悟りを開くためにはどれほど努力すればいいか

釈迦のような宿善がある天才でも血のにじむ努力をしました。まして、われわれ凡人は努力するしかありません。

他力仏教でも努力は必要

浄土門他力の道であっても、自分の力で求めようと努力する、自力の心がけが必要です。
・自己に勝つのは難しい
求道は自己を知る道です。

「自分」とは何か?人生は自分を知るためにある。自分を客観視する方法とは?本当のマインドフルネスとは?

自己を知るには、自己に勝つ必要がありますが、それは非常に難しいことです。見えないのでわかりづらいですが、自己との闘いは激しい闘争です。
「山中の賊を破るのは易く、心中の賊を破るのは難し」(与楊仕徳薛尚誠書)

「自らに勝つことこそ、最も難しい勝利」(アリストテレス/哲学者)

「自己に打ち勝つことは勝利のうちで最大のものである」(プラトン/哲学者)

「運動のほうがなじみ深いし、男らしい。何かをしているという実感がある。ところが、静かに瞑想するのには、ある人の言葉によれば『女々しい感じ』がある。瞑想は、外からは何もしていないように見える。しかし、本当は瞑想とは力強い行動的なプロセスなのである」(ディーン・オーニッシュ/カリフォルニア大学サンフランシスコ校医学部教授)

「『気づき』を促すためであれば、時に大きく感情を揺るがすような攻撃的言動も辞さないほどの姿勢が取られ、まさしく壮絶な苦闘が繰り広げられることもしばしば見られる。『気づき』という契機は、それほどの努力をもってして、ようやく得られる困難な過程であり、またそれほどの努力をしてでも手にするべき、重大なものであるともいえるだろう」(安藤治/精神科医/花園大学教授)

求道は自己との戦いの連続です。内側からは煩悩が逆巻き、外側からは迷った大衆が圧力をかけてきますが、それらに勝ち続ける必要があります。二河白道の通りです。最終的には、死や地獄に飛び込む覚悟が要求されますが、こんなに恐ろしく勇気がいることはありません。

地獄は本当にあるのか?苦しみはどれくらいか?誰が堕ちるのか?

・煩悩は闘うもの
「理性は羅針であり、欲望は嵐である」(ポープ/詩人)
「欲望は理性に支配されるべきである」(キケロ/哲学者)

煩悩は付き合うものではなく闘うものです。死の解決をした後は煩悩が邪魔になりませんが、信前は煩悩が邪魔になるため闘う必要があります。闘っても消すことはできませんが、信前でも多少はコントロールできるようになり、惑わされにくくなります。四弘誓願には「煩悩無数誓願断」とあり、これは簡単に言えば、「規則正しい生活をする」という誓いです。

・努力しないのは無力
「他力なのだから何もしなくてもいい」と誤解する人がいますが、これは無力の状態であり、これでは他力が働きません。他力が働くには、一生懸命自力で求める必要があります。一生懸命自力で求め、自力無効と知らされた時に他力が働きます。どんなに優れた薬があっても、本人が飲もうと努力しなければ意味がないのです。
「自力にて往生せんと思うは、闇夜に、わが眼の力にて、物を見んと思わんがごとし。更に叶うべからず。日輪の光を我が眼に受け取りて所縁の境を照らしみる、これ、しかしながら日輪の力なり。ただし、日の照らす因ありとも、生盲の者は見るべからず、また、眼開きたる縁ありとも、闇夜には見るべからず。日と眼と、因縁和合して物を見るがごとし」(安心決定鈔)
(訳:自力で往生しようと思うのは、闇夜に自分の目で物を見ようと思うようなものであって、それは不可能である。日の光を自分の目に受け取って物を見ることができるのであるが、これは光の力である。しかし、光が照らすという因があっても、盲目の人は見ることができない。また、目が見えるという縁があっても闇夜には見ることができない。日の光と目、因と縁が結びついて初めて物が見えるのである)

「こうした研究結果から明らかになったのは、あなたが悟りを求めているなら、自分の通常のものの考え方や現実の体験の仕方を積極的に阻害することで、自ら意図的に悟りを求めていかなければならないということだ」(アンドリュー・ニューバーグ/神経科学者/トーマス・ジェファーソン大学医学部教授)

