善知識に出遇えないと大変なことになる

知識とは、仏教用語で「仏教の先生」という意味です。知識には善悪があり、善知識と悪知識がいます。
善知識とは、仏教の正しい先生という意味で、死の解決の体験と教学、開顕力がある人をいいます。狭い意味では釈迦を指し、広い意味では釈迦の教えを間違いなく伝える人を指します。善知識の親分が釈迦です。
初心者の人などで、善知識という言葉に違和感を覚える人がいます。この違和感は、他の多くの仏教用語と同様に偏見から来るもので、善知識と聞いて善知識ではない人を想像しているからですが、その場合、善知識という言葉を「釈迦」に置き換えてみるとわかりやすいかと思います。

善知識の種類

善知識といっても様々なタイプがいます。
〇大きく3種類
善知識と呼ばれる人は、大きく3種類に分けられます。
・教授の善知識
「教授」という言葉は現代でも使われますが、元々は仏教の言葉です。教授の善知識とは死の解決の体験に加え、教学と開顕力を兼ね備えた人のことです。善知識といった場合、通常は教授の善知識を指します。教授の善知識はたくさんの人を導く力を持っていますが、仏教の歴史を見ても数えるほどしかいません。

・同行の善知識
同行とは、「極楽に行くために同じ行をしている人」を意味します。死の解決の体験はありますが、教学や開顕力があまりない人のことです。そのため同行の善知識は、教授の善知識のようにたくさんの人を導く力はありません。教授の善知識は、世界中、日本中といった規模の人を導くことができますが、同行の善知識は村単位しか導くことができないという具合です。教授の善知識と違い、同行の善知識は数多くいます。

・外護の善知識
仏教を外側から護る人を、外護の善知識といいます。
たとえば、仏教を広めようとする人や団体に財政的な援助をしたり、様々な危険から護ったりします。死の解決の体験も教学も開顕力もない人でも、このような役割を果たしていれば外護の善知識と呼ぶことが多いです。外護の善知識も数多くいます。

〇レベルは様々
以上は大まかな分類で、実際にはもっとレベルは様々です。世間でも「先生」と呼ばれる人にレベルがあることと同様です。たとえば、教授の善知識の中でもレベルがあります。普通の教授の善知識が何万年に1人という割合に対して、特に優れた教授の善知識は何兆年に1人といった具合です。

〇仏縁を与えるすべての人
かなり広い意味ですが、仏教を聞くきっかけを与えてくれた人も善知識と呼ぶこともあります。たとえば、病人を見ることによって無常を観じ、仏教を聞くきっかけとなれば、その病人が善知識になるという具合です。
「自ら法を説きて聞かする人ならねども、法を聞かする縁となる人をも善知識と名づく」(浄土真要鈔)
(訳:自身が正しい仏法を説く人間ではなくとも、仏法を聞かせる縁となる人も善知識と名づけるのである)

〇生きた善知識
善知識には、今現在生きている「生きた善知識」と、すでに死んでいる「死んだ善知識」がいます。たとえば、釈迦はすでに死んでいるので、死んだ善知識です。
・善知識に遇うということ
通常、「善知識に遇う」といった場合、生きた善知識に遇うことを指しますが、死んだ善知識が残した著作物等を通して正しい仏教に遇うことができれば、その場合も「善知識に遇う」といいます。

善知識の仕事

善知識にはどんな役割があるのか、いくつか例を挙げます。
〇死の解決へ最短で導く
求道者を、まっすぐに最短で死の解決へ導く役割です。
「人心をして歓喜信楽せしむる、是を善知識と為す」(大品般若経)
(訳:人々を死の解決に導く、これを善知識というのである)
・求道を後ろから押す
阿弥陀仏は求道を前から引っ張ってくれますが(招喚)、善知識は後ろから押す役割があります(発遣という)。求道する人には大きくこの2つの力が働いているため、求道を前に進めることができます。

・1人導いたら役目が終わる
求道のゴールである死の解決まで導くというのは、非常に難しいことです。1人の人間を死の解決まで導くことができれば、その善知識の役割は終わったともいわれます。

・己証
釈迦の真意を、従来の伝統仏教よりわかりやすく、求めやすくすることを己証といいます。
過去の善知識方の己証のおかげで、求道を最短ルートで進むことができます。仏教は進化しているともいえます。現代の求道者は巨人の肩に乗れることに感謝すべきです。
私の著書でも、現時点での最善の方法を書いているつもりですが、これから科学の進歩等によって、もっと求めやすい方法論も開発されるかもしれません。あるいは、人間のやることなので逆に廃れるかもしれません。

〇阿弥陀仏一仏を勧める
人間の唯一の救い主である阿弥陀仏一仏に向かうよう勧めるという役割です。
「善知識の能というは、『一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし』と、人を勧むべきばかりなり」(御文)
(訳:善知識の役割は、「一心一向に阿弥陀仏に帰命せよ」と、人に勧めるだけである)
・善知識は仲介人
善知識は、阿弥陀仏と人間とをマッチングする仲介人です。
たとえば、南無阿弥陀仏という薬はあっても、人間にはその薬の存在も飲み方もわかりません。助けたいと願う阿弥陀仏と、助かりたいと願う人間がどうして結びつかないのかというと、間に入って説明する仲介人がいないためで、その役割を善知識が担っているということです。
江戸時代に、お七という八百屋の娘がいました。
ある日、家の近くで火事があり、お七は寺へ避難しました。寺には吉三郎という小姓がおり、やがて2人は恋仲になります。しばらくして寺を離れ吉三郎とも離れなければなりませんでした。しかし、どうしても会いたい思いが捨てられなかったお七は、こう考えました。
(もう一度火事になれば吉三郎さんに会える・・・)
思いつめた末に、お七は火を放ってしまい、町は大火事となりました。
しばらくして、お七は捕えられます。当時、放火は火あぶりの刑でした。しかし、お七の心情を知った奉行は、火あぶりの刑はあまりに惨いと思い、何とか助けられないかと思いました。一方、お七も何とかして助かりたいと思っていました。しかし、私的な感情で法律を変えることはできません。そこで、奉行は次のように言いました。
「お七、本当はお前は放火なんてしていないだろう?」
お七が「はい」と言いさえすれば、それで済まそうと奉行は思っていました。
しかし、お七は正直に言えば助かると思っていました。そのため、「いいえ、私がやりました」と言ってしまいました。思惑が外れた奉行は、次にこう言いました。
「お七、本当はお前は14歳だろう?」
当時の法律では、14歳以下は火あぶりの刑を免れることができたため、奉行はこう言ったのでした。しかし、お七は、またしても「いいえ、私は15歳です」と正直に言ってしまいました。
なす術がなくなり、とうとうお七は処刑されてしまいました。この一件を知った人々は、こう歌を詠みました。
「恋で身を焼く 八百屋のお七 飛んで火にいる 夏の虫」
助けたい奉行と助かりたいお七でしたが、どうして助からなかったかというと、奉行の思いをお七に伝える人がいなかったからです。
これと同じことが阿弥陀仏と人間との間で起こっています。人間は自分勝手に解釈しようとしますが、助けたい側の意図を汲み取ることが重要なのです。また、自然法則というのは、ありのままに観察すべきで、人間の都合が入る余地はありません。

