仏教には大きく2種類ある。聖道門と浄土門とは

仏教は悟りを求める道ですが、その方法に聖道門と浄土門の大きく2つあります。

聖道門

52段ある悟りを1つ1つ自力で上がって行く方法です。
・誰もできない道
結論から言うと、この方法は三祇百大劫という途方もない時間がかかり、人間にはできません。
大集経には次のように、釈迦入滅後に仏教が衰退するさまが予言されています。

正法(釈迦死後500年間)教・行・証
像法(正法が終わって1000年間)教・行
末法(像法が終わって1万年間)教
法滅(末法以降無窮)

教は聖道門の教えのこと。
行は聖道門の教えに従って修行すること。
証は修行の結果得られるさとりのこと。

正法・像法・末法の三時代を三時ともいいます。
現代は、1500年以上経過しているので末法です。末法の時代は、聖道門の教えはあっても、修行ができる人はいません。もちろん悟りを得る人もいません。
「我が末法の時の中に億億の衆生、行を起こし道を修せんに、未だ一人も得る者あらず」(大集経)
(訳:末法の時代は、聖道門の修行をしても、一人も悟りを得る者はいない)

「釈迦の教法ましませど 修すべき有情のなきゆえに さとりうるもの末法に 一人もあらじとときたまう」(正像末和讃)
(訳:釈迦の教えはあるが、教えの通り自力で修行できる人はいないので、悟りを得る者は末法には一人もいないと説いている)
「世も末」という言葉もあるように、末法は救い難い世です。末法の世のことを五濁悪世ともいい、次の五つの濁りがある悪い世であると説かれます。

劫濁:戦争や疫病、飢饉が多くなる
見濁:思想の乱れ
煩悩濁:愛憎の乱れ
衆生濁:衆生の質が低下し、十悪をほしいままにする
命濁:短命になる

龍樹でさえ41段目の悟りまでしか開けなかったといいます。人類の歴史上、自力で41段より上の悟りを開いた人はおらず、41段まで開いたのは龍樹と無着の2人だけとされています。

浄土門

聖道門では助からないので、もう1つの方法を取る必要があります。それが浄土門で阿弥陀仏の力で解決する方法です。結論から言えば、この方法しか苦悩の根本解決はできません。
「当今は末法にして、現に是五濁悪世なり。ただ浄土の一門ありて通入すべき路なり」(大集経)
(訳:現代は、末法の時代であり、実際に五濁悪世である。ただ浄土門のみが救われる道である)

「仏法に無量の門有り、世間の道に難有り易有り、陸道の歩行は則ち苦しく、水道の乗船は則ち楽しきが如し。菩薩の道も亦是くの如し。あるいは勤行精進のもの有り、あるいは信方便易行を以て疾く阿惟越致に至る者有り」(十住毘婆娑論)
(訳:仏法には無量の教えがある。目的地まで陸路を徒歩で行くのは苦しく、水路を船で行くのは楽であるように、世の中には、行き難い道と行き易い道がある。求道も同じで、死の解決をするために、非常に難しく時間がかかる道と、速く辿り着ける道がある)

「仏号はなはだ持ち易し、浄土はなはだ往き易し。八万四千の法門、この捷径にしくなし」(教行信証)
(訳:仏の名号は甚だ持ち易く、浄土は甚だ往き易い。釈迦が説いた無数の教えの中で、これ以上の近道はない)

電気など、自然界にある力を利用して人間は便利な生活を手に入れてきましたが、阿弥陀仏の力で人間は死の解決をすることができます。聖道門と浄土門は、それぞれ次のようにもいいます。

聖道門・自力仏教・難行道・自利仏教・釈迦仏教・堅超
浄土門・他力仏教・易行道・利他仏教・弥陀仏教・横超

・聖道門は方便
聖道門は方便の道です。つまり、聖道門は、「自分の力だけで助かってみせる」と自惚れている人に対して、「できるものならやってみなさい」と、浄土門へ目を向けさせるために釈迦が説いたのです。

・聖道門に迷っている
しかし、聖道門に迷う人は後を絶ちません。
「末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈んで浄土の真証を貶し、定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し」(教行信証)
(訳:末法の世の出家者や在家者、並びにこの頃の各宗の指導者は、自らの心の中に仏がいるという聖道門の間違った教えを信じており、浄土門真実の教えを貶し、定心と散心の自力の信心に迷って、他力の信心を知らない)

「聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて 諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ」(浄土和讃)
(訳:聖道門の方便の教えに人々は長いあいだ止まっているので、迷いの輪廻から抜け出すことができない。唯一真実である阿弥陀仏の本願に帰依すべきである)

・方便に心を奪われる
真実に近づけるための方便であるのに、方便に心を奪われ、方便が目的となってしまっているのです。
自力と他力の関係に限らず、人間は方便に心を奪われやすいです。智度論には、「人、指をもって月を指して、もって惑者に示す、惑者指を視て月を視ざるごとし」と説かれています。これは、善知識が指(方便)で月(真実)を指しているのに、指に心を奪われて月を見ないようなものだという意味です。

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