やっぱり人生には目的があった!「生き方は人それぞれ」ではない。「天上天下唯我独尊」の本当の意味

目的の重要性

目的もなく、同じ行為を繰り返すというのは苦しいことです。
動物園の檻の中に閉じ込められた動物には、同じ動作を繰り返す「常同行動」がよく見られ、この異常な行動はストレスのバロメーターともいわれています。
また、ナチスが囚人に対して行った拷問に次のようなものがあったそうです。
A地点からB地点まで石を運ぶよう命じます。全部運ばせると、今度はB地点からA地点まで元通りに運ぶよう命じます。この一連の作業を延々と繰り返すよう命じたところ、気が狂う囚人が続出したといいます。アウシュヴィッツ強制収容所所長のルドルフ・ヘスは次のように語っています。
「私は、刑務所の同囚や、その後の強制収容所でも、多くの抑留者たちと労働について話しあった。それについて、誰もが、鉄格子の中、鉄条網の背後の生活は、ずっと作業がなければ耐え難いもの、まさに最も苦しい刑罰であるだろうと確信していた」
ヘスはまた、釈放される見込みのなくなったユダヤ人について、「この心理的な破滅は、肉体的な破滅を促した。彼らはもう生きる意志をもたず、すべてに無関心になり、ほんのちょっとした肉体的なショックでも、あっさり死んでしまうようになった」とも語っています。
他にも、「賽の河原」など、目的もない作業がいかに苦しいことかを教えた話は数多くあり、目的がいかに重要であることかを主張する人も数多くいます。作家のヘンリー・デイヴィッド・ソローは、「勤勉だけが取り柄なら蟻と変わるところがない。なんのためにせっせと働くかが問題だ」と言いました。
人生の目的を持つと心身に良い影響を与えることがわかっています。サウス・フロリダ大学の研究によれば、「目的意識は、忍耐力、寛容さ、楽観性、慎み、成熟した自己意識、そしてより円満な人格の統合を促進する」といいます。
「今でしょ!」で有名な林修は「努力はベクトル」と言いました。ベクトルとは「方向」と「大きさ」の2つの意味を含めた言葉です。

目的が無常の幸福になっている

しかし、こちらで説明したように、世間一般の人は、その目的が無常や相対といった致命的な欠陥のある幸福になってしまっています。

幸福には致命的な欠点がある

周りを見渡せば皆、忙しなく「何か」に向かって動き、「何か」について話し合っていますが、その「何か」はすべて無常の幸福です。
・人間は2人だけ
中国に古くから伝わる次のような話があります。
清の時代、皇帝が天安門の下を通る数多くの人を見て、「どれくらいの人がいるのか」と宰相に聞きました。すると宰相は「2人です」と答えました。
「私が見ただけでも何百人といるのに、2人だけとはどういうことだ」
皇帝が怒ると、宰相は「はい、名利の2人だけです」と答えたといいます。
どれほど多くの人がいようとも、名誉を求める人間か、利益を求める人間の2種類しかいないのです。

・人生は同じ作業の繰り返し
人間の一生を見るに、先ほどの動物園の動物と似たようなものであることが見えてきます。
「人生は台所と便所の往復」とか「人生は布団の出し入れ」などといわれるように、無常の幸福しか知らない人生はゴールと呼べるものがない人生であり、同じような作業の繰り返しです。頓智で有名な一休は「人生は 食て寝て起きて クソたれて 子は親となる 子は親となる」と詠みました。
フランスの小説家、アルベール・カミュの随筆に「シーシュポスの神話」というのがあります。
地獄に堕ちたシーシュポスは、大きな岩を山頂まで運ぶという刑罰を受けます。ようやく山頂まで運びますが、その瞬間、岩は転がり落ちてしまい、また最初からやり直しとなります。これを休みなく延々と繰り返すのです。
著者のカミュは「無益で希望のない労働ほど恐ろしい懲罰はない」と言い、この神話は「人間の一生を描いているのだ」と言います。

・何やっても何も意味がない
死がある以上、無常の幸福を目的とした生き方は、何をやっても何の意味もありません。意識するとしないとにかかわらず、「今のまま努力し続ければ、きっと苦労が報われるはずだ」と信じているでしょうが、骨折り損のくたびれ儲けで終わってしまうのです。
意味がないと思わない人も多いでしょうが、それは死が遠いからです。後述しますが、死が近くなれば、ビートたけしが言ったように「人生ってなんだろうって感じるね。なんの意味もないことがよくわかる」のです。
「人間の営みあへる業(わざ)を見るに、春の日に雪仏を造りて、金銀珠玉を飾り、堂塔を建てんとするに似たり」(徒然草)
(訳:人間の一生は、太陽が照っている暖かい日に雪だるまを作って、豪華な装飾をし、堂塔を建てているようなことをしている)
「雪だるま」は人間をたとえており、「装飾」は人生で手に入れるすべての幸せをたとえています。人生全体で俯瞰すれば、この通りの姿が見えてきます。
「人間とは何か?愚かな赤ん坊である。無駄に努力し、戦い、いらだち、何もかも欲しがりながら、何にも値せず、小さな墓を一つ得るだけだ」(カーライル/歴史家)