〇救い主ではない
あくまで、死の解決に救い取る力があるのは阿弥陀仏一仏だけであって善知識ではありません。
・善知識だのみの異安心
この点を忘れ、善知識が救ってくれると勘違いしている人を、「善知識だのみの異安心」ともいいます。
「帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、大きなるあやまりなり」(御文)
(訳:信ずべき阿弥陀仏を捨て、善知識を救い主だと思うのは、大きな間違いである)

・善知識がいなくなっても求める
ですので、たとえ生きた善知識が死んだり、いなくなったとしても絶望する必要はありません。
釈迦は涅槃に入る直前、「これからどうしたらいいのでしょうか」と嘆き悲しむ弟子に向かって、法を灯とするよう説きました。法を灯とすることで、自らを灯とすることができます。これを自灯明・法灯明の教えといいます。

〇全知全能ではない
善知識を全知全能ぐらいに思っている人がいます。そこまでいかなくとも、それに近い存在を想像している人は少なくありません。しかし善知識は、死の解決に導く専門家であって、何でも知っているというわけではありません。世間で先生とか専門家と呼ばれるような人も、特定の分野の先生や専門家なのであって、何でも知っているというわけではないのと同様です。
また、釈迦でさえ、この世では人間の形をとっている以上、煩悩がある不完全な存在です。初めは善知識と尊敬していたものの、不完全な面を見て幻滅してしまうという人もいます。
そういう人は庄松を知るといいでしょう。
庄松は世間的には愚鈍な人です。字の縦横も知らず逆さまに聖教を読んだり、8までしか数えられないため八文と言われて周りからはバカにされていました。8までしか数えられない人は、そういないはずです。
しかし、庄松は妙好人と評される人の中でも筆頭に挙げられるような人です。鈴木大拙という仏教学者が庄松のことを英訳して海外にも広めたので、世界的にも知られています。
「仏法は知りそうもなき人が知る」といわれますが、庄松はまさにそのような人です。僧侶や大学教授といった立派な肩書がある人が仏教を知っていそうに思えるかもしれませんが、そうではありません。何の肩書もない庶民がよく知っていたりします。善知識が善知識である所以は、世間的な知識や能力とは異なり、もっと別なところにあるのです。

善知識の必要性

世間事でさえ良き指導者なしに大きな成功を収めることは難しいものです。
「『一万時間の法則』の生みの親であるアンダース・エリクソンは、何らかの分野の第一人者になるには、方法は1つしかないと言う。それは、良き指導者につくことだ。
このことは、教育学者のベンジャミン・ブルームが行った、世界的に成功したアスリート、科学者、芸術家を対象にした調査結果でも裏づけられている。これらの個人はほぼ例外なく、国際的レベルに達することを目的として、師の下で研鑽を積んだという。
世界で最もクリエイティブな91人にインタビューした心理学者のチクセントミハイは、これら超一流の人々の共通点を見出した。ほぼすべての人が大学時代までに、彼らにとって重要な役割を果たす指導者についていることだった」(エリック・バーカー著「残酷すぎる成功法則」より)
まして死の解決です。第1巻から説明してきたように、そこに至る方法は人間がいくら考えてもわかるものではありません。
〇善知識なしに死の解決はできない
その方法を教えてくれる方が善知識なので、善知識の存在は人間にとって必要不可欠です。
・善知識は全因縁
全因縁と半因縁という言葉があります。
全因縁とは、赤ん坊が親によって育てられるようなもので、すべて親の力で大きくなるため赤ん坊にとって親は全因縁となります。
半因縁とは、労働者が雇い主のおかげで生活させてもらうようなもので、生活できるのは雇い主のおかげですが、半分は自分の力で働いて生活しているため、労働者にとって雇い主は半因縁となります。
善知識は全因縁です。ですので、善知識は父母のような存在です。
「善知識は、是れ汝が父母なり、汝らの菩提心を養育するが故なり」(安楽集)
また、善知識は、何が善で何が悪なのかを教えてくれる、いわば眼のような存在です。
「善知識は、是れ汝が眼目なり、よく一切の善悪の道を見るが故なり」(安楽集)
そして、善知識は、人生という苦しみの海から救い出す船のような存在です。
「善知識は、是れ汝が大船なり、汝らを運度して生死の海を出だすが故なり」(安楽集)

・善知識まかせ
善知識は、宿善に匹敵するぐらい重要な存在であり、求道は善知識まかせといっても過言ではありません。
「仏法を聞きて生死を離るべき源は、ただ善知識なり」(浄土真要鈔)
(訳:仏法を聞いて苦悩の根本解決をする源は、ただ善知識だけである)

