
7歩の「7」という数字は「6+1」ということですが、これは六道から1歩出る、つまり六道輪廻からの解脱を表しています。
天上天下唯我独尊とは、世間でよくいわれるような「自分だけが偉いのだ」という意味ではなく、「私しかできないたった1つの尊い使命がある」という意味で、人生には目的があるということを教えている言葉です。
つまり、すべての生物は人間に生まれることを目指し、悟りを開くことを目指して生きているということになります。

・自己を知る道
悟りを開くためには自己を知る必要があると説かれます。
源信は「夜もすがら 仏の道を 求むれば 我が心にぞ たずね入りぬる」と詠み、曹洞宗の開祖・道元は「仏道をならうというは、自己をならうなり」と言いました。

科学が近づく悟り

一見すると「都合良くできた教え」と言われても仕方ないでしょう。
しかし、悟りの研究は結構なされています。
「悟りを開くことが人生の目的である」と主張する科学者は少なくありません。「悟りが実在する境地である」ということだけに限ればかなりいます。
たとえば、欲求段階説で知られる心理学者のアブラハム・マズローは、悟りは自然に発達する生物学的な意識の状態だと主張しています。
世界的ベストセラー「スモール イズ ビューティフル」などの著書があるイギリスの哲学者、E.F.シューマッハーは次のように言っていました。
「人間は植物のような生命力、動物のような意識の力の他に、明らかにそれ以上の何物かを持っている。即ち、神秘的な力を持っている。人間は単に考えることができるだけでなく、彼の考えていることを意識することができるという知力が備わっている。そこには、単に意識を持った存在があるだけでなく、その意識を意識することのできる存在がある。単に考える人ではなく、彼自身の考えることを見つめ、研究することのできる考える人がいるのである。これは意識自身より高いレベルの力である。我々はそれを何と呼ぶべきだろうか。名称を与える必要があるので、私はそれを『自覚』と呼ぶことにしよう。しかし、このような名称は、仏教の言葉を用いれば『月を指さす指』にすぎないことを常に記憶に止めておかねばならない」
このように言い、自然界の存在を次のように分けています。

1.鉱物 物質
2.植物 物質+生命
3.動物 物質+生命+意識
4.人間 物質+生命+意識+自覚

「ヒト、この奇妙な動物」の著者ジャン・フランソワ・ドルティエは、「ヒトの心の進化の鍵となるのが想像力だ」という仮説を立てています。
「想像力、すなわち心的イメージを生み出す能力のおかげで、ヒトは計画を立てることができ、どんなシナリオでも考えつくことができる。さらに言えば、道具を作り、物語を語り、芸術作品を創造し、共通の価値観をもとに結束し、手本となる行為を思い描き、目に見えない存在を信じることができる。この能力こそが『人間固有の特性』ではないだろうか?」
「動物は想像することも、期待をもつことも、思い出をもつことも、内省することも、自覚することも、抽象化することも、言語をもつこともない。観念の力は計り知れない。それは、ヒトが新たな次元に入ることを可能にする」(ドルティエ)

トーマス・ジェファーソン大学医学部教授のアンドリュー・ニューバーグによれば、悟りを体験できる能力は人の意識と神経回路にしっかり組み込まれているといいます。
そして、悟りには大悟(本物の悟り)と小悟があり、小悟は大悟に向けた脳の準備体操のようなものだといいます。
「最も近年の脳のスキャンの研究では、いま悟りに近い体験をしていると人が言う時には、きわめて特殊な神経学的な変化が起きることを発見した。意識的に悟りを求めている人々の脳には長期的な構造上の変化もみられる。こうしたことから、悟りへの道程は単に現実であるだけではなく、人が生物学的に悟りを求めるようにできていることを示す証拠はあるともいえる」
「通常、脳はゆっくり変わると考えられがちだ。脳が新しいスキルを修得し、すべての体験を吸収して意義あるものにするには時間がかかる。しかし、悟りの過程をみると、脳は瞬時に変わることもできるようだ」
「過去20年間の私の研究結果、悟りの探求は人の脳に備わった基盤構造だと確信している」(アンドリュー)
2000人以上の分析から共通のパターンが見え、本物の大きな悟りは次の5つの要素を満たしていると彼は主張しています。

・一体感やつながりの感覚
・信じがたいほど強烈な体験であること
・明瞭な感覚と根本的に新たな認識
・明け渡しの感覚、自発的コントロールの喪失
・自分の信条や人生観、目的意識などが突然、恒久的に変わってしまった感覚