「高官や名声は、人生を犠牲にして獲得される。生涯の終末に至った時、何のなすところもなく長い間多忙に過ごしたことに気づいても、かわいそうに時はすでに遅い」(セネカ/哲学者)

「誰にでも、必ず死は待っている。自分の真の所有物など何一つ存在しない。どんな名誉も権力も豪邸も自己の肉体も幻と化して、時の彼方へ消え去っていく。『この世』は無常きわまりないバーチャル・リアリティー(仮想現実)の世界なのである」(コンノケンイチ/サイエンスライター)

城西国際大学教授の望月清文は、これまでの研究(進化論は「悟り」へ向かう。ダーウィンから望月進化論へ。)を踏まえ次のように語っています。少し長いですが、重要なところなのでそのまま紹介します。
「地位、名声、富といったものは、人生でも何でもない。それらをあえて表現するならば動物的営み、自分の中に息づいている動物としての営みである」
「人生とは、人間として生きることであり、意識が人間として潜在的に持つ能力に明かりを灯そうとする営みである。動物的欲求を満たそうとして努力した生き方は、動物に人生がないのと同じように、人間にしてもそれは人生ではない。単なる記憶が残っているだけだ。人間だけに与えられている人生、それは、人間的欲求を満たすためにひたすら努力することの中にある」
「日々繰り返される刹那的な快楽の中で、ひとときの幸福感に浸ることはできる。しかし、その幸福感は、その浸っている瞬間から漏れだしている儚い幸福感でもある。それは、穴のあいた器で幸せという水を手に入れようとしている営みにも似ている。器が涸れてしまった後のむなしさがわかっていても、そのむなしさを癒すかのようにまた新たな幸せという水を求めて動き回る」
「快楽の後に訪れる空虚感が、快楽を求めることよりも、自分の心の器の穴を埋めることへ向かわせようとする自然の働きかけであることに気づくこともなく、その空虚感を癒すかのように、また新たな快楽を求めて動き回る。ますますエスカレートする快楽への衝動が、実は自分の心に開いた穴がますます大きくなっていることから来ているのだということに気づかないまま、ひたすら外の世界に快楽を追い求めて日々を過ごすようになってしまった」
「我々は今、快楽と快楽の後に忍び寄る空しさとの繰り返しの中で、生きるとは何なのか、本当の幸せとは何なのか、生きる目的はあるのかといったことへの答えを求め始めている。実は、その空虚感、生きることの意味を問おうとするその衝動こそ、刹那的な快楽に陥ってしまおうとする我々の頼りない意志を、生命の進化の方向に向けさせようとする自然の力なのだ」
「多くの場合、この精神的進化に目覚めない人のほうが、動物的欲求の中で生き生きと生き、かつ動物的欲求の中で価値づけられた社会の中で、あたかも聖者の如く、君子の如く振る舞うことができる。実際には自己自身に目覚めていないにもかかわらず、動物的欲求にとりつかれ、本物の自分として生きようとしていないにもかかわらず、このような人たちが社会の第一線の上に立つことが極めて多い。そのために社会の価値観はますます動物的欲求を増長させる方向に働き、精神的進化に目覚めた者を病的として排斥してしまおうとするのである。この矛盾とも思える社会現象を、キルケゴールは『死に至る病』の中で次のように語っている。
世間と呼ばれているものは、もしこう言ってよければ、いわば世間に身売りしているような人々からだけ出来上がっているのである。彼らは自分の才能を利用し、富を蓄積し、世間的な仕事を営み、賢明に打算し、その他いろいろなことを成し遂げて、おそらくは歴史に名を残りさえもする。しかし、彼らは彼ら自身ではない。彼らがその他の点でいかに利己的であろうとも、精神的な意味では何らの自己をも彼らは所有していない」
「我々は、生まれた時から、地盤のしっかりしていない大地の上に、ひたすら高層ビルを建ててきた。そこでは、大地は当たり前にあるとして、ただひたすら動物的欲求の求めるままに、動物的欲求で形作られた高層ビルを作ってきた。一生懸命勉強し、知識を身につけ、一流大学に入り、一流企業のエリート社員として出世していくのも、その人の高層ビルであるし、技術を磨き、年と共に誇り高き技術者として生きていくのも、またその人の高層ビルである。その高層ビルを人は見て、高く立派であればあるほど絶賛し、人はその絶賛される中に喜びを感じる。
しかし、そのビルが高くなればなるほど、動物的欲求の充足があればあるほど、ビルが不安定な地盤の上に建てられていることを感じるようになってくる。その不安定な地盤を感じることが『人生いかに生きるべきか』という問になって現れてきているのである」
臨死体験の研究をしている医師のジェフリー・ロングによれば、臨死体験者の約半数は物欲が薄れるといいます。金や名誉があっても死んだ後には持っていけず、それらでは幸せになれないと身にしみてわかるからだそうです。
人工蘇生術のエキスパートであるモーリス・ローリングズは、臨死体験をしたある患者の次の言葉を紹介しています。
「私はいつも、社会的地位と富裕象徴とを人生における最も重要なものだと考えていた。生命が突如として私から取り上げられるまではそうであった。
今、私は、これらはどれも重要ではないと知った。物質的なものなど何の価値もない。我々の現在の生は、あなたが後で見るものに比べたら無に等しい」
そして、「意味がない」という程度では済まず、死後は地獄という最悪の結果が待っています。こんな悲劇はありません。