「宿善開発して善知識に遇わずは、往生は叶うべからざるなり」(御文)
(訳:宿善開発して善知識に遇えなければ、往生は叶わない)

「曠劫多生のあいだにも 出離の強縁しらざりき 本師源空いまさずは このたびむなしくすぎなまし」(高僧和讃)
(訳:極めて遠い昔から何度も生死を繰り返してきた間にも、死の解決という道を知らなかった。善知識と遇えてなければ、今生も死の解決ができずむなしく過ぎていただろう)

今日、偉大な善知識と評されるほどの天才にも必ず先生がいます。それだけ、善知識なしには求められないということです。

〇生きた善知識の重要性
死んだ善知識よりも生きた善知識のほうが重要です。
死んだ善知識が書き残したものから学ぶこともできますが、それは難しいことです。
たとえば、経典でいえば、2500年以上前のサンスクリット語で書かれています。1文字を正しく解釈するだけでも難しい作業ですが、それが何千巻もの膨大な量があります。
また、たとえ理解できたとしても、今の自分に何が不足しているのかまでは教えてくれません。
科学が発展し、たとえば人工知能なども手段として期待できるでしょうが、近づくことはできても人間の代わりというのはやはり難しいようです。
「レイ・カーツワイルというgoogleにいる研究者が・・・・おじいちゃんですけどね、いずれ人工知能が人間を超える、その時点をシンギュラリティと言っています。僕はそうは思いません。彼は人間のこと、特に人間の怪しい能力がわかっていない。いまでも、たとえば将棋とか碁では人工知能のほうが強い。一部の能力は人間をはるかに超えています。ところが、人間固有の無意識レベルの働きとか、直感とか、透視能力とか、遠隔治療とかの能力はフォン・ノイマン型といわれる、いまのコンピュータでは手も足も出ない」(天外伺朗/元ソニー上席常務/ペットロボットAIBO開発責任者)

こういった理由から、生きた善知識に近づくことが大切です。

〇無意識に求めている
マッチングしないだけで、意識するとしないとにかかわらず、すべての人は真実の幸福を求め、その幸福を教えている真実の仏法を求めています。つまり、人間は、意識するとしないとにかかわらず、善知識を求めているということです。
・善知識に遇えないとどうなるか
善知識に遇えない場合、死の解決ができません。死の解決ができないということは、つまり地獄に堕ちるということです。
「善知識にあいたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄に堕つべし」(執持鈔)
(訳:善知識に遇わなかったならば、すべての人間は必ず地獄に堕ちる)

・臨終に必ず善知識を願う
人間は無意識に善知識を願っていますが、特に臨終は、「死にたくない」「助かる方法があるなら知りたい」と藁をも掴む思いになり、強く願うようになります。
「一たび地獄に入りて長苦を受くるとき はじめて人中の善知識を憶す」(般舟讃)
(訳:一度、地獄に入って長い苦悩を受ける時に、初めて人間界の善知識を憶い後悔する)

善知識に遇う難しさ

これほど重要な善知識ですが、善知識は「雨夜の星」で、遇うことが非常に難しいのです。山口善太郎は、「真の知識にあいたやと 聞かば千里のその外の 海山越えても厭わじと 狂い廻れる甲斐もなく」と言いました。
経には、優曇華(三千年に1度咲く伝説上の華)のように稀有なことであると説かれています。また、ヒマラヤ山の頂上から糸を垂らして、ふもとの針の穴に通すよりも難しいことであるとも説かれています。
「真の知識にあうことは かたきがなかになおかたし」
(訳:善知識に遇うことは、難の中の難である)(高僧和讃)

正信偈に「善導独明仏正意」という一文があります。これは「善導独り、仏の正意を明かにす」と読み、「善導ただ独りが、正しい仏教を知っていた」という意味です。
善導とは、今から1300年前の中国は唐の時代の仏教者です。
当時の唐は仏教が盛んで、寺の数は4万箇寺以上、僧侶の数は30万人以上もいたといいます。その中において、善導だけが正しい仏教に明らかだった、裏を返せば、善導以外のすべての僧侶は正しい仏教を知らなかった、と言うのです。
「これだけいるのだから、1人しかいないなんて信じられない」と思うかもしれませんが、これは少しも誇張ではありません。現代にも「仏教の先生」と呼ばれる人は多くいます。しかし、彼らが正しい仏教に明らかであるかというとまったく違う実態があります。死の解決という体験がないのはもちろんのこと、正しい仏教者と呼ぶには程遠いのです。
ほとんどの人は善知識に遇えずに一生を終えます。つまり、ほとんどの人は死の解決ができず、死後が地獄だということです。
〇善知識に遇うチャンス
遇い難い善知識に遇うことができれば、千載一遇のチャンスであり、これほど有り難いことはありません。
・最高の幸せ
善知識に遇うことは、人間にとって最上の幸せです。
「諸の愚者に親近せずして、諸の賢者に親近し、また供奉すべき者に供奉す、これ最上の吉祥なり」(大吉祥経)
(訳:一切の悪知識に近づかず、仕うるに値する善知識に近づき仕えることが、人間にとって最上の幸せである)
もっと言えば、「若きとき、仏法は嗜め」ですので、若い時に善知識に遇うことができれば、もっと有り難いことです。
「存在と時間」などで知られる哲学者のハイデガーは、晩年になって仏教を知り、「もし十年前に仏教を知っていたらギリシャもラテン語も勉強しなかった。日本語を学び、その教えを世界中に広めることを生きがいにしたであろう。だが遅かった」と語ったといいます。

・あと少し
ゴールするには、大きく次の3つの難を突破する必要があります。

1.人間に生まれる難
2.善知識に遇う難
3.他力信心を獲る難

善知識に遇ったということは、あとは最後の「他力信心を獲る難」を突破するのみであり、ゴールまであと少しです。
「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん」(三帰依文)
(訳:人間には生まれ難いが、今すでに生まれている。真実の仏教には遇い難いが、今すでに聞いている。今生において死の解決ができなければ、いづれの生でできるというのだろうか)
過去の自分の努力や善行を誇りに思い、今生で求め切るべきです。

