人間の善はすべて偽善であるワケ。偽善でもする必要があるワケ。

雑毒の善

どんな人でも、1つぐらいは善をしたことがあると思っています。しかし、人間の行う善は雑毒の善といって、毒が雑ざる善だと説かれます。
・見返りを期待する善
毒とは、「私が(施者)、誰々に(受者)、何々をしてやった(施物)」といった心を指します。この心は三輪ともいい、御礼の言葉など、何かしらの見返りを期待する心です。「見返りなど期待していない」と思っていても、善をした時には必ずこの心が混ざります。
哲学者のテオグニスは、「悪い人間に親切をすると二度ひどい目にあう。金を失って、しかも感謝されない」と言いました。
聖福寺の仙厓に、こんなエピソードがあります。
仙厓は、人から布施を受けても世話してもらっても、ただ黙って礼を言わなかったといいます。「礼を言うとせっかく受けた恩が消えるような気がし、いつまでも恩を有難く思うため」に礼を言わなかったのだそうです。
ある日、仙厓の世話をした人が、「あの人はお礼を言わない」と怒っていると、仙厓は、「礼を言えばそれで済むのかい。わしは一生忘れんつもりじゃった」と言い返しています。そして、「わしは口では言わぬ代わりに心では常に思うておる。人に親切を尽くして礼を要求するなどは本当の親切ではない」とも言っていました。
その仙厓が、ある寒い冬の日に橋の上を通りかかった時のことです。ふと橋の下に目をやると、ぶるぶると震えている乞食がいました。憐れに思った仙厓は、着ていた衣を脱いで橋の上から放り投げてやりました。乞食は落ちてきた衣を羽織り、何事もなかったかのような顔をして黙って座りました。
その様子に仙厓は橋を渡りにくくなりました。そして、「おーい乞食、少しは暖かくなったか」と言ってしまいました。すると乞食は、「着ない前より、着た後のほうがあたたかいに決まっている。そんな当たり前のことをなぜ聞くのか」と言い返しました。礼を要求していたことに気づいた仙厓は、その言葉に冷水を浴びせられたような気がしたといいます。人には「礼を要求する善は本当の善ではない」と言っていた仙厓ですが、彼もまた礼を要求する善をしていたのです。
それにしても、この乞食は、ただの乞食とは思えません。おそらく仏教を聞いていた人ではないでしょうか。

・商売
人間は自分の利益を離れて善ができないということですが、利益を求める善なので商売ともいえます。

・見返りがないと怒る
文句を言われたり、期待通りの見返りが返ってこなかった時に怒りとなって噴き上がるために毒なのです。意識するとしないとにかかわらず、善をした時には必ずこの毒が混ざります。
たとえば、「障害者だから優しくしよう」と思い席を譲ってやった場合、「私が、障害者に、親切にしてやった」という毒が混ざります。そして、相手から「結構です、余計なお世話です」などと突っぱねられれば、「障害者のクセに!」という怒りが吹き上がるのです。

・善をしている人は怒りやすい
大きな善であればあるほど、毒は強く吹き上がります。つまり、一生懸命善をしている人ほど怒りやすいのです。

・無意識に善をしている
意識的に「善をしよう」と思って善をすることは少なく、何かを我慢したり、人間は無意識に善をしています。つまり、無意識に毒が蓄積されており、しかるべき縁がくれば怒りが爆発するということです。人間は、人の親切は忘れても自分の親切は忘れていません。

・善悪観は人にも向けられる
また、善悪観は人にも向けられます。つまり、人も自分と同じ善悪観を持つべきだと思っています。
たとえば、座席を譲ることが当たり前だと思っている人は、譲らない人を見て怒りが出て、客には丁寧に接すべきだと思っている人はそうしない人を見て怒りが出るという具合です。

・偽善
純粋な善というのは、相手から見返りを期待すべきではありません。しかし、どんなに一生懸命努力しても、人間には毒の出ない100%純粋な善は1つもできません。つまり、人間のする善は偽善ということです。
「一切凡小、一切時の中に、貪愛の心常によく善心を汚し、瞋憎の心常によく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸うが如くすれども、すべて『雑毒・雑修の善』と名づく。また『虚仮・諂偽の行』と名づく。『真実の業』と名づけざるなり」(教行信証)
(訳:すべての人間は、どんな時も絶え間なく、欲を貪る心が善い心を常に酷く汚し、怒りや憎しみの心が善い行為を常に酷く焼く。頭についた火を急いで払い消そうとするように善をしようと思うが、すべて「雑毒・雑修の善」であり、嘘偽りの行であって、真実の善ではない)