・すべて無常の幸福
ちなみに、「私は金や名誉で幸せになろうと考えていない」という人は多いです。そういう人に、「では何で幸せになろうと考えているのか」と聞くと、恋愛や仕事、子供や家族の幸せ、あるいは愛だとか慈善行為といったものを挙げてきます。こういった精神的な幸せも含めて、人間が考えるような幸せはすべて世間的な幸福であり、無常・相対の幸福です。

人間は近視眼的

人間は近視眼的な生き物なので、無常の幸福を求める生き方が何かしら意味のあるものだと思っています。生きる意味がわからず深刻に悩むという人は少数派です。
人間は身近なことについては、「これをやる意味があるのか?」と意味を考え、何か目的をもって行動します。たとえば電車に乗った人に、どこへ行くのかと聞いて、「さあ、どこへ行くのかわかりません」と言ったら、この人は頭がおかしいと思うでしょう。
しかし、死や死後を含めた広い視点になると、どこへ行くかわかっていない人がほとんどなのです。
・進歩していると思っている
歌手のマドンナは、「もちろん進歩ってものを信じてるわ。だから人間は生きてるのよ。進歩は人間本来の性質なの」と言いました。彼女のように、このまま努力していれば、昨日より今日、今日より明日のほうが人生が進み、より優れた人間になっていると思っているかもしれません。しかし、これは近視眼的な視点です。
「だまし絵」の1つに、登り続けると出発点に戻ってしまう「無限階段」があります。

有名な絵なので誰でも1度は見たことがあるでしょう。近視眼的には昇って進歩しているように見えますが、広い視点で俯瞰すればまったく昇れていないことがわかります。
ちょうどこのだまし絵のように、人間は進歩しているように思い込んでいますが、実際はまったく進んでいないのです。進歩していないと感じる人は感じます。
「突き詰めてやればやるほど、なぜか空転して、前に進んでいるという実感が起きない。空転して、自分を壊す結果になってしまう、オレのバイク事故のように」(ビートたけし)
まさか自分が、アリとキリギリスのキリギリスになっているとは思いもしないでしょう。
「木を見て森を見ず」という言葉があります。ご存じの通り、小さなことに気を取られて全体を見渡せていない、という意味です。視野が狭い人を見て、「自分は広い視野で物事を見ている」と思っている人は多いですが、そういう人も死や死後という最も大きな視野では見渡せていません。つまり、こういう人は「木を見て森を見て山を見ず」というような状態になっているのです。

・ほとんどは妥協した生き方
太宰治は、「大人とは、裏切られた青年の姿である」と言いました。若い時は理想主義に燃え「何でもできる」と思っていても、やがて幸福が無常であることなどが体験的にわかってきます。すると、ほとんどの人は「人生こんなもんか」と大なり小なり妥協した生き方となり、そこに落ち着いてしまいます。中には次のように疑問を持つ人もいます。
「勉強するのは進学のため、進学するのは就職のため、仕事をするのは収入のため、収入を得るのは生きていくため。しかし、生きていくのはいったい何のためであろうか。そして、私たちはこの人生の果てにどこへ行こうとしているのだろうか」(18歳学生)
もっともな疑問ですが、一時的に悩んだとしても、世間的な幸福、つまり無常の幸福以外に何を求めたらいいか考えてもわかるものではありません。他にどうしようもないので、結局は無常の幸福を求めて人生が終わってしまいます。

