死後の世界を肯定する人たちの主張

まずは、死後を肯定する人たちの主張から見ていきましょう。
国の統計によれば死後を信じる人は年々増えているようですが、なぜ彼らは肯定するに至ったのか、その根拠をまとめると、大きく「体験面」「論理面」「科学面」の3つに分類できるでしょう。
〇体験
「百聞は一見に如かず」といった諺もあるように、体験というのは強い力があり、体験していない人にはわからない世界があります。ですので、死後についても何らかの体験を経て肯定するようになったというのはあり得ることでしょう。
たとえば、「人は死んだら無に帰する」などと言って頑なに死後を否定していた人が、臨終(死の直前)になって肯定に変わるという話もあります。
ドイツの哲学者、ショーペンハウエルはその1人です。
彼が臨終を迎えた時のことです。一言、「死んだらどこへ行くのだろう」と漏らしました。それを聞いた医者はハウエルの哲学を知っていただけに非常に驚き、「先生の哲学に死後があるのですか」と聞いたところ、ハウエルは真剣な顔になって、「今となっては死後を認めざるを得ない。もし命が助かったら、私の哲学はよほど変わるだろう」と言ったといいます。
また、死なずに死後の世界を見てきたと主張する人もいます。
18世紀当時、ヨーロッパ有数の自然科学者であったイマヌエル・スエデンボルグは、生きながら霊界を見て、その内容を書き残したといわれており、たとえば次のようなことを語っています。
「人間は死後、地上の肉体を除いて、意識・記憶を含む自分の個性のすべてを保持して生が存続する」
「霊界では、距離やスピードという観念は存在しない。人の意識は瞬時に伝わり、行きたい場所を意識するだけで瞬時に移動できる」
・肯定者の多くは体験者
死後の存在に限らず、体験があると主張する人間は強い自信をもっているものです。
たとえば、旧通産省電子技術総合研究所主任研究官だった猪股修二は、自身のスプーン曲げの体験を通して次のように語っています。
「科学者として、超常現象や超能力をいっさい信じていなかった私が、180度の転換を余儀なくされたのは、自らが超常現象を体験したからに他ならないのだ」
「人間とは不思議なものである。実際に自分で体験してみると、それまで起こり得るはずがないと頑固に信じこんでいたのに、180度変わってしまう。だから、いくらマスコミが『インチキだ』と攻撃しようと、批判しようとも、実際に起ったことは事実なのだから、逆に、彼らは何と狭い考え方しかもてないのだろうか、と思えてくる」
これから見ていくように超心理と呼ばれるものの信じ方は千差万別ですが、現代では科学的に決定的な証拠が出ていないため、超心理を強く肯定する人のほとんどは体験者です。一例を挙げましょう。
精神科医のレイモンド・ムーディーは臨死体験という概念を初めて提唱したといわれる人ですが、彼は「死後の存在が証明された」とは断定していませんでした。
臨死体験談を集めた著書「ライフ・アフター・ライフ」がベストセラーとなってもその姿勢は変わらず、そのため、親交があった精神科医のエリザベス・キューブラー=ロスを「いつも失望させていた」といいます。ロスは、臨死体験研究のパイオニア的な存在として知られており、死後の存在は証明されたと思っていました。
それほど臨死体験に対して懐疑的であったレイモンドでしたが、自身が臨死体験をすることで初めて確信しています。
「私はかつて臨死体験を定義し、名づけ、他人の証言によって分析し研究してきたが、今や自分自身もそれを1つ体験したのである。臨死体験は本当だった!」(レイモンド)

また、身近な例で恐縮ですが、私の母も似たような流れを辿っています。
私は母に20年近く死後に関する様々な話をしていたのですが、ずっと母は「死後はあるんだろうか」という懐疑的なスタンスでした。ところが、大病を患って全身麻酔を要する手術をすることになり、その時に臨死体験をしたそうで、それから「死後はあると思う」と肯定的なスタンスに変わりました。
「『私』のまま別の世界へ行った」とも言っていました。
そして、多くの臨死体験者がそうであるように、その後、超心理的な話をすることが多くなりました。
20年もの私の言葉は1回の体験に及ばなかったようです。