中国は梁の皇帝、武帝は、熱心な仏教の信者でした。
ある日、高名な達磨が、はるばるインドからやって来ると聞き、武帝は非常に喜びました。到着した達磨を早速王宮に迎え尋ねました。
「朕は即位して以来、無数の寺院を建て、何度も写経を行い、数え切れないほどの人々を救ってきた。朕の功徳はどれほどのものであろうか」
すると、達磨は「無功徳!」と一喝しました。驚いた武帝が、「なにゆえ無功徳か」と腹を立てると、達磨は、「そなたの善はすべて雑毒の善、虚仮の行なり」と言ったといいます。

・寸善尺魔
小さな善をすることで大きな悪を生み出してしまうために、「寸善尺魔」ともいわれます。一寸の10倍が一尺ですが、ほんの少しの善で膨大な悪を造るという意味です。氷を熱湯で溶かしても、しばらくするとかえって盛り上がってしまいます。人間のする善は、ちょうどそのようなものであると智度論にはたとえられています。

・善をしても助からない
意識するとしないとにかかわらず、善いことをすれば死んだ後にいい世界へ行けると人間は思っていますが、雑毒の善ではそれは叶いません。
「少善根福徳の因縁をもって、かの国に生まるることを得べからず」(阿弥陀経)
(訳:人間がする雑毒の善では、極楽浄土へ生まれることはできない)

「この虚仮・雑毒の善をもって、無量光明土に生まれんと欲する、これ必ず不可なり」(教行信証)
(訳:この嘘・雑毒の善でもって、極楽浄土に生まれようと思っても絶対に不可能なことである)

・善人様
純粋な善ができないのに純粋な善ができると自惚れている人がいます。そういった人を善人と呼び、皮肉をこめて善人様と呼んだりしますが、すべての人間は大なり小なり善人様の状態です。どんなに「自分は悪人だ」と思っている人でも、腹底では「少しぐらいは善もしている」と思っています。むしろ、「善はよくするが、悪と言えないようなほんの小さな悪をたまにする」ぐらいに思っています。
悪い事をしていないと思っているので、悪い結果がやってくると咄嗟にはねつけ、怒り、人のせいにしたりします。「悪い結果」の最たるものである死がやってくれば、それが最大になります。

善の重要性

・善をしないと悪が見えない
善をしないと悪が浮き彫りになりません。
「松陰の暗きは月の光かな」という古歌があります。月の光が輝けば輝くほど松の影は暗く濃くなっていくという意味ですが、善と悪の関係もこのたとえと同じことがいえます。つまり、善を行えば行うほど、自身の罪悪がハッキリと見えてくるのです。善をしないと罪悪の自覚はできず、罪悪を罪悪と思えません。
戦時には集団で麻痺してしまい、殺人でさえ罪悪感を感じなくなってしまいます。それと同じように、現在、集団で麻痺していることが数多くあるのです。
また、戦争が終わり正常になって初めて、戦時が異常だったことに気づきます。それと同じように、善をして正常になって初めて、今の自分が異常だったことに気づきます。そして、「なぜ今まで、こんな当たり前のことに気づかなかったのだろう」と不思議に思い悔やむのです。

・係念の宿善
雑毒の善を宿善と変える力が阿弥陀仏の光明にはあります。ですので、雑毒の善であっても一生懸命善をすることが大切です。
もちろん、毒を捨てるよう努めなければなりません。たとえば、人を救おうとする行為には、「自分が救われたい」という、いわば阿弥陀仏に対する「賄賂」がまじっているため、この悪い心(毒)を捨てようと努める必要があります。

善の具体例

厳密には、何が善となるかは人によって異なり、同じ人でも時と場合によって異なりますが、具体的にどのような行為が死の解決に向かう行為となりやすいのか、大まかな具体例を挙げます。以下、重要な順です。

1 .聴聞(仏教を聞くこと)
2.開顕(人に仏教を伝えること)
3.勤行(経典を読むこと)
4.教学(仏教の勉強をすること)
5.六波羅蜜
「波羅蜜」とは、「到彼岸」や「度」とも訳され、悟りを得るための修行法を意味します。波羅蜜を簡単にいうと、道徳・倫理的な善を一生懸命実行するということです。波羅蜜には大きく、次の6種があり、六波羅蜜といいます。六波羅蜜は六度万行ともいいます。