・どんな人も似たり寄ったりになる
お笑いタレントのだいたひかるのネタに「『みんなと同じことはしたくない』という、みんなと同じセリフ」というのがありますが的を得ています。「人とは違う人生にするぞ」と一時的に奮起することはあっても、結局は似たような人生を歩んでいくことになります。これは、どれほど特異なことをしているように見える人であっても同じです。
「こんなことあと何年続けるんだろうって。朝起きて、家を出て、現場へ行って、仕事して、帰って、というのが365日のうち、300日ぐらいを占めているわけよ。これなんかある?」(マツコ・デラックス)

「誰しもすごい狭い世界に生きてるじゃないですか。芸能人だろうと主婦だろうと歌手だろうとサラリーマンだろうと。みんな自分でわかってないかもしれないけど狭い世界に生きてて、だんだん客観的に自分を見れなくなってって苦しくなってくみたいな。そういうのから自分もそうだったって気づいて、そこから出たいというか、ちゃんと自分を見ないとと思って」(宇多田ヒカル)
第1巻でも説明しましたが、ヒトという種であることが大前提としてあり、その上での個性です。遺伝子レベルでは99.99%同じです。同じ種だから同じような生き方をする運命にあり、別の種とは根本的な違いがあります。どれほど個性的だといってもアリはアリ、魚は魚、犬は犬です。どれほど個性的だといっても、人間は人間なのです。
「ヒトは姿形・体質・性格など極めて多様ですが、実はゲノムのおよそ99.9%はみな同じものを持っています。ヒトは99.9%は同じゲノム配列を持っている上で0.1%だけ差異があるから多様だということが認識できるのであって、ミジンコやコアラ、ウーパールーパーなどゲノム配列が大きく異なる生物を入れて考えてしまうと、ヒト間の差異など微々たるもので多様であるとはいえません」(高橋祥子著「生命科学的思考」より)

「人間の文化は表面的には多様で、とても珍しい慣行や風習があるかのようにみえても、本質的には変わらない。他の文化と根本からして違うまったく異質な文化などというものは存在しない。人間の体はさまざまな個人差があっても、根本的な構造はみな同じで、目が3つあるなど、まったく違う体をもつ人などいないのと同じことだ」
「たとえば英語と中国語はまったく違うし、そのいずれもアラブ語とは似ても似つかない。しかし『表層』の違いにもかかわらず、すべての人間の自然言語は、ノーム・チョムスキーの言う文法の『深層構造』を共有している。この意味では、英語も中国語もアラブ語も本質的には同じなのである」(アラン・S.ミラー/北海道大学教授/「進化心理学から考えるホモサピエンス 一万年変化しない価値観」より)
ビートたけしは、1994年に原付バイクで事故を起こし重傷を負っています。一命を取り留めたものの、生死の境をさまよう事故であったため、平生元気がいい時には気づかないようなことに気づいています。
たとえば事故の前は、「人とは違う特異な才能を持っており、一般人とは違う生き方をしている」と自他共に認めていましたが、次のようにまったく同じことをしていたと気づいています。
「ようするに、おいらの生活は仕事して夜寿司屋行って飲んで帰ってきて寝るだけ。三百六十五日それの繰り返し。一般のサラリーマンの人と同じで、やってることが凄い単調だったんだよね」
「今まで、サラリーマンとかタクシーの運転手とか土方のオヤジとか何が幸せなんだろうって思ってた。オートマチックな生き方に何の意味があるかってね」
「働いて家帰って家庭の団らんあってテレビ見てわははと笑って寝ちゃうのを、三百六十五日ずっと続けてる奴をオレは全然認めてなかった。嫌だなそんなのと思ってた。でも、てめえもそれやってたんだよね。病気になって病院に入ってみると、それがよくわかった」
「そうすると、何の仕事につこうがあんまり関係ないんじゃないかって気になったね」

・嘘をつく人生
無常の幸福しか知らず、かといって生き甲斐もなく生きるのは苦しいので、「無常」「相対」「不完全」である幸福を無理やり、「常」「絶対」「完全」である幸福にしようとする心理も働きます。そのため、意識するとしないとにかかわらず、自分にも人にも嘘をついて生きることになります。

深刻に悩む人もいる

一部、人生の根本問題がわからず深刻に悩む人がいます。
「私の愛する人々にも、また私自身にも、今日でなければ明日の日には、病気と死が襲ってきて、悪臭と蛆のほかには何一つ残らないのだ。私の仕事は、たとえどんなものであろうとも、ことごとく忘れられてしまい、遅かれ早かれ私はなくなってしまうのだ。それなら、何のためにあくせくする必要があろう? 
どうして人間はこれを見ずに生きていられるのか、これこそ驚くべきことである!生に酔いしれている間は生きてもいけるが、醒めてしまえば、それらがすべて欺瞞であることを、しかも愚かな欺瞞であることを、見ないわけにはいかない!さればこと、滑稽なものも気の利いたことも、何一つありはしない、ただもう残酷でバカバカしいだけである」(トルストイ/小説家)
・深刻に悩む人は異常なのか
臭い物に蓋をする生き方をしている人から見れば、「そんなに悩まなくてもいいのに」とか「なにも死ななくたって気楽に考えればいいのに」という具合に理解し難いでしょうが、そうした生き方が耐えられない人がいるのです。もっと言えば、気づいているかいないかの差だけで、気づけば誰でも死にたくなるほど苦悩します。