・言動が一致しない否定者がいる
また、霊や魂といったものを否定している人でも、その信念に反するように思える言動をしていることが多々あります。
たとえば、大切な人が死んだ時に遺体をゴミ箱に捨てず、葬式や墓参りといった死者を供養する儀式をするのはなぜでしょうか。そして、泣きながら「ご冥福(死後の幸福)をお祈りいたします」などと弔辞を読み上げたり黙祷を捧げたりするのはなぜでしょうか。また、唯物論を教える医学部で慰霊祭が行われるのはなぜでしょうか。
このように、矛盾した言動は日常の様々な場面で見ることができます。
ゴミ箱に捨てると「悪い」という感情が働くからであり、死体を単なる物質以上の何かであると思っていることは間違いないでしょう。
このように言うと、「そういった行為は社交辞令で行っているだけだ」と主張してくる人がいますが、それは故人があまり大切な人ではない場合でしょう。家族など大切な人が死んでも、そのように済ませられるでしょうか。
こういう感情が強くでるのは、体験時など限られた場合であり自分の信念に反する感情なので、自覚がなかったり時間とともに変わったりするという可能性もあるでしょう。
言動が矛盾しているのは明らかですが、問題はどういう心でこんなことを言っているのかということです。このあたりの感情について、次のような分析をする人は少なくありません。
「遺体というのは不思議なものです。遺体は遺体でしかなく、単なる『モノ』でしかないわけであり、したがって執着するような対象ではないということを頭では理解していても、愛する者にとっては抜きがたい愛着を感じずにはいられないというのが、偽らざる本心です。おそらく、遺体への配慮は理屈ではなく、情として自然に出てくるものなのでしょう」
「『ご冥福をお祈りします』という言葉をわたしたちは知らないうちに使っています。『見えない世界なんて理解できない』と口にされる方でも『ご冥福を』と言われますから、ほとんどの日本人は知らず知らずのうちに死後の世界を肯定しています。日本人は、無意識のうちに『あの世』の存在を認めているわけです」
「霊の世界とか魂とか、そういう世界をなるべく見ないでおこうとする現在の日本人の生活は、とてもいびつな形態です。そういうものは信じないとしている人でも、時には神頼みをするし、初詣に出かけます。特定宗教に属していなくても、自然に手を合わせます。本当は信じている証拠です」
(矢作直樹/東京大学医学部教授)
果たして無意識に死後生を信じているのか、そうではないのか難しい問題もあるでしょう。

・体験論の難しさ
こういった体験談を聞いて、たとえば次のように観察し推論する人は少数派です。
「世の中をリードしてきた知識人の中に、スエデンボルグの著書に共鳴する人たちが多くいるということは、スエデンボルグの語る世界が、単に神秘主義という言葉によって一掃されてしまうものではなく、一人ひとりの心の中に秘められた生命の世界を正しく表現したものであることを物語っているからなのではないだろうか」(望月清文/城西国際大学教授)

しかし、体験論というものは内的な根拠です。体験した本人を信じさせる強い力がありますが、体験がない人を説得できるかというと難しい問題もあるでしょう。
このあたりの分野は大きく、体験がある少数の肯定派と、体験がない多数の否定派という構図があり、両者のギャップは埋め難く、わかり合えないという状況が続いていたといえるでしょう。