自己を知るというのはこれほど難しいことですが、現代の仏教は「簡単に悟りを開ける」という主張で溢れてしまっています。
「大乗経典とそれを奉じる大乗仏教徒は、悟りを上手に売り込んだように見えます。『お釈迦さまの教えでは悟りはなかなか難しい。さてどうしようか』と悩んでいるところに、『こっちのお経なら簡単に悟れますよ』と呼び込むのです。しかし、そう簡単に悟れるものでしょうか」(藤本晃/広島大学大学院文学研究科客員教授)

トイレも自分の代わりはいません。自分の後生は自分で面倒を見るしかないのです。

・正しい目的あっての努力
もちろん、第1巻から何度も説明してきたように、正しい目的と正しい解決法を知っていることが大前提で、その上での努力です。
世間の人間にしても聖道門の仏教者にしても、正しい目的を知らず、知恵の裏づけのない盲目の努力をしています。どんなに優れた薬があっても、その薬の存在を知らなければ意味がないのです。また、肛門に目薬をしても意味がないように、薬の飲み方を知らなければ意味がないのです。そして、意味がないというだけでは済まない地獄行きの恐ろしい行為です。

・自己を知るための努力
念のため言いますと、苦に立ち向かう目的は、あくまで自己を知るためです。苦に立ちむかう幸せも、無常の幸福の1つにすぎません。
「人生は生涯求道」とか「死ぬまで勉強」と言う人もいます。一見すると格好いい言葉ですが、これは一生涯ずっと苦しまなければならないということです。精神を鍛練するために仏教があるのではありません。ゴールに相当するものがなければ、最後は地獄に堕ちるマラソンをしているような悲惨な人生になってしまいます。求道人生、勉強人生で終わってはならないのです。

継続は力なり

「脳は変えることができる。だが、脳の回路を変更するには、明確な意志をもった継続的な努力が欠かせないのである」(生田哲/イリノイ工科大学助教授)

一時的に一生懸命になっても、継続しなければ求道はまずゴールできません。趣味でさえ続けて通います。続けないとものにならないからです。世間の仕事も続けないと成功しません。
「何よりも大切なのが、強烈な意志です。体を張って、命を捨ててかかるくらいの気構えがなければ、決して人を動かせるはずもなく、改革らしい改革などできるわけがありません」(稲盛和夫)
「鉄の神様」と評される物理学者の本多光太郎は、雨の日には「雨だから実験しよう」と言い、晴れの日には「晴れだから実験しよう」と言い、休みの日には「休みだから実験しよう」と言って休むことなく研究していたといいます。
スポーツ選手はオリンピックでメダルを取るために、毎日毎日寝る間を惜しんで練習します。
金メダル23個を含むオリンピック最多の28個のメダルを獲得した「水の怪物」、マイケル・フェルプス。彼は、「王者になるには何が必要か」という質問に対してためらいなく、「それなら簡単。努力すること、打ち込むこと、あきらめないことだ」と答えています。
アンダース・エリクソン(フロリダ州立大学心理学部教授)の有名な研究によれば、ベルリン音楽学校で学ぶバイオリニストのレベルは練習時間と比例したといいます。他にも彼は、30年以上にわたって様々な分野のトッププレイヤーについて研究していますが、その結論を次のように語っています。
「長期間にわたる厳しい練習をせずに並外れた能力を獲得したと断言できるケースには、これまで一度もお目にかかったことがないと断言する」
「科学、芸術、音楽、スポーツなど様々な分野の独創的天才がどのようにイノベーションを生み出したかを調べた研究者は、それが例外なく長い時間のかかる、同じ作業の繰り返しのような営みの産物であることを明らかにしている。(中略)大きな飛躍などない。門外漢には小さな一歩の積み重ねであることがわからず、大きな飛躍に見えるだけだ。ひらめきの瞬間は、膨大な努力によって大伽藍をあと一歩で完成というところまで築き上げた結果として訪れるものだ。しかも科学をはじめ、様々な分野で他を圧倒するような独創的成功を収めた人々の研究では、クリエイティビティは長期間にわたって努力と集中力を維持する能力と切り離せない関係にあることが明らかになっている」
このように、死んでく時に何の役にも立たない無常の幸福でさえ、多大な労力をかけないと手に入りません。
まして、未来永劫救われる死の解決です。これほどの大きな結果を得るには、それだけの大きな種をまかなければなりません。
「水滴石を穿つ」という言葉があります。何度も何度もぶつかれば水滴でも石に穴をあけることができるように、真剣な聴聞を繰り返せば、軟弱な心でも無明を破ることができます。
「至りて堅きは石なり。至りて軟らかなるは水なり。水よく石を穿つ。『心源、もし徹しなば、菩提の覚道、何事か成ぜざらん』といえる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候う間、信を獲べきなり。ただ、仏法は、聴聞に極まることなり」(御一代記聞書)
「天王寺の釣鐘も指一本で動かせる」という話しがあります。
天王寺の釣鐘は巨大な釣鐘なので、いくら強く押してもビクともしませんが、何度も何度も押し続けることで、たった指一本でも動かすことができます。同じように、千回万回の聴聞・開顕・勤行・教学を真剣に繰り返せば、やがて宿善が開発し、グラッと動く瞬間があるのです。