・深刻に悩み自殺する人もいる
そして、中には生きる意味を深刻に悩み自殺する人もいます。
生きる意味を真剣に探したものの見つからず、かといって臭い物に蓋をする生き方も耐えられなかったため、自殺に踏み切ったということです。こういった人間苦を理由に自殺する人は非常に少ないです。
旧制一高(現在の東京大学)に入った藤村操は、人生に深く悩んだ末、華厳の滝に身を投げました。生活が苦しくて自殺する人は多くいましたが、藤村は思想的な悩みで自殺したため、当時の知識人に大きな衝撃を与えました。この時、藤村は次のような遺書を傍らの木に彫り残しています。
「悠々たるかな天壤、遼々たるかな古今、五尺の小躯をもって此大をはからむとす、ホレーショの哲学竟(つい)に何等のオーソリチィーを価するものぞ、萬有の真相は唯だ一言にして悉す、曰く『不可解』。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る」
(意味:広大な天地や時の流れと比べたら、何と自分はちっぽけな存在であろうか。五尺という小さな体(約150cm、当時の男子の平均身長)で人生という巨大なものを知ろうとした。当時有名だったホレーショの哲学もやってみたが何の価値もなかった。この世のあらゆる真実はたった一言で言い表せる。つまり不可解。私はこの事実に苦悩し、ついに自殺することを決意した)
彼の自殺によって、華厳の滝は自殺の名所として知られるようにもなりました。
藤村だけではありません。

芥川龍之介の自殺の根本原因は無明

マリア・カラスに学ぶ成功と恋愛と幸福

・真面目な人は苦しむ
真面目な人であれば必ず苦しみます。第1巻でも説明したように、科学は人生の根本的な問題に対して無力です。ですので、他に答えを求めようとしますが、宗教はおかしいものばかりです。真面目に考える人は行き詰って苦しむ運命にあります。
「科学的文化が進歩して、生きることをどんなに便宜よくしてくれたからとて、人生の無常は依然として無常である。人生が無常である以上、人間は、魂の成長したる人間は、やはり厭世観に悩まされる」
「昔から多数の厭世論者が排出したが、ことごとく人生に死あることを理由として世を呪っている。死はそれほど人間を戦慄させるものだ。それほど人生を暗くするものだ。昔から智識の優れた王侯や、学者や、詩人が厭世論を唱えたのも、無理のないことである」(福来友吉/東京帝国大学助教授)
逆に言えば、苦しんでいないということは少なくとも不真面目でありいい加減ということです。
「人生は『選ばれたる少数』を除けば、誰にも暗いのはわかっている。しかもまた、『選ばれたる少数』とはアホと悪人との異名なのだ」(芥川龍之介)

「魂の成長した人は、科学の教える生き方に不満足を感じていても、彼らはその不満足を取り去る方法を知らない。だから彼らは科学の教える生き方に不満足を感じながら、やはりそれに従って生きるよりほかに、仕方がないと思っている。そしてその結果、不真面目なるものは享楽主義によって一生をごまかしていこうとし、まじめなるものは厭世主義となる」(福来友吉)
バカじゃないと幸せに生きられないのが、この娑婆世界なのです。

真の幸福は死の解決だけ

欠点だらけの無常の幸福に対して、仏教で説く死の解決(悟り)が欠点のない真の幸福です。
「人間の能力では解決できない死の問題を中心とした悩みへの対応であるが、これは、我々がいくら考えても人間の能力を超えたものであり、解決は不可能である。それでは我々人間は、死の問題に対してまったくなすすべもなく手をこまねいているだけかというと、そうではない。それでは、どうするのか。答えは、我々の先人の中に死の悩みを解決された人が存在するということである。そして、その人のされたこと、説かれた教えを素直に聞き実践する。それ以外には、人間の能力では解決することのできない死の問題を解決する方法は、ないのである。一般にこのことを仏教により救われたという」(友久久雄/精神科医/京都教育大学名誉教授)

こちらの記事では「悟り」が実在する世界であり、人生の目的でもあることを科学的な知見を交えて詳しく説明しました。

「悟り」とは何か?本当に可能なのか?どうしたら開けるのか?どれほど難しいのか?