〇論理
たとえば次のような理屈は古くからいわれています。
「世の中はいつも不公平です。頭がいい人、お金持ちの家に生まれた人、運動神経が抜群な人など、個人レベルで見ると格差があります。努力しなくても幸せになる人、いくらがんばっても幸せになれない人、これらは現世だけでは説明できません」
(村上和雄/筑波大学名誉教授)
つまり、現在世だけでは説明できない現象があるから死後世もあるだろうという論理です。
これは「殺人」を例にするともっとわかりやすいかもしれません。
1人殺したために死刑になった罪人がいたとします。死刑の回数は、当然1回だけです。
また、100人殺して死刑になった罪人がいたとします。その場合も死刑の回数は、当然1回だけです。
どれだけ多くの人を殺そうが、死刑の回数は1回で変わらないというのは理屈に合わないでしょう。国によっては終身刑何十回とか、懲役何千年と言い渡されますが、理屈から言えばこうなるはずです。
しかし、「現在世だけで説明できない現象」が死後存在の強い証拠になるかというと難しい問題もあるのではないでしょうか。
ちなみに、「そうは言っても1回しか死刑にできないのだから仕方ない」という人がいますが、「仕方ない」で済ませてしまうのは問題の放棄というものです。

〇科学
最近では科学的に死後の存在を明らかにしようとする人も増えてきました。

超心理学

主に超心理学と呼ばれる分野で、日本では、東京帝国大学(現在の東京大学)の助教授だった福来友吉という人がパイオニア的な存在です。生まれ変わり研究や臨死体験研究など、内容は多岐にわたります。

哲学

・ベルグソン

哲学者のベルグソンは著書「物質と記憶」の中で次のように述べています。

A.脳は記憶の貯蔵器にあらずして、記憶を呼び出す機関にすぎない。
B.喚想は不完全でも、記憶そのものは完全である。

これは、福来の記憶説の3.4と一致します。
そして、ベルグソンは「肉体の滅びた後に魂が生き残ることを私たちは自然だと思うようになる」と言います。

脳科学

・ワイルダーペンフィールド

脳の機能地図を作り上げたことで知られる脳外科の世界的権威、ワイルダー・ペンフィールドは「精神とは脳の活動が生み出すものでしかない」という唯物論の命題を証明しようとしましたが、意に反して次のような結論に至っています。
「私は研究者としての生涯を通じて、他の科学者と同じように、心は脳の働きで説明できることを、何とかして証明しようと試みてきた」
「長年にわたって努めた後で、人間は2つの基本的な要素から成るという説明を受け入れるほうが、素直ではるかに理解しやすいと考えるに至った」
「脳の神経作用によって心を説明するのは、絶対に不可能だと私には思える」
「心は、それ自体、基本的な要素と呼ぶべきものである。霊とか魂とか呼び方はいろいろあろうが、要するに実体のある存在なのだ」

量子論

本流科学からのアプローチで超心理を結びつけるものが見つかるかもしれません。
とりわけ期待されるのは、やはり量子論ではないでしょうか。
「大地が足もとから崩れ落ちていき、依って立つ基盤がどこにも見当たらないような気持におちいった」(アインシュタイン)

「自然というものは、それほど不条理な性質を持つものなのだろうか」(ハイゼンベルク)

「量子理論に初めて接した人で衝撃を受けなかった者は、おそらくこの理論を理解し得なかったに違いない」
(ニールス・ボーア)

「もしあなたが量子力学を理解していると思うなら、あなたは量子力学を理解していないのだ」(リチャード・ファインマン)

量子論は原子や素粒子といったミクロな世界の物理現象を扱う分野ですが、量子の不思議な振る舞いを知れば誰でもこういうリアクションになるでしょう。
「『量子』には『不気味』という言葉がどうしてもつきまとう。同時に二か所に存在したり、障壁の向こう側にテレポートしたり、並行世界を訪れたりといった不気味な出来事は、もし日常生活で起こったら完全に奇々怪々だろう。しかし、原子や分子というミクロの世界ではつねに起こっている。これほどたくさんの量子の魔法が用意されているのであれば、生命はそれを利用しているとも考えられるだろう。そして確かに利用しているのだ!いくつもの重要な生物学的プロセスに、不気味な量子の持つ何らかの側面が使われているかもしれないことをうかがわせる証拠が、ここ数年で増えてきている。そして、量子の魔法が生命全般に行き渡っているかもしれないという、思わせぶりな手掛かりも得られている」
(ポール・デイヴィス/アリゾナ州立大学教授)
マリオ・ボーリガードは「量子論は、唯物論の世界観に強烈な一撃を食らわせ、その器を粉砕して無限の可能性の世界を開拓する」と表現しました。
粒子であり波動でもある二重性、片方の粒子が変化すると遠く離れた(たとえ宇宙の果てでも)他方も瞬時に変化し、アインシュタインが不気味な遠隔作用と呼んだ「量子もつれ」など、超心理現象と量子の性質とで様々な類似点があります。
そのため、超心理を論じる人はまず量子論にも触れます。
「量子論は可能性の地雷原である。超常現象は今のところ科学の本流に受け入れられていないが、量子が伝統科学の学者たちの、そんな現象は信じる信じないの”らち外”だというかたくなな態度を吹き飛ばしてくれたこともあって、将来に可能性を残している」(ジェフリー・アイバーソン)