「脳のスキャンの研究によれば、人が突然の洞察(小さな悟りの体験)を得る瞬間には脳のいくつかの重要な領域で神経活動の突然のシフトが起きている。人の論理的な思考は阻害され、自意識は変化し、意識上の認識の仕方が変わる。そうすると人は問題を異なる視点でみて、驚くほど神秘的な方法で直感的に解決策を思いつく。そしてその瞬間にその人の知識と信条は変わる」
「直感的洞察の中には強烈で、きわめて明瞭な体験もあるが、通常は、個人の信条を大きく変えたり、振る舞いや脳の機能を恒久的に変えたりといったような、われわれが考える悟りの神経上の変化は起こらない。しかし、洞察の瞬間の脳のスキャンの研究と激しい精神修行に関するわれわれの研究を合わせれば、悟りの生物学的基盤の謎が解ける」
「最近の脳のスキャンによれば、鳥類や哺乳類は私たちの前頭葉と頭頂葉に似た脳の構造をもち、意識的に自己を認識している。実際、犬の意識も多くの質は人間と同じだ。ということは、一部の動物にも自分の振る舞いを変えるような突然の洞察を得られる可能性があることになる。しかし、人間以外が自分の信条を大幅に恒久的に変えたり、科学者が『マインドの理論』と呼ぶ他者が考えていることを理解する能力をもつという証拠は少ない。また、動物が悟りに関わる脳の構造を意識的に変えられるという証拠もみつかっていない」(アンドリュー)

ジル・ボルト・テイラーという人がいます。
彼女はハーバード医学校で神経解剖学者として活躍する中、37歳で脳卒中に倒れました。
「仕事も私生活も順風満帆でした。ところが、一瞬にして、バラ色の人生と約束された未来は、泡のように消えてしまったのです」(ジル)
それでも科学者らしく、この時の様子を観察し、著書「奇跡の脳」にまとめています。
「4時間という短い間に、自分の心が、感覚を通して入ってくるあらゆる刺激を処理する能力を完全に失ってしまうのを見つめていました。珍しいタイプの出血が、私を完全に無力にし、歩いたり、話したり、読んだり、書いたり、そして、人生のどんな局面をも思い出すことができなくなってしまったのです」(ジル)
そして左脳の働きが弱まり右脳の働きが表面に出てきます。その世界を次のように語っています。
「私の意識は、自分が宇宙と一体だと感じるようになりました。あのとき以来、脳の解剖学の見地から、『神秘的』あるいは『形而上学的』な体験とはどういうことか、理解できるようになったのです」
「(左の方向定位連合野が正常に働かないために)どこで自分が始まって終わっているのか、というからだの境界すらはっきりわからない。なんとも奇妙な感覚。からだが、固体ではなくて流体であるかのような感じ。まわりの空間や空気の流れに溶け込んでしまい、もう、からだと他のものの区別がつかない」
「右脳は左脳の支配から解放されています。解放感と変容する感じに包まれて、仏教徒なら、涅槃の境地に入ったと言うのでしょう」
「肉体の境界がなくなってしまったことで、肉体的な存在として経験できる最高の喜びよりなお快く、素晴らしい至福の時がおとずれました」
「この体験から、深い心の平和というものは、いつでも、誰でもつかむことができるという知恵を私は授かりました。涅槃の体験は右脳の意識の中に存在し、どんな瞬間でも、脳のその部分の回路に『つなぐ』ことができるはずなのです」
「そして8年をかけ、流体のように感じていたからだの感覚が、ようやく固体の感じに戻っていきました。(中略)からだの感覚が固体に戻ったのは嬉しいのですが、流体のように感じることがまったくなくなってしまったのは残念。私たちは宇宙と一つなんだと思い出させてくれる能力を失ってしまったのです」
「現代の神経科学では、左右の脳の構造に含まれる心理学的、人格的な違いについては、ほとんど語られることがありません。よくあるのは、右脳の個性が、話し言葉や順序だった思考をよく理解できない、という理由だけで笑いものにされ、メチャメチャにけなされること」
「(アンドリューなどの研究を引用しながら)こうした最近の研究のおかげで、左の言語中枢が沈黙してしまい、左の方向定位連合野への正常な感覚のインプットを妨げられた時、私に何が起きたのかを、神経学的に説明することができます」
「過去、現在、未来に分かれるはずの時系列の体験は、順序よく並ばずに、全部が孤立してしまっています。(中略)左脳は、右脳によってつくられた内容豊富で複雑な瞬間のそれぞれを取り上げて、時間的に連続したものにつなぎ合わせます。それから左脳は、この瞬間につくられた詳細と、一瞬前につくられた詳細を次々と比較し、きれいな直線上に並び換える作業を行います。こうやって、左脳が『時』の概念を明らかにしてくれ、瞬間は過去、現在、未来に分けられていくのです」(ジル)
倒れてから8年を経て彼女は「復活」、2008年にはタイム誌の「世界で最も影響力のある100人」に選出されています。
「宇宙は人間を生み出すために進化した」という人間原理の考え方も注目です。
「宇宙・地球・生命などの誕生、進化といったことを知れば知るほど、現在、我々がここに存在することが奇跡のように思われてきます。現在の人類につながる糸はどこで切れてもおかしくない綱渡りのようなものでした。それはちょっと考えればすぐわかります」
「この宇宙は我々人間のために用意されていたかのように思われてきて、我々が存在できるように、世界の創造者が予めこまごまと調整し、整えたからではないかとの印象さえ受けます。この宇宙が偶然にしては余りにも精巧に、しかも人間にとって極めて有利なように作られているので、やはり世界は超越的創造者『神』が創ったに違いないと考える人が多いのはうなずけることです。
ロバート・ディッケは、1961年、人間原理という考えを発表しました。これは、宇宙が人間に都合よくできているのは、もしそうでなければ人間が宇宙を観測できるはずがないからという考え方に基づくものですが、人類がここに存在し、宇宙の構造を解き明かすほどに知能を発達させることができたのは、決して偶然ではなく、宇宙が自分の姿を見るための鏡として、知的生命の誕生を必要としたためであるというのです」
「いわば宇宙は人間のような知的生命を生み出すためにあるのだというこの仮説は、何か余りにも人間に都合が良い話に思われますが、その後もっと強力に人類誕生の必然性を主張する議論が数人の学者から発表されました」(櫛田孝司)