・善知識が若いうちに求める
「若きとき、仏法は嗜め」は説く方にもいえます。
つまり、善知識も年を取り、病気になったり身体が動かなくなったりするため、善知識が若いうちに求めるべきです。
ですので、より正確には、求道者と生きた教授の善知識の両者が若く健康なうちに求道することができれば、それが人間にとって最高の幸せなのです。

・日本に生まれる有難さ
現代の日本に生まれる有難さというのは色々とありますが、なんといっても日本には大乗仏教があります。
また、教えを裏づける超心理学や量子論といった科学もあります。信教の自由といった憲法の保障もありますし、インターネットを使って簡単に世界中の人とつながることもできます。
親鸞は、「日域は大乗相応の地なり」と告げる夢を見たと言っていました。「日本は大乗仏教が栄えるのに相応しい土地である」という意味ですが、このことを裏づける結果となっているといえるでしょう。
これだけの条件が揃っている国は他になく、過去の日本においてもありません。これだけ恵まれた環境にいながら求道がゴールできないというのは実に情けないことです。

悪知識とは

悪知識とは、仏教の悪い先生という意味で、死の解決の体験も教学もない人です。
〇悪知識の怖さ
悪知識に従えば、当然死の解決はできず、地獄に堕ちることになります。
「一盲衆盲を率いて、火坑に堕つる」(仏蔵経)
(訳:一人の悪知識が、大衆を道連れにして地獄に堕ちる)

「師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄に堕ちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、悲しみてもなほ深く悲しむべし」(御文)
(訳:悪知識についていけば、先生も弟子も極楽には往生せず、必ず地獄に堕ちる。嘆いてもなおあまりあり、悲しんでもなお深く悲しいことだ)
・悪知識に対する怒り
悪知識を見て怒りを感じるようでなければ、仏法者とはいえません。
親鸞が84歳の時、あろうことか長男の善鸞が名利のために仏法を利用するようになりました。「父から、私一人だけに教えられた秘密の法門がある」と言って同行を惑わしたのです。
親鸞が問い質しても妄言は一向に止まず、さらには親鸞の悪口を言うようにもなりました。
もはや手の打ちようがないと思った親鸞は、「親ということあるべからず。子と思うことも思い切りたり」と書いた義別状を善鸞に送りつけました。
可愛いわが子との縁を切りたいと思う親はいません。それほど仏法を捻じ曲げる罪は重いのです。
親鸞のこの姿勢は死ぬまで一貫しています。親鸞が死ぬ前日のことです。病の重さを聞きつけた善鸞がたずねてきましたが、それを知るや親鸞は怒りをあらわにして、「外道の顔など見たくもない、汚らわしいから追い返せ!」と言い、面会を許さなかったといいます。
親鸞の意志を継ぐ蓮如もまた悪知識には厳しく、ある時は、歯ぎしりをしながら、「切り刻みても、飽くかよ、飽くかよ(切りきざんでも足りない)」と言いました。また、道の先に善鸞の墓があることを知った時には、三里(約12キロ)手前から、「外道に堕した悪知識の墓など見たくもない」と言い、笠で顔を隠したといいます。

〇悪知識で溢れている
今日、間違った仏教が流布し、仏教に対するイメージも悪いですが、その大きな原因は僧侶にあります。
「獅子身中の虫」という諺がありますが、仏教を捻じ曲げるのは、他ならぬ仏教者自身です。福沢諭吉が、「僧侶は俗より出でて俗よりも俗なり」と批判し、庄松が「法を瘦せかしてわが身を太らせている」と批判した通りの実態があります。
2014年の文化庁調査によれば、全国の寺院の数は約76,000、僧侶の人数は377,898人となっています。同じ年の全国のコンビニの数は約52,000、歯科医院の数は約68,000となっており、これらと比較しても多い数であることがわかります。これだけの僧侶が正しい仏教を説けば、仏教は衰退せず、多くの人を救えるはずです。
ところが、現代の僧侶は、副業として僧侶をしたり、僧侶の仕事をしても間違った葬式をしたりする始末です。また、寺は本来、仏教を説く場所ですが、現代の寺は墓地や観光地やコンサート会場となり、「がらん仏教」と化しています。
地蔵十輪経には次のような話があります。
昔、ある国に、牡と牝の2頭の白象が仲良く暮らしていました。白象には美しい牙があり、ある時、その牙の噂を王が聞きつけました。
「その白象を捕えてこい。捕えた者には欲しいだけの褒美をとらそう」
こう命じると2人の猟師がやってきました。
「私たちが必ず捕まえてみせます」
「どうやって捕まえるのか」
「噂によれば白象たちは仏に帰依しているとのことです。そこで袈裟をかけて近づけば容易にしとめることができましょう」
2人は仏弟子に化け、毒矢を隠しながら白象に近づいていきました。白象たちは袈裟をかけているので、すっかり安心していました。
しかし、牝象がどこか様子がおかしいことに気づきました。
「あの2人は目つきが怪しい。私たちの命を狙っているかもしれませんよ」
「バカなことをいうものではない。仏弟子ではないか。謗ってはならないよ」
牡象は注意しました。
すると突然、猟師は牡象に向けて毒矢を放ちました。牝象は怒り、猟師を踏み殺そうとしますが、牡象がそれを止めました。
「仏弟子のなさることだ。何かわけがあってなさるに違いない。必要であれば何でも差し上げなければならない。そのためにたとえ命がなくなってもよいではないか」
牡象は最後まで疑わず息を引き取りました。
この話は、名利という牙を手に入れるために、仏教を捻じ曲げて無知な大衆を騙す僧侶の姿を猟師にたとえています。
明治時代、見事な陶器を作ると評判の医者がいました。
ある日、その医者が、自分が作った茶碗を披露していました。見事な出来栄えに一同が感嘆していると、しばらくして建仁寺の管長、竹田黙雷がやってきました。
「黙雷さん、どうですか、この茶碗。見事な出来でしょう」
黙雷が茶碗を手に取りじっと見たかと思うと、皆に聞こえるように言いました。
「この男は偽医者じゃ、こんな医者には絶対にかからぬほうがいい」
思わぬ言葉に場は静まり返りました。
「黙雷さん、どうしてそんなことを」
すると黙雷は、「医者が専門家も及ばぬ陶器を作るとは、医療に魂が入っていない証拠だ」と言いました。医者は首をうなだれたといいます。
この話は二足の草鞋を履くことを批判しているわけですが、この医者のような僧侶は多くいます。仏教のために名利を手段として活かしているのであればいいのですが、そうではなく、それどころか仏教を名利のために利用する僧侶で溢れています。
「仏法者のやぶるにたとへたるには、『獅子の身中の虫の獅子をくらふがごとし』と候へば、念仏者をば仏法者のやぶりさまたげ候なり」(御消息集)
(訳:仏法者自身が仏法を破壊する様を、「獅子の体の中の虫が獅子を喰らうようなものである」とたとえられている。仏法者を妨げて潰しているのは、他でもない仏法者自身なのである)