「量子論の世界では、ある人が量子を観測しようとすると、その行為が観測対象に影響を及ぼすという現象が知られています。量子力学には初めから『人々の意識が物質世界に影響を及ぼしているかもしれない』という考え方があるのです。その意味で、超常現象は量子論と親和性があると言えます」
(ブライアン・ジョセフソン/ケンブリッジ大学名誉教授)

「『気』の性質と素粒子の性質を比較すると、多くの類似点がある。たとえば、『念写は距離や時間の枠組みを超えて出現するが、その効果は減衰しない』、『透視・念写は遠距離でも可能であり、時間の枠組みには拘束されない』は、素粒子の『二面性』と『非局所性』で説明される。(中略)また、『再現性に欠ける点がある』は素粒子も『気』も同一である」(佐々木茂美)
説明してきたように、現代科学は心は脳の産物だと考え、脳を調べれば心もすべてわかると信じて疑いません。しかし、いまだに単細胞生物1つつくれない現状をみると、従来のアプローチに問題があるのではないでしょうか。
「私は今、自分の肩書きの分子生物学から分子をとって、さらに分解ではなく統合の方向で考えたいと思っています。遺伝子と遺伝子、あるいは要素と要素をむすびつけている力のあり方については、暫定的な見通しではあるけれど、量子論的な同時性みたいな方向でしか解けないんじゃないかな、と今は考えています」(福岡伸一/生物学者/青山学院大学教授)

「通常の量子論の範囲を広げた『弱い量子論』が、ワラチらにより提案されています。量子論の枠組みを、大きくしようという試みです。弱い量子論の特徴は、次のようになります。
①相補性:硬貨は2つの側面があって初めて存在できます。同様に、ものごとには2つの側面がありお互いに補うことで、本当の姿を述べることができるという考えです。
②全体的なエンタングルメント:量子がお互いにつながりあいをもっています。
③プランク定数hのような値はない:量子の最小単位がはっきりしなくなります。この弱い量子論の特徴は、生命の特徴に似ているところがあり、生命現象を説明することに使える可能性があります」(奥健夫/滋賀県立大学工学部教授)

不確定性原理の提唱者であるハイゼンベルクが言うように、「目に見えない生命力のような存在を否定できない段階に至っている」のでしょう。
量子生物学の発展を見ると、人間にはもっと未知の能力があることがわかります。
「欧州のコマドリでも、外部の地磁気の量子と自分の目の細胞の量子とが絡み合いをして、方向性が定まることが量子生物学でわかっている。それがあるぐらいなら、外部の量子と自分の身体の中の量子が、さまざまに絡み合いをしているだろうと、容易に推測できる。量子に付随する情報に、人間が超意識下でアクセスしているらしいことは、さまざまなスピリチュアルの記録があるので、実際にそれが起きているのであろう」
(久慈直登/日本知的財産協会専務理事)