「相対性理論は観測者の運動状態によって時間と空間が変化することを明らかにしたし、量子論は観測者の存在が世界の状態を決定づけるのだと明らかにした。つまり、人間という観測者を自然界と独立に考えることはできないのである。観測者である人間が、物理法則の成り立つ理由にもっと積極的に関与している可能性があるのかもしれない。つまり、宇宙の本質は見かけ上の姿とはかけ離れたところにあって、物理法則はその見かけ上の姿を人間が理解しようとする時に現れてくる2次的なものかもしれないということである。
こういうことが正しければ、微調整問題、つまり宇宙のパラメータが人間にとって都合よく選ばれていることも見かけ上の問題になる。さらには、そういうパラメータを含む物理法則そのものが成り立つことも見かけ上の問題になる。微調整問題を不思議に思うのは、見かけ上の世界の裏に隠されている宇宙の本質をまだ人間が見抜けていないだけなのかもしれない」(松原隆彦/高エネルギー加速器研究機構教授/「なぜか宇宙はちょうどいい」より)
科学書の翻訳家で知られる青木薫によれば、人間原理を支持する科学者は急増しているといいます。
「人間原理という言葉は、物理学者にとっては警戒警報が大音量で鳴り響くような、とてつもなく怪しい響きをもっている」と語っていた彼女自身も、人間原理に関する本の翻訳を通して、「人間原理、毛嫌い派」から「人間原理、要検討派」に転向したといいます。

〇望月進化論
特に注目したいのが、城西国際大学教授の望月清文による研究です。
望月は、言葉と五感に関する研究から、人間の心の基盤である共通感覚が誕生するまでの流れや時期を推測しました。
さらに彼は「統合力」という考えを持ち出し、種に固有の閾値を越えると種に固有の統合力は同時に一斉に進化するという仮説を立て、ダーウィンの進化論では説明できない現象(文化的爆発、不稔性etc.)も、この考え方で説明できることを示しました。
また心の進化に目を向け、進化には方向性があり、悟りが統合力の進化であると推測しています。
「修行僧が悟りに到達する瞬間、ほんのちょっとした外からの刺激によって開悟することが伝えられているが、これは、まさに新たな統合力が誕生しかけていたところへ、タイミング良く外からの刺激が与えられたのであり、それは、過氷点になっている水の中に投げられた小石によって、その水が一瞬のうちに凍ってしまう現象にも似ている。釈尊が夜明けの星を見て悟りに達したといわれているが、星の光という外からの刺激が、新たな統合力を誕生させる刺激となって働いたのである。それは、卵の殻の中で、誕生しようとしている雛鳥の声に答えて、外から親鳥が、その殻を割って上げる卒啄同時の営みそのものである。その卒啄同時によって新しい生命は誕生する。そして、ここに、新たな生命の誕生において、環境と内なる世界との切っても切れない関係があることが見えてくる」
「この瞬間(悟り)を手に入れるために、宇宙は様々な形でエネルギーを作用させ、生命を進化させ、人間を誕生させてきた」
「生命は、人間をして、自己を意識化させようと働きかけていて、その働きかけが、人間をして生きる意味を求めさせ、悟りの境地を得ることへの志向性を生み出しているのである」(望月)