「悲しきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」(悲嘆述懐和讃)
(訳:何と悲しいことであろうか。仏教徒もそうでない者も、日時の良し悪しといった迷信を信じ、阿弥陀仏以外の仏や神を崇め、占いや祭祀に努めている)

「皆人の地獄に堕ちて苦を受けんことをば何とも思わず、また浄土へ参りて無上の楽を受けんことをも分別せずして、いたずらにあかし空しく月日を送りて、更にわが身の一心をも決定する分もしかしかともなく、一巻の聖教を眼にあてて見ることもなく、一句の法門をいいて門徒を勧化する儀もなし。ただ朝夕は、暇をねらいて、枕を友として眠りふせらんこと、まことにもって浅ましき次第にあらずや」(御文)
(訳:人々が地獄に堕ちる一大事を何とも思わず、また、極楽浄土に往生して無上の楽を受けるという道理もわからず、ただいたずらに日々を過ごし、わが身の死の解決もせず、一巻の聖教も見ようともせず、人々に一句の仏語さえ伝えようとしない。ただ一日中、世間事に心を奪われ、暇があれば寝たり怠けており、本当に浅ましい限りである)

・悪知識は身近にいる
広い意味では、仏縁を切るすべての人が悪知識となります。たとえば、恋愛することで求道をやめることになれば、その恋人が悪知識になったということです。このように、親や友人、子供や配偶者、上司や恋人等々、悪知識はすぐ身近にいるのです。

・人間は悪知識が大好き
人間には煩悩があり、顛倒の妄念があります。これはつまり、悪知識を好む心理があるということです。
「魔のために惑はされ慧眼を覆障せられ、深く利養を貪りて、諸の外書を看る。猶群盲の誑のために欺かれて、皆深坑に堕して死せしめらるるが如し」(仏蔵経)
(訳:煩悩という悪魔に惑わされて正しく本質を見抜く力が覆われてしまい、深く欲を貪り、仏教と関係ない本を見る。正邪を見抜くことができないので、徳があるように見せかけている悪知識に騙されてしまい、皆地獄に堕とされてしまう)

真実を見抜く力がないと、騙されて地獄に導かれていながら悪知識に感謝するということになってしまいます。

知識選びの重要性

これまで説明してきた通り、知識で運命が決まるので、知識選びほど人間にとって重要なことはありません。悪知識を善知識だと思ってしまったら一生を棒に振るばかりか、死後は無間地獄に堕ちなければなりません。
博多万行寺の住職、七里恒順は、知識選びを針と糸の関係にたとえています。糸は針の行く方向についてゆくしかなく、糸の運命はまったく針によります。針(知識)が間違えば糸(信者)は地獄に堕ち、針が正しければ糸は極楽に生まれるということです。
しかし、知識選びは非常に難しいものです。最終的には自分で判断するしかありませんが、慎重に慎重を重ね、誰の話を聞くべきか選ぶ必要があります。
〇必ず影響を受ける
意識するとしないとにかかわらず、近づく相手の影響を人間は必ず受けます。
つまり、善知識に近づけば必ず良い影響を受け、悪知識に近づけば必ず悪い影響を受けるということです。それは、いい匂いがする人に近づくと自分もいい匂いが染みつき、臭い人に近づくと自分も臭くなるようなものです。経には、お香売りとケンカすれば自分にもお香の匂いが染みつき、魚売りとケンカすれば自分にも魚の臭いが染みつくようなものであるとたとえられています。
・善知識にはケンカしてでも近づく
善知識と会話を交わしたり触れたりするだけで宿善となります。たとえ悪意があろうが、善知識に近づけば善い業が染みつくのです。ですので、善知識にはケンカしてでも近づけといわれます。これは、救う側の視点に立てばよくわかるはずです。善人だろうが悪人だろうが、近づかなければ救いようがないのです。

・悪知識とはケンカすることも危険
同じ理屈で、悪知識とはケンカすることも危険です。近づいたり見たりしただけで、必ず悪い影響を受けます。

・悪知識を遠ざけて善知識に近づく
日々の生活を反省すれば、悪知識や偽物にばかり接しており、知らず知らずのうちに悪い影響を受けています。意識的に悪知識を遠ざけ、善知識に近づくよう努力する必要があるのです。
「諸々の比丘当に善知識に親近すべし、悪知識に近づくこと莫かれ」(増一阿含経)
(訳:真実の幸福を求める人は、善知識に親しみ近づき、悪知識に絶対に近づいてはならない)

「悪をこのまん人には、慎みて遠ざかれ、近づくべからず。善知識・同行には親しみ近づけ」(末灯鈔)
(訳:悪知識からは注意して遠ざかり、近づいてはならない。善知識には親しくして近づきなさい)