乱数発生器を使った実験などから、意識と量子のつながりを示す証拠はそろってきた段階といえるかもしれません。
「意識の集中と、量子で働いている乱数発生器の異常との間に、偶然とは言い切れないような、かなりはっきりした相関関係が観察されているのは事実である。意識と量子のつながりを示す状況証拠はかなりそろってきた段階だといえるかもしれない」
(「NHKスペシャル 超常現象 科学者たちの挑戦」より)
(乱数発生器は電子的なコイン投げ器で、純粋にランダムなコイン投げを1秒間に数千回もの速度で行える。コイン投げの表と裏のかわりに、乱数発生器は0と1のランダムなビットを生成する。念じた方向に乱数が偏る結果が得られており、たとえばプリンストン大学の心理学者ロジャー・ネルソンとディーン・ラディンによる乱数発生器実験のメタ分析によれば、515の実験で偶然比10の50乗分の1と算出されている)

ディーン・ラディンによれば、250人の被験者に2本のスリットの片方だけに念ずるという実験を行ったところ、ほぼ全員が、壁に偏ったスリットの映像を映すことができたといいます。
量子論で超心理現象を説明しようとすると次のようになるのかもしれません。
「予知やテレパシーなどの超常現象もまた、不可視な世界の宇宙の意思と可視の世界の人間の意思が、電子の波動の世界を介して引き起こす共時的現象であるから、科学的にも何ら不思議ではない」
「祈りには電子の波動(エネルギー)が大きく関与しており、祈りがその電子の波動を介して電子の粒子(物性)に作用すると、それが電子の粒子(物性)に変化を生じさせ(量子効果)、物性の創生や消滅に関与することになるから、そこに願望の事象が生まれ(波束の収縮)、それによって祈りは実現する」
(岸根卓郎/京都大学名誉教授)
量子論の世界的権威で、32歳の若さでノーベル物理学賞を受賞したブライアン・ジョセフソンは、ノーベル賞創設100周年を記念して英国郵政公社が発行した記念切手セットに添付された小冊子で次のように語っています。
「量子理論は、今や、情報理論や計算理論と結びついてきており、このような発達によって、伝統的な科学の枠内では未だ理解されていない、たとえばテレパシーのようなものの働きがいずれ説明できるようになるかもしれない」
そして、「テレパシーや、心と物質の相互作用(念力)のような現象が、やがて科学に受け入れられ、事実と認められる日が来ると思う」と結んでいます。

仏教

仏教は死後は実在すると説き「死後は必ず地獄」と説きます。
死後相続する魂(阿頼耶識)を説き、三世を貫く因果の法則を説き、殺生罪などの無数の罪悪を説くのなら、これらから導かれる結論は「死後は必ず地獄」ということになります。
浄土真宗本願寺派祐光寺の住職・野々村智剣は次のように語っています。
「仏教の原理にしたがう限り、いま現在、あなたの来世は、すでに決まっている。地獄行きの自覚すらないあなたなら、確実に地獄におちる。その理由は、ほかでもない。あなたは日常に、地獄行きの罪を重ねつつあるからである。仏教の道理は因果応報である。悪いタネを播けば、悪い実がなる」
「今、私たちが人間として生きていくための必要最低条件を満たすだけでも、確実に地獄行きのタネをまいているのである。だから、自分は特別に強欲ではないし、ことさら人を泣かせたり苦しめたことはないから、地獄のようなおぞましい世界とは無縁だというような考えは、いかに甘かったか、おわかりいただけたと思う」
「今、『罪』を重ね続けているわれわれが死後、おちる地獄の諸相である。まかり間違っても、他人事として読まないでいただきたい。ここでいう『他人』とは、あなた以外のすべての人間を指す。だから、生きている人なら、あの人はこんな地獄におちるだろう、だとか、亡くなった人なら、こんな地獄におちているのでは、などといった誤った拡大解釈をしないでいただきたい。そういう、おかど違いの論法にすり替えないでもらいたい。あくまでも、『かならず死ぬ』あなた1人の問題なのである」
「われわれがこの世で生きているかぎり、『経』の説く地獄に行くべき『罪』を重ねつつあるというぬき難い現実である」
(野々村智剣著「誰も書きたがらなかった死後の世界『地獄』」より)

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