進化論は「悟り」へ向かう。ダーウィンから望月進化論へ。

「悟りは大きな体験」と言う人は多いですが、これは抽象的な表現で、「悟りは別の種になるほどの大きな体験」ということも望月研究によって示唆されました。
 「悟り」について説明してきましたが、簡単にまとめると次のようになるのではないでしょうか。
「仏教では、悟りの世界へ行けるのは人間だけであるとして、その特権を人間以外の生物には与えていないのである」
「人間こそが宇宙の最高位の存在であり、これこそが人間原理としての量子論的唯我論の意義である」(岸根)

悟りには52段階ある

一言で「悟り」といってもレベルがあります。瓔珞本業経には、次のように悟りには52段階あると説かれています。

十信:1段目~10段目の悟り
十住:11段目~20段目の悟り
十行:21段目~30段目の悟り
十廻向:31段目~40段目の悟り
十地:41段目~50段目の悟り
等覚:51段目の悟り
妙覚:52段目の悟り

不退転位

悟りの52位中、40位までを退転位といい、少し油断すると崩れてしまう境地です。
41位からが不退転位になります。そのため、41位の初地の悟りを初歓喜地ともいいます。

「不退転」という言葉は元は仏教用語。どんな苦しみがやってきても退転しない境地がある

仏の悟り

悟りの52位中、最高位の52位を「仏の悟り」といい、この悟りを開いた人をといいます。地球上で仏の悟りを開いたのは、後にも先にも釈迦のみです。そのため、「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」といわれます。
悟りを求めることを求道といいますが、すべての求道者が目指すゴールは仏になることです。四弘誓願の1つに「仏道無上誓願成」というのがあり、これは仏の悟りを開くという誓いです。聖道門は「わが心にこそ仏がいる」という教えですが、そうではなく、仏は、わが心の他にあるのです。

悟りを開く2つの道

そして、仏の悟りを開くには、大きく自力仏教と他力仏教の2つの方法があります。
自力仏教は、自力で52段ある悟りを1つ1つ上がって行く方法で、聖道仏教ともいいます。
結論から言うと、この方法は三祇百大劫という途方もない時間がかかり、人間にはできません。
自力仏教では助からないので、もう1つの方法を取る必要があります。それが他力仏教で阿弥陀仏の力で解決する方法です。結論から言えば、この方法しか苦悩の根本解決はできません。

仏教には大きく2種類ある。聖道門と浄土門とは

死の解決

〇正定聚

・迷界もわかる
信前の人間は悟界がわかりませんが、救われた人間は悟界も迷界もわかります。マジックミラーのようなもので、一方からはよくわかるのです。
悟りの1段の違いは、人間と蛆虫ほどの大きな違いがあるといわれています。51段の正定聚と0段の凡夫とでは、天と地ほど境涯に違いがあります。
「糞中の穢虫 居を争って 外の清きを知らず」という言葉通りの姿をしているのですが、人間にはそれがわかりません。

・明らかな体験
死の解決は、明らかな体験です。
人間は0段の凡夫ですが、死の解決をすれば、一足飛びで51段目の正定聚となります。
第1巻でも説明したように、悟り(死の解決)は生物として別の種になる大進化の体験であり、宇宙がひっくりかえるような驚天動地の明らかな体験です。「自分は救われたのだろうか」といったような不安や疑問が残る体験ではありません。露塵の疑いもなく明らかに仏智を信ずる体験であるため、大無量寿経には「明信仏智」と説かれています。
「愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」(教行信証)
(訳:この愚かな親鸞は、建仁元年に死の解決をしたのである)