・徹底しないとわからない
ただ漫然と続けるのではなく、徹底しなければなりません。世間的な幸福を手に入れる場合は、人によっては全力を出さなくても手に入るかもしれませんが、自己を知るには全力を出さないとわからないようになっています。無常観にしても、罪悪観にしても、仏教で説かれる一切は究極の結論ですが、全力で極めようとしなければ理解できない世界です。
たとえば何十年と真実の仏教を聞いていながら、死の解決ができない人はゴマンといます。それは、中途半端にただ漫然と続けているからであり、徹底して極めようと真剣になれていないからです。
「徹底する」というと難しく思うかもしれませんが、当たり前のことを当たり前にするということです。仏教で説く一切は当たり前のことなのですが、これまで説明してきたように、人間は当たり前のことを当たり前にできないように力が働いています。これは何も仏教に限ったことではありません。
「学校を出たばかりの若い人は、会社に入って地味な仕事ばかり続くと、『こんなことばかりしていていいのだろうか』と不安に思い、『他の仕事をやらせてほしい』と言い出します。しかし、それは違うのです。広く浅く知ることは、何も知らないことと同じなのです。深くひとつのことを探求することによって、すべてのことに通じていくのです。それは、すべてのものの奥深くに、それらを共通に律している真理があるからだと私は思います。ひとつのことを究めることは、すべてを知ることになるということを忘れてはなりません」(稲盛和夫)

・特殊能力のようなもの
毎日毎日やっていると、ある種の特殊能力のようなものが身につきます。
「一つのことを継続することで愚鈍な人が非凡になる。一歩一歩の積み重ねが、実は魔法のような相乗効果を生んでいくのです」
「日々の地道な努力が生む小さな成果こそが、さらなる努力と成果を呼びよせ、いつの間にか、あなたを信じられないような高みにまで運んでくれるのです。これが、学習やスポーツ、また仕事においても、夢を実現させるただ一つの方法論なのです」(稲盛和夫)
野球選手のイチローは、「小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行くただひとつの道だと思う」と語っています。
サッカー選手の中村憲剛は、ゴール前20m強からフリーキックを決めた瞬間を振り返り、「すべてのフィーリングがぴったりと合った。置いた瞬間、『自分がしっかり蹴ったら入るな』という確信があった。積み重ね、蓄積です」と語っています。

・無理じゃないとわかる
未来というのは現在の延長ですので、現在がよくわかれば自ずと未来もわかるようになります。どんなことにもいえますが、目的に向かって目の前のことをコツコツと一生懸命やっていけば、成功することは無理ではないということが体験的にわかってきます。
「何でもない現象の中に、素晴らしいチャンスが潜んでいます。しかし、それは、強烈な目的意識を持った人の目にしか映らないものなのです」
「将来を見通すということは、今日を生きることの延長線上にしかないのです」
「私は、長期の経営計画を立てたことはありません。今日のことさえうまくいかず、明日もわからないのに、十年先が見えるわけがないと思っていたからです。
そのため私は、今日一日を一生懸命に過ごそう、そして今日一日一生懸命に仕事をし、さらに工夫を重ねれば、明日が見えてくるだろうと考えてきました。そして、その一日の連続が、五年たち、十年たつと、大きな成果になっているだろうというように考えたのです。どうなるかわからない先のことを言うよりは、今日一日をパーフェクトに生きることのほうが大事だという考えで、私は今まで研究をし、経営を行ってきました。
その結果、私は『今日を完全に生きれば、明日は見える』ということを断言することができます。逆説的ですが、この生き方を三十年も続けてきますと、先の変化が見えてきたのです」(稲盛和夫)
妙好人のおかるは、「聞いてみなんせ まことの道を 無理な教えじゃ ないわいな」という言葉を残していますが、一生懸命求めていけば、必ず道が開けるのです。一生懸命目的に向かって努力しないと、そういったことはわかりません。