〇知識を見分ける力
死の解決をした人からすれば、その人が死の解決をしているか否かはもちろんのこと、どのくらいのレベルの人間かは見てすぐにわかります。死の解決をしていなくとも、こういったことは求道が進むにつれわかってきます。
・ずっと考えてきたからすぐわかる
わかる人は少し話を聞いただけで、その人が善知識であるか否かの判別がつきます。わずかな言葉で釈迦に帰依したという弟子は多くいます。「少し話を聞いただけですぐ信じる」と聞くと、ただ妄信しているだけだと思うかもしれませんがそうではありません。善知識に出遇うまでの間、ずっと真実を求め続けてきたからわかるのです。
どの世界にもいえることですが、玄人は相手のちょっとした情報から相手の力量がわかるものです。たとえば、一流の鑑定士は本物と偽物の区別をすぐ見抜くことができます。玄人は、そのわずかな情報から、素人にはつかめない情報をつかむことができ、一を聞いて十を知ることができるのです。そのわずかな情報には驚くべき価値が詰まっているのですが、素人にはその価値はわかりません。
親鸞は法然の話を1回聞いただけで法然のことを善知識だと思っていますが、法然に出会うまでの29年間、ずっと考えてきたからすぐに法然が善知識であると確信できたのです。そのわずかな時間の中で、人生をかけた目には見えない真剣勝負が繰り広げられているといえます。
宿善がある人は、意識するとしないとにかかわらず、仏教的な問題を小さい時から考えています。もちろん、教学がないので漠然としたものではあります。そういう人でないと、出遇った時に知識の善悪は見抜けません。このように求道は善知識に出遇ってから始まるのではなく、小さい頃からすでに「無意識の求道」が始まっているといえます。
しかし、ほとんどの人は宿善がないので、こういった過程を経ずに知識選びをしてしまいます。それは妄信であり非常に危険です。実際、多くの人が悪知識を信じています。また、たまたま善知識と出遇って求道を始めても、求道心が弱く、途中で脱落してしまいます。棚ぼた式に仏教に出遇ったため、価値がわからないのです。

善知識を信じる力

求道は、善知識を信じる力が要求されます。
〇善知識を信じるということ
善知識の言動は阿弥陀仏の光明の働きであり、善知識を信じることは、そのまま阿弥陀仏を信じることにつながります。
善知識を思う心と阿弥陀仏を思う心は同じであり、たとえば「阿弥陀仏は深く信じるけど善知識は信じない」ということは有り得ません。
阿弥陀仏を信じないと救われないため、善知識を信じる力が非常に重要になるのです。
・三帰依
阿弥陀仏と仏法と善知識の3つを合わせて三宝といいますが、三宝を心から信じることを三帰依といい、求道者の根本的な態度になります。
「自ら仏に帰依したてまつる。自ら法に帰依したてまつる。自から僧に帰依したてまつる」(華厳経・三帰依文)
聖武天皇は「朕は三宝の奴なり」と言いましたが、天皇でさえ「自分は仏教の下僕である」と言っています。すべての人間は仏法に使って頂く身にならなければなりません。

〇善知識は信じ難い
善知識を信じるということは真実を受け入れるということです。しかし、先に見たように、人間は迷いやすく、善知識を善知識と思えません。
・人間は善知識が大嫌い
いつの時代も善知識を嫌う人は多いですが、突き詰めると真実を追究する力が乏しいことに帰着します。
特に生きた善知識は、人間の形をとっていることもあり感情が反発しやすいです。現代では釈迦を悪く言う人は少ないですが、それは釈迦が死んだ人であり、歴史上の人物として周りが評価していることが大きいでしょう。生きていたら悪く言う人はたくさんいたはずです。ある女は釈迦に「大小便に満ち満ちている」と言われて釈迦を恨むようになったといいます。

・死の解決をするまで信じられない
あからさまに嫌う人だけではありません。死の解決をするまでは、どれほど善知識を信じているといっても疑う心があります。「信じる」という心には「疑う」という心が含まれています。疑っているから信じようとするわけです。どんなに強い信仰であっても「確信」はありません。
もっとはっきりと言えば、人間は、西遊記の孫悟空のように自惚れて釈迦を舐めている状態であり、釈迦に説法している状態であり、釈迦の頭の上に胡坐をかいているような状態なのです。

・すぐ動揺する
このように善知識を疑っているので、善鸞に惑わされた人たちのように、何かきっかけがあれば大きくぐらついてしまうのです。ぐらついたということは、もっとわかりやすくいえば、「親鸞は嘘をついていたのか!なんて酷い奴だ!」と思ったということです。邪教徒が流す釈迦の悪い噂を聞いて、弟子をやめたり動揺する信者もよくいたといいます。
釈迦が犯罪者となっても善知識と尊敬できたでしょうか。あるいは障害者だったらどうでしょうか。ホームレスだったら、子供の姿だったらどうでしょうか。ぐらつき尊敬できなくなる人は多いでしょう。

・勝縁にする
ぐらついているということは死の解決をしていないということですので、このような事件は、そのことを自覚できる勝縁とすることもできます。
「慈信坊が申すことによりて、ひとびとの日ごろの信のたぢろきあうておはしまし候も、詮ずるところは、ひとびとの信心のまことならぬことのあらはれて候。よきことにて候」(御消息集)
(訳:善鸞の妄言によって、信心がぐらついてしまうのも、結局、まことの信心ではなかったことの証拠です。これが明らかになったのは良いことです)
「どっこいしょ」には大小ありますが、真面目に求道すると必ず「どっこいしょ」する時があります。
「でっかい安心十六ぺん、ちょこちょこ安心、数知れず」ともいわれます。そのまま行けば地獄に堕ちてしまうので、「どっこいしょ」は非常に恐ろしい状態です。それに気づくきっかけにできるのですから、こういった出来事は良い面もあるのです。