布施:親切をする
持戒:戒律(約束や道徳規範)を守る
忍辱:忍耐する
精進:努力する
禅定:反省する
智恵:仏の智恵、教育を身につける

以上、「善」の具体例を挙げましたが、あらゆる善は「聴聞」にまとめることができます。

善の心がけ

善をする目的は自己を知るためです。ただ、やみくもに善をするのではなく、善を行っている時の自分の心を見つめることが大切です。
・純粋な善に近づける
結論から言えば、純粋な善は人間に不可能ですが、純粋な善に近づけようと努力することが大切です。善をする時には、三輪を空じる(捨てる)必要があり、これを三輪空といいます。善をすれば必ず、「善をしてやった」と自惚れるため、その心を諌めるということです。純粋な善をしようとしてもできない自分の心を見つめながら一生懸命善をすることに意味があるのです。

・善は心の問題
善とは物質的な問題ではなく、心の問題です。まったく同じ行為であっても、その人の心理状態によって大きい善になったり小さい善になったりするのです。
たとえば、何でもない時にする善は大した善ではありませんが、くたくたに疲れている時にする善は、強い「念い」が働き、より大きな善となります。また、1億円持っている人が1万円捨てるのと、1万円しか持っていない人が1万円捨てるのとでは、1万円に対する「念い」が異なり、1万円の価値が異なります。

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・形だけでもやる
難陀の一灯のような善が理想ですが、人間には中々できません。ですので、そのためにまずは形だけでもいいので、何度も何度も心を込めて善をするという視点も大切です。
良くも悪くも行動した通りに心が作られていきます。心がきちんとしてなくとも、きちんとした行動をすることで心もきちんとなっていきます。心がきちんとしていても、だらしない行動をすることで心もだらしなくなっていきます。

・善因は必ず善果となる
善い行いをすると必ず善い結果が返ってくるという法則が善因善果の法則です。善い行いをしても善い結果がなかなか出ない時は、善業の貯金をしていると思ったらいいのです。

・善をすればいいだけ
インドの説話集、屍鬼二十五話には、次のように語る場面があります。
「ねえ君、話してくれ給え。君は聡明そうなのに何をそう悩んでいるのか。幸せは善行から生じ、苦しみは悪行から生ずると決まっているのに。もし君の憂鬱が苦しみから来るものなら、善行を行い給え。どうして自殺なんかして地獄の苦しみを望むのか」
幸せであろうが不幸であろうが、過去の行いが結果となっているだけです。幸せだといっても、喜んでばかりもいられません。不幸だといっても、嘆いてばかりもいられません。未来のために善をしていく必要があります。仏教は、自由意志で悪い縁を遠ざけ、善い縁を近づけるよう努力する、努力主義、全力主義の教えです。

・結果はカス
「結果」は正確には「行いの結果」であり、本質は「行い」にあります。行いで結果が決まるからです。ですので、注力すべきは行いであって、結果に一喜一憂したりするのは正しい受け止め方ではありません。種まきをする過程にこそ、ありとあらゆるものが詰まっており、結果はオマケでありカスだと思うべきなのです。ビサーカーという釈迦の弟子は、甘い飲み物を美味しそうに飲んでいる長者を見て、「古いものを飲んでいる」と表現しました。
「不幸な人は希望をもて。幸福な人は用心せよ」というラテンの諺もありますが、相対的な幸福に振り回されず、どんな時も常に冷静でいるよう意識すべきです。

・小さな種まきで大きな結果は出ない
たとえば、小さな種まきで大きな結果がやってきたら、因果の法則に反するので怪しむべきです。この時に「自分の努力」だと思ってしまうと、ツケがまわってきて痛い目に遭います。

・裏表なく善をする
「偉大な大工は、誰も見ないからといって、床裏にひどい木材を使ったりはしない」(スティーブ・ジョブズ/経営者)

人相手の生活だと裏表のある生活となりやすいので、因果律相手の生活をし、裏表のない生活をすべきです。人間は人にバレることに怯え、法律に怯えてばかりですが、因果律に怯えるべきです。山奥に咲く花は、人が見ていようがいまいが、綺麗に満開に咲き誇っています。人が通る時だけ咲いて、通らない時はしぼんでいる、ということはありません。このような裏表のない善を心がけることが大切です。
また、裏での行為はどうしても表に出てくるものです。
太宰治は、ある詩人から、次のように忠告されたといいます。
「その作家の日常の生活が、そのまま作品にも表れております。ごまかそうったって、それはできません。生活以上の作品は書けません。ふやけた生活をしていて、いい作品を書こうたって、それは無理です」
しかし、人が見ていないところではインチキをするのが人間です。そのことを調べた実験は数多くあります。
「調査結果は、全員が心の中で損得勘定をしていることをはっきりと示している。もう1つ付け加えると、ほとんどの人は、その瞬間は愉快であったにしろ、自身の道徳規範に反する選択に簡単に引き込まれてしまった。言い換えれば調査結果は、誰にも説明する必要のない状況では、ほとんどすべての人の自制心が利かなくなってしまうことを示している」
「大半の人は、利己的な行動をとるだけでなく、自分と同じ勝手な振る舞いをした人間に対しては躊躇なく非難する。少し言い方を変えれば、ほとんどの人は自制心を働かせて道徳規範をきちんと守ることができない上に、さらにおそらく最も驚くべきは、自分のやった不正行為は容認するのである。誘惑に負けただけでなく、あとから自分のとった行動にはきちんとした理由があると信じ込んでしまうのだ。こうした現象は、自分の誤りから学ぶという点に関していえば、まさに諸悪の根源になりうるのが想像できるはずだ」(デイヴィッド・デステノ/ノースイースタン大学心理学教授)