・極道
このように、求道は極める道なので極道ともいいます。現代でも使われますが、本来は仏教用語で、道を極める、つまりゴールである死の解決まで求め切るという意味です。哲学には「中間は呪い」という言葉がありますが、中途半端では救われません。

・コツコツとやる
大きな目標を達成しようとする時、途方もない道のりに気が遠くなってしまうかもしれませんが、小さな目標を積み重ねるという視点が大切です。派手なことをしようとせず、目の前の小さな行動をコツコツと1つ1つ完璧にこなし、それを繰り返すということです。
江戸時代、人より早く届ける飛脚がいました。
なぜそんなに早く届けることができるのか、その秘訣を聞いたところ、「赤い石を踏まぬように注意しながら走っているからだ」と答えたといいます。
コツコツと積み重ねる「行い」が本質で、成果は「オマケ」であり「カス」と受け止めるべきです。
「人生を振り返って、最も大事だと思えるのは、いつも明確な目標を持ち、それに向かって、地味な努力を重ねていくということ」(稲盛和夫)

・完璧にやる
「一事が万事」という諺もありますが、1ついい加減なことをすれば、それは他のすべてに通じてきます。また、1ついい加減なことをしたということは、すでにいい加減なことを他にもしている可能性が高いです。完全を目指しても失敗します。まして完全を目指さないと何回も失敗します。

・若い時に努力する
年を取ってから苦労するというのは、若い時に苦労するよりもずっと大変なことです。20代、30代で努力してこなかった人が、いきなり40代で努力できるようになるのは難しいという具合に、年を取っても努力できる人というのは、若い時からコツコツと努力してきた人なのです。

・業を活かす
開顕の業が深く、開顕を徹底する人もいれば、教学の業が深く、教学を徹底する人もいます。仕事を徹底する人もいれば、恋愛を徹底する人もいます。自分の得意分野を活かすという視点も大切です。

・スピードも大事
トルストイの小説に「光あるうち光の中を歩め」というのがありますが、歩いていたのでは遅く、突っ走るべきです。
ご存じ「うさぎと亀」の童話では、亀のようにコツコツと努力する大切さを教えています。これは一面の真理ではありますが、あっという間に過ぎ去る人生においてはやはり、うさぎのようなスピードも重要です。亀のように確実に、うさぎのように速く努力する必要があります。

・このままのペースで終わる
地獄の絵の前に、がやがやと人だかりができていました。
「こんな恐ろしいところに堕ちていくんだかー」
その様子を見た庄松は、「極楽の絵をみとけ!地獄はやがて見えるぞ!」と言ったといいます。
「このままいけば何とかなる」と思っているでしょう。まさか自分が地獄に堕ちるとは夢にも思っていないはずです。もしくは、「地獄に堕ちても、その時はその時で何とかなる」と思っているはずです。後生が苦になって1晩でも寝られなかったことがあるでしょうか。結局は睡眠欲のほうが勝り寝てしまっているはずです。
しかし、歴史を見ても明らかなように、ほとんどの人は何とかなりませんでした。つまり、今のままでは死の解決ができず、地獄に堕ちる可能性が非常に高いため、何かやり方を大きく変える必要があります。
「早速に真実信心を獲得なくは、年々を経といふとも同篇たるべきやうにみえたり」(御文)
(訳:速やかに死の解決をしなければ、何年経っても同じように過ぎる)
このまま毎日毎日、同じようなことを繰り返すうちに死んでいくことに危機感を感じなければなりません。やがて、努力したくてもできなくなる時、努力ではどうにもできなくなる時がやってきます。努力すれば解決できるうちに努力すべきです。

・利他にもなる
ちなみに、一生懸命に求道する姿は、それだけで周りに良い影響を与えます。努力することで周りに良い影響が波及することを確かめた研究も少なくありません。
弓術の達人、平田可竹に次のようなエピソードがあります。
可竹は、どんな日も休むことなく稽古していましたが、その姿を与平という油売りが見ていました。
与平は可竹を見習い、雨の日も風の日も怠らず仕事に励みました。その結果、与平は屈指の財産家となりました。
ある日、与平が平田を尋ね、「拙者の富はあなたのおかげだ」と御礼を言いました。すると、平田も与平の勤勉さに励まされていたと感謝したといいます。

・火をかき分ける
最終的には、火の中をかき分ける真剣さが要求されます。
「設ひ世界に満てらん火をも、必ず過ぎて要(もと)めて法を聞かば、かならずまさに仏道を成じ、広く生死の流れを度すべし」(大無量寿経)
(訳:たとえ世界中が火で満たされても、命がけで求め続ければ、必ず仏の悟りを開き、すべての生物を救うだろう)