ただ生まれて一喜一憂して死ぬだけが人生ではないのです。また、「幸せは人それぞれ」とか「いろんな生き方があっていい」ではダメなのです。
欲求段階説で知られる心理学者のアブラハム・マズローは、悟りは自然に発達する生物学的な意識の状態だと主張しています。
また、神経科学者のアンドリュー・ニューバーグ(トーマス・ジェファーソン大学医学部教授)は、悟りを体験できる能力は人の意識と神経回路にしっかり組み込まれていると言います。
「最も近年の脳のスキャンの研究では、いま悟りに近い体験をしていると人が言う時には、きわめて特殊な神経学的な変化が起きることを発見した。意識的に悟りを求めている人々の脳には長期的な構造上の変化もみられる。こうしたことから、悟りへの道程は単に現実であるだけではなく、人が生物学的に悟りを求めるようにできていることを示す証拠はあるともいえる」
「通常、脳はゆっくり変わると考えられがちだ。脳が新しいスキルを修得し、すべての体験を吸収して意義あるものにするには時間がかかる。しかし、悟りの過程をみると、脳は瞬時に変わることもできるようだ」(アンドリュー)
そして、城西国際大学教授の望月清文は、言葉と五感に関する研究から、人間の心の基盤である共通感覚が誕生するまでの流れや時期を推測しました。
さらに彼は「統合力」という考えを持ち出し、種に固有の閾値を越えると種に固有の統合力は同時に一斉に進化するという仮説を立て、ダーウィンの進化論では説明できない現象(文化的爆発、不稔性etc.)も、この考え方で説明できることを示しました。
また心の進化に目を向け、進化には方向性があり、悟りが統合力の進化であると推測しています。
「修行僧が悟りに到達する瞬間、ほんのちょっとした外からの刺激によって開悟することが伝えられているが、これは、まさに新たな統合力が誕生しかけていたところへ、タイミング良く外からの刺激が与えられたのであり、それは、過氷点になっている水の中に投げられた小石によって、その水が一瞬のうちに凍ってしまう現象にも似ている。釈尊が夜明けの星を見て悟りに達したといわれているが、星の光という外からの刺激が、新たな統合力を誕生させる刺激となって働いたのである。それは、卵の殻の中で、誕生しようとしている雛鳥の声に答えて、外から親鳥が、その殻を割って上げる卒啄同時の営みそのものである。その卒啄同時によって新しい生命は誕生する。そして、ここに、新たな生命の誕生において、環境と内なる世界との切っても切れない関係があることが見えてくる」
「この瞬間(悟り)を手に入れるために、宇宙は様々な形でエネルギーを作用させ、生命を進化させ、人間を誕生させてきた」
「生命は、人間をして、自己を意識化させようと働きかけていて、その働きかけが、人間をして生きる意味を求めさせ、悟りの境地を得ることへの志向性を生み出しているのである」(望月)
福来は、「死あるが故に生活を悲しむのは正当であるけれど、それがために人生を価値なきものと呪い続けるのは、まだ思慮の到らぬ結果である」とも言い、例として「釈迦は涅槃寂静の悟道によって、人生の無常を超越することができた」と言っています。
岸根卓郎は、「絶対的幸福とは、死によってもなくならないような永遠に続く幸福のことであり、これが本当の幸福」であると言い、例として歎異抄で説く「無碍の一道(悟り)」を挙げています。
「仏教では、悟りの世界へ行けるのは人間だけであるとして、その特権を人間以外の生物には与えていないのである」
「人間こそが宇宙の最高位の存在であり、これこそが人間原理としての量子論的唯我論の意義である」(岸根)
スティーヴン・ラバージは「現実世界は夢であり、完全な目覚めと呼べる世界がある」と言いましたが、悟りは夢から覚めた世界です。

「天上天下唯我独尊」の本当の意味

長阿含経には「天上天下唯我独尊」という有名な言葉があります。釈迦は生まれてすぐに東西南北に7歩ずつ歩き、右手で天を指差しこのように言ったと伝えられています。
この話が本当かどうかは別として、本質は次の2点です。
7歩の「7」という数字は「6+1」ということですが、これは六道から1歩出る、つまり六道輪廻からの解脱を表しています。
天上天下唯我独尊とは、世間でよくいわれるような「自分だけが偉いのだ」という意味ではなく、「私しかできないたった1つの尊い使命がある」という意味で、人生には目的があるということを教えている言葉です。
つまり、すべての生物は人間に生まれることを目指し、悟りを開くことを目指して生きているということになります。