どれほど因果の法則を信じ、裏表なく生きていると自負する人であっても同じことです。死の解決をしない限り、因果の法則を露塵の疑いもなく信じること(深信という)はできません。
ですので、互いに監視し合うシステムをつくるというのも大切です。ちなみに、たとえ人間は見てなくとも仏は見ており、心の行いも知ることができます。仏でなくとも見える人や衆生には見えます。プライバシーなどというのは本質的にはないともいえます。
24時間365日、生活のすべてを人に見られたら苦痛でしょう。お笑いタレントの濱口優は、これまで行った数ある過酷なロケの中で、スケルトン生活(外から丸見えのまま生活を送るロケ)が今までで1番過酷だったと語っていました。多くの衆生から見られていることがわかれば、きっと苦痛に感じるはずです。

・善は大変
善をするのは大変なことです。
善い結果を受けている人は過去に善をしたということなので、その点は称賛に値します。もっとも、世俗的な成功を善としたならばの話です。こんなエピソードもあります。
ある僧が大名に恭しく合掌しました。それを見た連れの人が不審に思い、「そなたは、あのような権力を認めるのか」と非難しました。するとその僧は、「私は世俗的な権力に額づいているのではなく、過去世の善業を拝しているのだ」と答えたといいます。
しかし、安心してもいられません。善い結果を受け続けるには、これからも善をしていく必要があります。衹夜多尊者という僧は、月氏国の王に向かって、「来た道はよかった。これからも気をつけられよ」とアドバイスしたといいます。

・バカみたいに善をする
求道は非常にデリケートな道で、1度悪に染まってしまうと、死の解決ができなくなるぐらい打撃を受けてしまいます。
しかし、人間は近視眼的で、かつ悪に染まりやすい生物です。7歳の源信が指摘したように、どうしても善悪を区別し、善悪に影響されるのが人間です。
ですので、求道者は一生懸命善をすべきです。人間心理からいって、悪はとても使いこなせるものではありません。善と悪の両方を自由に使い分けることができるのは、死の解決をした人だけです。善悪がわかる先生、つまり善知識の監視下であれば別ですが、求道中の人間は善をバカみたいにやるぐらいがちょうどいいのです。

・怒りが出るぐらい善をする
人間の善は雑毒の善ですから、一生懸命善をしている人は怒りやすいです。
逆に、怒りがでない人というのは、あまり善をしていない人ということになります。
悪を見て怒らない人というのは、悪を悪と思っていないということであり、悪に鈍感な人です。
もっと言えば、怒りのない人というのは人格的にゼロであり、心が死んでしまっているのです。

・怒りは悪とは限らない
「怒り」を絶対悪ぐらいに思っている人は多いですが、悪とは限りません。たとえば、泥棒が家に入れば当然ケンカになります。盗まれても殴られても、怒らず何もしなければ、それこそ悪というものです。ガンジーは、たまたま殺されなかっただけでしょう。怒る人がいることで全体の協調行動が増えるという研究もあるようです。
「怒りという感情はないほうがよいと考えがちであるが、社会の中に怒る人がいるというのは案外重要なことのようだ。人間が協力して暮らしていくのに、怒りが大事だというのは意外かもしれない。ただ単に怒りっぽいだけでは、人としてはとっつきにくいが、怒るべきときに怒り、過度に自己中心的な人や、社会の規範を守らない人を罰するというのは、社会の秩序を維持するために、世の中の役に立っているのかもしれない」(金井良太/認知神経科学者/元英国サセックス大学准教授)

もちろん、怒っている人がすべて正しいとは限りません。
また、たとえ怒りを口にしなくとも表情などに必ず表れます。こういったことがわかってくると、その人が本当に善をしたかどうか証拠の1つになり、嘘を見抜いたりすることもできます。

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