「たとい大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなうなり」(浄土和讃)
(訳:たとえ大宇宙が火で満たされても、命がけで求める人は、必ず死の解決をして正定聚不退転の位となる)

「火の中を 分けても法は聞くべきに 雨風雪は もののかずかは」という古歌もあります。
自分が猛火に囲まれたら、火をかき分けてでも助かろうとするでしょう。自分の子供が火の中に取り残されていたら、火をかき分けてでも助けようとするでしょう。助かる見込みがなくても、そうするしかなくなります。
これぐらい真剣な聴聞ができるようになるには、何度も何度も聴聞を繰り返す必要があります。

真剣に聞くというのは難しいことです。そのため、針を刺して聞いたり、昔から求道者は真剣になるために血のにじむ努力をしていたのです。

人間はどういう時に集中しているか。集中力はどうしたら上がるか。どこまで上げられるか。仏教徒の驚異の集中力

稲盛和夫は、「絶え間ない創意工夫が、すばらしい成果を生む」と言っていますが、何をしたら真剣になれるのか、常に考えるべきです。

・聖道門や世間に学ぶ
聖道自力の修行をしている人たちにも学ぶべきものがあります。達磨でさえ真実の仏教には遇えませんでした。
願えば出遇えるというものではありません。慧可、明恵、苅萱、白隠にしても同じです。彼らは命を縮めて修行しましたが、それでも死の解決には程遠いのです。
真実の仏教は聞くだけで救われる教えです。これ以上の教えはなく、真実の仏教に出遇った人は彼らの努力を見習うべきです。たとえば、正座が痛くて耐えられないなどと言う人は多いですが、聖道門では正座は修行のうちに入りません。浄土門の人間で、彼らほど努力している人は現代にはまずいません。
彼らが真実の仏教に出遇ったら、つまり正しい向きに努力するようになれば、すぐに死の解決をするでしょう。だらだらと求道していれば、そのうち彼らに抜かれてしまいます。

仏教の歴史上には、人間ができる限界まで努力したような人たちがいますので、参考までに紹介します。

【熾烈な修行をした仏教徒に学ぶ】釈迦・求法太子・雪山童子・達磨と慧可・明恵・親鸞・慧春・苅萱道心・山本良助・白隠

求道の道程をたとえた二河白道の譬喩というのもあります。

二河白道の譬喩

求道の楽しみと苦しみ

求道は苦しみの連続ですが、給料が出るわけでも誉められるわけでもありません。むしろ人のために金も時間も労力も使います。世間の価値観からすれば、「そんなことをして何が楽しいのか」と思うかもしれませんが、これまで説明してきたように、一時的な楽しみを求めているわけではありません。
また、求道中は楽しみがまったくないわけでもありません。
・五楽
たとえば、次のように五楽といって、求道する楽が説かれています。

出家楽:世俗を離れる楽
遠離楽:欲を離れる楽
寂静楽:心が澄む楽
菩提楽:求道が進む楽
涅槃楽:死の解決をする楽

マインドフルネス(mindfulness)というのが流行っていますが、元は仏教用語で、日本語では「気づき」という意味です。マインドフルネスや瞑想は、心身に良い影響を与えることがわかっています。求道は心身に良い影響を与えるのです。

・真実は本当の癒し
釈迦は「真実こそが最上の味」と言い、法句経には「真理を正しく観るならば、真の楽しみ得るだろう」と説かれています。無常を観じることは苦しいことですが、その中には楽もあり、苦と楽が一体になっているのです。

・浄土が見える
死の解決をしなくとも、一生懸命求道していると体験的に浄土(清らかな世界)があるということがわかってきます。こういった体験が求道を加速してくれます。逆に、こういった体験がないということは、一生懸命求道していないということです。

・苦しみしかない
しかし、求道が楽しいと思っている段階は、まだ初心者です。無常が深まり、求道が進めば死や地獄が眼前に迫ってくるわけですから、苦しみでしかありません。