死の解決はどれほどの幸福か

死の解決は、文字通り、人間にとって最大の苦しみである死が来ても絶対に崩れない幸福であり、「どんな縁がやってこようが幸福でいられる心」です。
世間一般の幸福は、無常・相対の幸福であり、安心も満足もできない欠点だらけの不完全な幸福です。一方、死の解決は、常・絶対の幸福であり、常に安心・満足できる欠点のない完全な幸福です。
また、世間一般の幸福は不幸になる人を生みますが、死の解決は何もしなくても最高の幸福ですので他と争う必要もありません。
さらに、世間一般の幸福は有無同然であり有っても無くても苦しみですが、死の解決は有っても無くても幸せというまったく逆の意味の有無同然に変わります。
「この人は大利を得と為す、すなわちこれ無上の功徳を具足するなり」(大無量寿経)
(訳:死の解決をした人は大きな利益を得、この上ない功徳が備わるのである)

「その国の衆生は、もろもろの苦あることなし、但もろもろの楽を受く。かるがゆえに極楽と名づく」(阿弥陀経)
(訳:その国の人々は、一切の苦がなく、ただ楽だけを受けるので極楽と名づけるのである)

「永く身心の悩みを離れて楽しみを受くること常に間なし」(浄土論)
(訳:永久に心身の苦悩がなくなり、常に絶え間ない楽しみを受ける)

・大楽
世間一般でいう楽を小楽といいます。仏教では、「小」という字は崩れやすく、壊れやすい偽物を表します。
一方、死の解決で得られる楽を大楽といいます。仏教では、「大」という字は絶対に崩れない、壊れないことを表します。小楽では安心も満足もできませんが、大楽は大安心、大満足の境地です。
「諸仏は常楽なり、変易あることなきがゆえに大楽と名づく」(教行信証)
(訳:仏の楽は、常に続き変わることがないので大楽という)

・大慶喜
慶喜とは歓喜ということです。死の解決をすれば大きな歓喜が生じます。
「獲信見敬大慶喜」(正信偈)
(書き下し:信を獲て見て敬い大いに慶喜す)
(訳:死の解決をして大いに歓喜し阿弥陀仏を心から敬う)

・身の毛がよだつ
恐怖のために身の毛がよだつことは多いでしょうが、死の解決は、喜びのために身の毛がよだつ体験です。
「浄土の法門を説くを聞きて、歓喜踊躍し、身の毛いよだつ」(平等覚経)
(訳:死の解決をして、躍り上がり、身の毛がよだつような喜びを得る)

・大宇宙の宝を丸貰い
大宇宙の宝を全部獲得したような喜びです。
「帰入功徳大宝海」(正信偈)
(書き下し:功徳の大宝海に帰入す)
(訳:功徳で溢れた大きな宝の海に入る)

・どんな環境も関係ない
どんな縁がやってこようが苦しむという結果とならない境地(因)ですので、どんな環境下に置かれても関係ありません。
ある寒い冬の日に、親鸞が2人の弟子を連れて巡錫していた時のことです。
途中で猛吹雪に遭い迷ってしまい、やむなく、1つの家を見つけ、泊めてくれるよう頼みました。ところが、その家の主人である日野左衛門は僧侶を嫌っていたため、罵倒し追い払いました。
そこで一行は、門前の石を枕に、雪を褥にして眠ることにしました。凍えるような寒さの中で、親鸞は次のような歌を詠みました。
「寒くとも たもとに入れよ 西の風 弥陀の国より 吹くと思えば」
寒風も阿弥陀仏の浄土から吹く風だと思えば寒くはないではないか、という意味です。
一方、日野左衛門は、その夜、門前で金色に輝く仏が雪に埋もれているという夢をみました。あまりの鮮明さに「もしや」と思い門前に出ると、親鸞が夢で見た通りの姿で横になっていました。日野左衛門は慌てて家に入るよう願い、その場で親鸞の弟子になったといいます。

・一切に感謝できる
無常の幸福でも、手に入れれば幸せを感じ、人に感謝する心が生まれ、皆にも幸せになってほしいという心が生まれます。
過去の不幸な体験にさえ、「あの時の苦しみがあったから今の幸せがある」などと感謝できるでしょう。まして、死の解決です。一切に感謝できるようになります。
逆に、死の解決をしなければ、究極の不幸である地獄に堕ちることになるので、最期は一切を恨んで死んでいくことになります。

・身に余る
「うれしさを 昔はそでに つつみけり こよいは身にも あまりぬるかな」(御文)
救われる前は、袖に包むような小さな喜びしか感じられませんが、救われれば隠しきれないほどの身に余る喜びで溢れます。