「この光明の縁に催おされて、宿善の機ありて、他力の信心ということをば今すでに獲たり。これしかしながら弥陀如来の御方より授けましましたる信心とは、やがてあらわに知られたり。かるがゆえに、行者の発すところの信心に非ず。弥陀如来他力の大信心ということは、今こそ明らかに知られたり」(御文)
(訳:阿弥陀仏の光明の働きがあって宿善が積まれ、他力信心を今獲ることができた。この信心はまったく阿弥陀仏が授けてくださった信心であると、すぐに明らかに知られた。このゆえに、人間が起こす信心ではなく、阿弥陀仏から頂いた他力信心であることが、今こそ明らかに知られた)
信前は迷った世界であり迷界といいますが、信後(死の解決をした後)は、悟界といって夢から覚めた世界です。
夢研究の先駆者として世界的に知られるスタンフォード大学の神経生理学者、スティーヴン・ラバージは、「現実世界は夢であり、完全な目覚めと呼べる世界がある」と言いましたが(詳しくは第2巻)、悟りは夢から覚めた世界です。

・変わり果てる
平清盛の孫ともいわれる弁円は、一大勢力を誇る山伏の頭領として、常陸(現在の茨城県)で布教活動をしていました。
しかし、同じ時期に常陸で親鸞が活躍するようになると、弁円の信者が親鸞の元へ流れていくようになりました。それを妬んだ弁円は親鸞を殺害しようと企て、板敷き山で待ち伏せしたりしますが、ことごとく失敗しました。
やがて、親鸞の家に刀を持って乗り込むまでになりますが、次のように、親鸞に対面するやいなや涙を流して懺悔し、親鸞の弟子になったといいます。
「すなわち尊顔にむかいたてまつるに、害心忽に消滅して、剰後悔の涙禁じがたし。ややしばらくありて、有のままに、日来の宿鬱を述すといえども聖人またおどろける色なし。たちどころに弓箭をきり、刀杖をすて、頭巾をとり、柿衣をあらためて、仏教に帰しつつ終に素懐をとげき。不思議なりし事なり」(御伝鈔)
刀を持って殺しに来た相手を前にしても微動だにしない親鸞の境地も注目に値しますが、親鸞を見ただけで弁円の敵意が消滅してしまったのは不思議なことです。
その後、弁円は名を明法房と改め、熾烈な求道をします。
「悪に強ければ善にも強し」といわれますが、弁円はその典型で、すぐに死の解決を果たしました。
ある日、弁円が親鸞と一緒に板敷き山を歩いていた時のことです。弁円は急に涙を流して、その場にうずくまってしまいました。親鸞がどうしたのか尋ねると、弁円は次のような歌を詠みました。
「山も山 道も昔に 変わらねど 変わり果てたる 我が心かな」
板敷き山の道は、今も昔も少しも変わらないが、自分の心は変わり果ててしまったという意味です。師匠である親鸞を殺そうとつけねらっていた当時の自分と、死の解決をした今の自分とでは、あまりに大きな違いであるため、「変わり果てたる」と表現しています。

悟りは人生の目的

まさか人生に万人共通の目的があるとは思わないでしょう。世間の常識から言えば、「人生の目的」「幸せに生きる方法」「正しい生き方」といったものは「人それぞれ」「なくてもいい」などとされているでしょうが、その常識に反する証拠が出ています。人生観や善悪観等々、根本的なレベルで変えることが要求されるでしょう。
念写の発見者である福来友吉は次のように、このような絶対の境地に人間は皆、本心では憧れていると言います。
「それを世人に伝えても、現象世界の人たちは、それを迷信とか、気休めとかいって笑うものである。しかし不思議なことには、そう冷笑しておりながら、世人はやはりその実在を知りたいと思っている。人間はそこへ行きたいのである。現象の世界では甲の人は甲の眼で見るところ、乙の人は乙の眼で見るところ、各々異なっている。人間はかかる相対的なものでは満足できない。われらはこれこそ事物の真相に相違ないというものを求めてやまない」
「この心を満足せしめんとて、数千年前の昔から今日に至るまで、無数の哲人が輩出して、瑜伽三昧(精神を集中させること)に耽ったり、加持祈祷を修したりして、想像も及ばぬほどの精進をしたものである」
そして、この境地に出ることが「人間の本当の仕事」であると言います。

・人間に優劣がある
人生に目的があるということは人生にはゴールに相当するものがあるということです。人生にゴールがあるということは、ゴールから近い人と遠い人がいるということですので、「人間に優劣がある」という言い方もできるでしょう。ちなみに、仏教では優れた僧に対する敬称として「上人(しょうにん)」という言葉が使われます。
また、仏教の善悪の定義がそうであるように、ゴールに近づく行為を善、遠ざかる行為を悪と定義することもできるでしょう。