・地獄の恐怖より優先できるか
後で説明しますが、求道の最後は、地獄に堕ちる覚悟が要求されます。これは物凄い恐怖です。
この恐怖がわからない人にわかりやすく説明するなら、高層ビルの屋上から飛び降りるような恐怖です。第3巻でも説明したように、恐怖の根源は死そのものですので、高層ビルでなくとも何にたとえても本当はいいのですが、わかりやすくするために高層ビルでたとえています。
高層ビルから飛び降りないと、つまり自分の意志で地獄に堕ちないと救われません。別な言い方をすれば、高層ビルから飛び降りるよう、地獄に堕ちるよう善知識は命令するのです。その命令に従わず、「そこまではできない」などと思っていれば救われません。ですので、善知識への信仰というのが非常に重要なのです。
しかし、この状況で命令に従うというのは非常に難しいことです。ほとんどの人は恐怖が勝り、「そこまではできない」と思うでしょう。

〇善知識に対する姿勢
結論から言うと、善知識の言うことはすべて信じたほうが、本人のためになります。善悪の専門家である善知識のアドバイスは、その人にとって最適なアドバイスであり、善であり法です。善知識のアドバイスに対して、「なぜそんなことを言うのだろうか」と疑問を持ち、疑問が解消されるまで考え経験を積み、年を取って初めて納得する、という流れは遅いという大きなデメリットがあるのです。善知識の言うことであれば何でも信じ、何でもできると思うべきです。
「知識若し『仏と云うは蝦蟇蚯蚓(がまみみず)ぞ』と云はば、蝦蟇蚯蚓を是ぞ仏と信じて日ごろの知解を捨つべきなり」(正法眼蔵随聞記)
(訳:善知識が、もし「仏というのはカエルやミミズのことである」と言ったならば、カエルやミミズを仏と信じて日頃の常識を捨てるべきである)

「善知識の仰せなりとも、成るまじきなんと思うは、大なる浅ましきことなり。何たることなりとも、仰せならば『成るべき』と、存ずべし」(御一代記聞書)
(訳:善知識の仰せであっても、「できない」と思うのは、大きな間違いである。どんなことであっても、善知識の仰せならば「できる」と思うべきである)
・重い価値を置く
般舟三昧経には、「善知識には海山超えても馳せ参じ、仏の如く敬って、身肉手足をも供養すべきである」と説かれています。
たとえば平太郎という人は、先生である親鸞からたった1つのアドバイスをもらうために、今の茨城県から京都府まで往復しています。もちろん、当時は車も電車もありませんから歩いて行かなければなりません。さらに、治安も悪く、山賊などに襲われて殺されてしまうことも珍しくありませんでした。やっとのことで親鸞に会い、アドバイスをもらって帰り、そのアドバイス通りに実行しました。これで終わりかと思いきや、平太郎は報告しにもう一往復しています。この行為が良いか悪いかは別として、平太郎は善知識のアドバイスに非常に重い価値を置いていたことがわかります。
布施に対する価値観も現代人とは違います。
釈迦の時代には、女乞食の難陀のような一灯を捧げる人もいれば(詳しくは第4巻)、1枚しかない服を布施して裸で生活した女性もいます。釈迦の話を聞くためなら全財産が惜しくないという話もたくさんあります。また、釈迦をもてなす権利を買い取ろうとする人もいれば、国全部くれたとしても権利は譲らないという人もいますし、脅してでも権利を奪おうとするとする人もいました。布施をする心がけとして正しいかどうかは別としては、それだけ釈迦に布施すれば大きな利益が得られると信じていたということです。
現代では、ほとんどの人は善知識を善知識と思えず、利益が返ってくると思えないから、布施をしたとしても、しぶしぶ出すでしょう。
善知識は、「私に尽くしなさい」とか「私の言うことだけを聞きなさい」と言います。それを聞いて、「何て傲慢なのだろうか」と思っているのは感情的な反発であり、真実を追究する求道者ではありません。このように言うのは、私腹を肥やすためではなく、すべて相手のためなのです。

・絶対信順
露塵の疑いもなく信じ切れた状態を絶対信順といいます。
絶対信順は、「帰依」「南無」「帰命」「深信」ともいいますが、死の解決をしなければできません。
普通の感覚からすれば騙されれば怒るものですが、この境地は、善知識になら騙されて、たとえ地獄に堕ちたとしても決して後悔しないという信じ方です。
「たとひ、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」(歎異抄)
(訳:たとえ法然上人に騙されて、念仏したために地獄に堕ちようとも、決して後悔しない)
裏を返せば、100%裏切らないと信じているということです。このような信じ方ができる人がいないということは、絶対信順できる善知識がいないということであり、死の解決をしていない、つまり死後は地獄ということですので、実に不幸なことなのです。

・絶対信順の真似をする
しかし、絶対信順をしている人の真似をしようとする姿勢も大切です。心理学にも近しい用語でモデリングというのがありますが、真似をすることで信仰がついてきます。
「悪人の真似をすべきより、信心決定の人の真似をせよ」(御一代記聞書)
(訳:悪知識の真似をするより、善知識の真似をせよ)