・元取り済んで娑婆遊び
死の解決をすれば、人生の元を取ったので、後は気楽な人生となります。
これを「元取り済んで娑婆遊び」ともいわれます。

死んでから救われるのではなく、生きながら救われることを不体失往生といいますが、科学的な証拠は不体失往生が可能であることを示しています。

死の解決でしか助からない

たとえどんなに金や権力を持っていても、死の解決をしていなければ、死後は地獄です。逆に、どんなに貧乏であっても、死の解決をしていれば死後は極楽です。
「堺の日向屋は、三十万貫持ちたれども、死にたるが仏にはなり候うまじ。大和の了妙は、帷一つをもきかね候えども、此の度、仏になるべきよ」(御一代記聞書)
(訳:堺の日向屋は大金持ちだったけれども、死の解決をしていないので死んでも仏にはなっていない。大和の了妙は着物1つも無かったけれど、死の解決をしているので死んで仏になる)
「地獄の沙汰も金次第」という諺もありますが、金ではどうにもならないのです。
庄松は御頭剃という儀式を受けに、友人と本山に行った時のことです。法主が次から次へと移り、やがて庄松の前にやってきました。すると、何を思ったのか、庄松は法主の法衣の袖を引っ張りました。そして、「アニキ!覚悟はいいか!」と3回言いました。法主をまともに見たら目が潰れるといわれていた時代です。
儀式が終わると法主は庄松を呼ぶよう言いました。友人は「ああ、こんなことになるならこいつを呼ばなければよかった」と嘆きました。
「この者はバカであります。一文二文の銭さえも数えられません。どうぞお許しください」
法主は庄松に、どうして袖を引っ張ったのか聞きました。すると庄松はこう答えました。
「法主じゃからいうて地獄を逃れることはならぬで、後生の覚悟はよいかと思うて言うた」
それを聞いた法主は「敬うてくれる人はたくさんいるが、後生の意見をしてくれるものは汝一人じゃ、よく意見してくれた」と感謝したといいます。

人間は目的がわからず生きている

世界有数の生物学者、エドワード・O・ウィルソン(ハーバード大学名誉教授)は、人間のあり方に関する問いはすべて、結局のところ次の3つに行き着くと言います。
・私たちは何者なのか
・何が私たちを創り出したのか
・私たちは最終的に何になりたいのか
画家のポール・ゴーギャンは、「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」という題名の絵を書いた後に自殺を図ったといわれていますが、ほとんどの人は人生に目的があることを知りません。

絶対にしなければならない

死の解決をしなければ死後は地獄です。一度地獄に堕ちれば助かる方法はありません。ですので、死の解決は「絶対に」しなければならないものであり、「したほうがいい」とか「できたらいいな」というものではありません。
「それほど幸せでもないけど耐えられないほど苦しくもないので、このまま当たり障りなく生きていこう」と思っている人は多いですが、これはとんでもない間違いです。
人生に目的があるとかないとかいう問題ではなく、死の解決をして絶対に地獄を避けなければならないという問題です。どんなに苦しくても、どんなに年を取っても、ずってでも這ってでも求めてゴールする必要があります。どんなに真面目な求道者でも、ゴールしなければ意味がありません。
死の解決をして極楽に行く100点の人生となるか、死の解決をせず無間地獄に堕ちる0点の人生となるか、人生は2択です。
・急いでしなければならない
人間は死と隣り合わせであり、今日死んでもおかしくありません。今日死ねば、今日から地獄が始まるのです。今、幸せの絶頂にいようが、不幸のどん底にいようが関係ありません。ですので、一刻も早く死を解決する必要があります。
「ああ、夢幻にして真にあらず、寿夭保ちがたし、呼吸のあひだ、すなわちこれ来生なり。一たび人身を失ひぬれば、万劫にも復せず。この時悟らざれば、仏、衆生をいかがしたまはん。願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔を貽すことなかれ」(教行信証)
(訳:ああ、この世は夢、幻であって真実ではない。命は保ち難く、吐いた息が吸えなければ死んでしまう。一度死んでしまえば、地獄に堕ち、永遠に抜け出すことはできない。生きているうちに死の解決をしなければ、仏でもどうしようもできない。どうか深く無常を問い詰めて、いたずらに後悔しないでほしい)

「一日も片時も、いそぎて信心決定して、今度の往生極楽を一定せよ」(御文)
(訳:一刻も早く急いで死の解決をし、極楽浄土への往生を決定せよ)
信心決定とは「しんじんけつじょう」と読み、死の解決のことです(詳しくは第6巻)。

「人生死出離の大事なれば、これより急ぐべきはなく、またこれより重きはあらざるべし」(御裁断申明書)
(訳:死の解決ほどの一大事より急ぐべきことはなく、これほど重いことはない)

・必ず後悔する
死の解決ができなければ、血の涙を流して後悔することになります。
「明日も知らぬ命にてこそ候うに、何事を申すも命終わり候わば、いたずらごとにてあるべく候う。命のうちに、不審もとくとくはれられ候わでは、定めて後悔のみにて候わんずるぞ。御心得あるべく候う」(御文)
(訳:明日もわからない無常の命であり、何をしようとも死ねば意味がない。生きている間に死の解決をしなければ、必ず後悔することになる。よくよく心得なければならない)

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