・求道の数値化
学力など、様々な能力が数値で測れるように、求道も数値で測れるようになるかもしれません。求道者としてどれくらいのレベルにいるのか、ゴールまで何がどれくらい不足しているのか、つまり人間として何点なのか数値でわかるようになるかもしれません。
しかし、学力などもそうであるように、どれほど科学が進んで効率的な方法論が開発されても本人の努力は必要不可欠でしょう。

・ゴールすれば学校はいらない
もし、すべての人がゴールである悟りを開いたら科学も宗教も不要になるということはいえるでしょう。
「『宇宙の真理』を解き明かすだけでなく、人類全体が『悟り』に到達するための、合理的で効果的な手法を開発すべきでしょう」
「釈迦の時代よりも容易に、短時間で『悟り』に達する方法論の開発も、夢ではないと思われます」
「すべての人が宇宙の根本的な原理を理解しているので、もはや科学は無用の長物になってしまいます。宗教の目的は、人々の魂を進化させて『悟り』の状態に導くことでしょうから、それが達成されれば、もはや宗教も不要になります」(天外伺朗/元ソニー上席常務/ペットロボットAIBO開発責任者)
ただ、現実的にはすべての人が悟りを開くことは不可能なので、悟ってない人のために必要になるでしょう。

悟りは絶対に開かなければならない

悟りは「開いたほうがいい」とか「できたらいいな」という弱い表現ではなく、絶対にしなければならないものです。
なぜなら悟りを開かなければ死後は必ず地獄だからです。

地獄は本当にあるのか?苦しみはどれくらいか?誰が堕ちるのか?

人生は、悟りを開いて極楽へ行く100点の人生か、悟りを開かず地獄に堕ちる0点の人生かの2択といえます。
・急いでしなければならない
人間は死と隣り合わせであり、今日死んでもおかしくありません。今日死ねば、今日から地獄が始まるのです。
ですので、一刻も早く悟りを開く必要があります。
「ああ、夢幻にして真にあらず、寿夭保ちがたし、呼吸のあひだ、すなわちこれ来生なり。一たび人身を失ひぬれば、万劫にも復せず。この時悟らざれば、仏、衆生をいかがしたまはん。願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔を貽すことなかれ」(教行信証)
(訳:ああ、この世は夢、幻であって真実ではない。命は保ち難く、吐いた息が吸えなければ死んでしまう。一度死んでしまえば、地獄に堕ち、永遠に抜け出すことはできない。生きているうちに死の解決をしなければ、仏でもどうしようもできない。どうか深く無常を問い詰めて、いたずらに後悔しないでほしい)

求道の難しさ

ゴールするには、大きく次の3つの難を突破する必要があります。

1.人間に生まれる難
2.善知識に遇う難
3.他力信心を獲る難

善知識に遇ったということは、あとは最後の「他力信心を獲る難」を突破するのみであり、ゴールまであと少しです。
「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん」(三帰依文)
(訳:人間には生まれ難いが、今すでに生まれている。真実の仏教には遇い難いが、今すでに聞いている。今生において死の解決ができなければ、いづれの生でできるというのだろうか)
過去の自分の努力や善行を誇りに思い、今生で求め切るべきです。

・求道は最初から最後まで難しい
スタートからゴールまで、求道はとにかく難しいことだらけです。
「善知識に遇うことも 教うることもまた難し よく聞くことも難ければ 信ずることもなお難し」(浄土和讃)
(訳:善知識に遇うことも、善知識から教えを受けることも難しい。教えをよく聞くことも難しければ、信じることもなお難しい)
昔から、死の解決まで求め切る人の確率は、「国に1人、郡に1人」といわれます。国と郡は昔の単位ですので、今では都道府県や市区町村にあたります。この人数しか求道のゴールまで行けないということではなく、それぐらい難しいということです。
単細胞生物から大進化を繰り返し、人間になるまで約38億年かかっています。死の解決をするということは51段目の悟りまで大進化するということです。それを人間の短い一生で達成するのですから、どれほど難しいことなのか頭だけでもわかるでしょう。

悟りを開くためにはどれほど努力すればいいか

釈迦のような宿善がある天才でも血のにじむ努力をしました。まして、われわれ凡人は努力するしかありません。

悟りを開くためにはどれほど努力すればいいか

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