どれほど苦しくても求める価値がある

出産の苦しみは赤ん坊が産まれた瞬間に消え、また、片思いの苦しみは恋愛が成就した瞬間に消えます。無常の幸福でさえ手に入れれば、それまでの苦しみが吹き飛び、「生きてて良かった」と思い、生まれ変わったかのように感じることがあります。まして、死の解決です。求道の苦しみも雲散霧消してしまいます。
おかるは信前、次のように苦しみを語っていました。
「こうも聞こえにゃ聞かぬがましよ 聞かにゃ苦労はすまいもの 聞かにゃおちるし聞きゃ苦労 今の苦労が先での楽と 気休め言えど気は済まぬ 済まぬ心をすましにかかりゃ 雑修自力とすてられる どこに御慈悲があるのやら どうで他力になれぬ身は まこと聞くのが お前はいやか 何が望みで あるぞいな」
「ないないないで何にもない ない中あるのが地獄だね ないないぞろえで申します 真の行者もないものよ 真の知識もないものよ 後生大事の人もない それで地獄へゆく気もない 驚く心もちょっともない 聞いても聞いてもわからない いやな心がなおらない これが凡夫と知られない そのまま来いよが聞こえない 称うる心の苦が抜けない 楽な念仏申されない 真暗がりのようでもない そうだがお慈悲が喜べない なりたい心が捨たらない 疑い晴れねば是非もない 晴らそうにかかって晴れられない 晴らしてやるがもらえない 夜明けに向うたようでもない 聞かずにいては気が済まない 聞いてもさっぱり聞こえない わかったようでわからない 困ったようで困らない まんざら捨ててもおかれない 落とさぬお慈悲を受けつけない 無理に心もおちつかない 泣くほど困ったようでもない それゆえ御座へも出る気がない 親に孝行する気がない 子供を憐れむ心もない 祖師の掟も守れない 目上の人には聞かれない 目下の者には聞く気がない なんともかんとも仕方がない」
それが信後には次のように一変しています。
「自力さらばとひまやり わたしが胸とは 手たたきで たった一声聞いて見りゃ この一声が千人力 四の五の言うたは昔のことよ 何にも言わぬがこっちの儲け そのまま来いよの お勅命 いかなるおかるも頭が下がる」
「何事も 昔になりて 今ははや 南無阿弥陀仏を となうばかりに」とも詠んでいます。
死の解決は、どれだけ苦しい思いをしてでも求めるだけの価値があるのです。

求道を諦める人へ

「求道は自分には厳しくて難しい」と諦める人は多いですが、大変な間違いを犯しています。
・厳しいのは人生
厳しいのは仏教ではなく人生です。仏教は、ただ人生の実相を説いているだけです。さらに言えば、そういった厳しい人生を生み出したのは、他でもない自身の過去の種まきです。

・仏教はこの上なく優しい
また、第3章でも説明しましたが、仏教はこの上なく優しい教えであり、厳しくするのが目的ではなく、救うために結果として厳しくなるのです。

・死が迫れば必死になる
そして、求道者は強くてたくましいから必死になって修行しているのではなく、死や地獄が眼前に迫っているから必死になっているのです。
誰でも命の危険が迫れば必死で何とかしようとします。自分の子供が死にそうになれば、親は鬼のような形相をして必死になって助けようとします。まず1番最初に「助かりたい」「助けてほしい」という願いがきます。どれほど助かる確率が低くとも、必死でやるしかなくなります。「難しいからできなくても仕方ない」などといったことはありません。
同じように、死といった絶望的な問題がわかれば、どんなに難しくても必死で解決しようとし、ちょっとやそっとの苦痛は問題になりません。
「死ぬかもしれないという恐怖心があれば、厳格な食事制限を実行するのはある意味で容易である。死から逃れるためなら、困難なことにも打ち込めるからだ。この場合、困難なことを実行しているからといって、それが、意志が強いというわけではない。ただ死にたくないから、何かをしているにすぎないのである」(星野仁彦/心療内科医/福島学院大学教授)

・何も変わらない
猟銃で自殺した小説家のヘミングウェイは、「あちこち旅をしてまわっても、自分自身から逃れられるものではない」と言いましたが、求道を諦めたからといって、死ななくなったわけでも罪悪が消えたわけでも地獄を回避できたわけでもありません。現実逃避しているだけで、何も状況は変わらないのです。

・諦めきれんと諦める
宿善が厚い人は、こういったことが言われなくともよくわかります。
宿善が厚い人でも求道を諦めたくなる心が出てくることがあります。この心が自由意志ですが、宿善が厚い人は自由意志が負けて諦めようと思っても諦めきれません。
結局、諦めきれんと諦めるようになるのです。
一方、宿善が薄い人はこの力が働かず負けてしまいます。
「まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし(御文)」です。

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