一例として、妙好人として知られる「赤尾の道宗」という人を紹介しましょう。
富山県にある赤尾は、城端線の終着駅、城端からさらに30数キロも山奥へ入った幽谷の地です。
道宗を導いたのは蓮如なので、道宗の蓮如に対する崇敬の念は尋常ではありませんでした。
蓮如が京都にいた時のことです。冬の中でもとりわけ寒いある日、「お師匠様は、さぞ寒い思いをしているだろう」と思った道宗は、火をおこして火鉢に入れ、それを蓮如がいる京都に向けてお供えしたことがありました。いわゆる「蔭火鉢」ですが、これを冬が終わるまで毎日続けたといいます。
同じようにして大風を防いだという話なども道宗にはありますが、第1巻でも説明したように、このようなことはあり得るのではないでしょうか。たとえば、テレパシーの実験の1つに味覚伝達実験があります。伝達者がりんごを食べて、受容者がりんごの味を受け取るといったものです。
後に、道宗が蓮如を訪ねると、不思議なことに蓮如は道宗の蔭火鉢を知っており、「そなたのおかげで暖かく過ごすことができた」と言ったといいます。そして、蓮如は道宗に名号を与えました。この名号は、「火鉢感応の名号」と呼ばれ、道宗の末孫が住職を務める寺に、今でも寺宝として残っています。
また、道宗の晩年には次のようなエピソードもあります。
蓮如は冬に瑞泉寺という寺に留まったことがありますが、道宗は毎朝勤行に参詣したといいます。赤尾から瑞泉寺まで32キロ、往復64キロもあります。これだけでも老いた道宗には大変な苦行です。さらに、途中で1500メートル級の山々を越えなければなりません。そして、冬は積雪3,4メートルにもなるといいます。
ある日、吹雪で道がわからなくなった時がありました。雪が肩まで積もり、身動きが取れなくなった道宗が一心に念仏を称えたところ、瑞泉寺の方向に向けて舟を曳いたように道が見えたといいます。これが後に、「道宗舟曳きの道」といわれるようになっています。
このような逸話がある道宗ですが、彼は次のように善知識の命令であれば何でもできると思っています。
「『道宗、近江の湖を一人してうめよ』と、仰せ候うとも、『畏まりたる』と、申すべく候う。仰せにて候わば、ならぬこと、あるべきか」(御一代記聞書)
(訳:「道宗、琵琶湖を一人で埋めなさい」と命じられても、「畏まりました」と言うだろう。善知識の仰せであれば、できないことはない)
道宗は知恵の世界ではなく、本当に琵琶湖を埋められると思っていたのです。先に説明したように「信じる」とは疑いがまざっている状態ですが、この境地は疑いがまざらないので、道宗からすればすでに水一滴ないはずです。
ただ念のため言いますと、何でも真似すればいいというものではなく、信前(死の解決をする前)の人間は「鵜の真似をする烏」とならないよう気をつけなければなりません。

・想像する
1つ1つの行為を、その都度、細かく善知識に聞くのは現実的には難しい問題です。ですので、「この場合、善知識ならどうするだろうか」と常に想像しながら行動することも大切です。

善知識の願い

善知識の1番の願いは、人々の死の解決です。
〇願いはいつも同じ
善知識は仏法を間違いなく伝える人ですので、いつの時代も善知識が言うことは同じです。一見すると表現が異なっているように見えても、中身は同じことを言っています。
・心底に仏法がある
阿弥陀仏と一体になった善知識の言動には、常に心底に仏法があり、一見冗談に思えることでもそれは同じです。
「仏法者に馴れ近づきて、損は一つもなし。何たるおかしきこと狂言にもし、是非とも、心底には仏法あるべしと思うほどに、我が方に徳多きなり」(御一代記聞書)
(訳:善知識に親しみ近づいて、損は一つもない。善知識がどれほどおかしいことをしたり冗談を言ったりしたとしても、心底には仏法があると思うべきである。そう思えば自分に多くの恩恵があるのである)
「これは仏教の話で、これは仏教の話ではない」とか「これは真面目な話で、これはくだらない話」などと聞き手である人間は勝手に線引きしますが、善知識の言動はすべて仏教です。
心底に仏法があれば、戦争の話もビジネスの話もいじめの話も恋愛話も、すべて死の解決に近づけるための真面目な話であり、同じレベルの話になります。逆に、心底に仏法がないと、どんな話も不真面目な話になります。

〇どれくらい願っているか
どれほど願っているのか、それがわかる表現をいくつか紹介します。
・親が子を思うよりも願っている
第5巻で説明したように親は子供のことを常に思っていますが、それ以上に善知識は人類の死の解決を願っています。
「我、汝等諸天人民を哀愍すること、父母の子を念うよりも甚だし」(大無量寿経)
(訳:私が、すべての生物をあわれむ心は、親が子を思うよりもはるかに超えている)
蓮如は次のように言って死んでいきました。
「あわれ、あわれ、存命のうちに、皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり。まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」(御文)
(訳:何と哀れなことだろうか。生きているうちに、すべての人に死の解決をしてほしいと、朝から晩まで一日中思い馳せている。「宿善まかせ」とはいうものの、その思いが止むことがないのだ)

・死んでも願っている
死んだ後も極楽浄土で願っています。親鸞は次のように言って死んでいきました。
「この身は今は歳きわまりて候えば、さだめてさきだちて往生し候わんずれば、浄土にて必ず必ず待ちまいらせ候べし」(末灯鈔)
(訳:私は年老いてしまったので、きっと先に死んで極楽浄土へ往生すると思うので、浄土にて必ず必ず死の解決を待っている)

「我が歳きはまりて、安養浄土に還帰すといふとも、和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人は親鸞なり。我なくも法は尽きまじ和歌の浦 あをくさ人のあらん限りは」(御臨末の御書)
(訳:これから私は死んで極楽浄土へ帰って行くが、寄せては返し寄せては返す波のように何度も戻ってこよう。死の解決をして喜ぶ人がいれば二人だと思ってくれ、死の解決をして喜ぶ人が二人いれば三人だと思ってくれ、その一人は親鸞である。私がいなくなっても法は尽きないぞ。求める人がいる限り)

・何度も帰ってくる
釈迦が遠い昔から仏であったように、教授の善知識と呼ばれるような超人は、還相の菩薩と考えて間違いありません。つまり、元々仏であった方が、人々を救うために菩薩として地球に戻って来られたということです。
救い方は様々です。たとえば、無常を観じさせるため、救いたい人の前で死んでみせるということもあります。
法然には、ある噂があります。舎利佛→善導→法然と生まれ変わり、次は庄松となって生まれ変わったのではないかという噂です。
「命終その期ちかづきて 本師源空のたまわく 往生みたびになりぬるに このたびことにとげやすし」(高僧和讃)
(訳:臨終が近づいて、法然上人が「往生は三度目となるが、今回は特に遂げやすい」と言った)
蓮如も生まれた時に、「恥ずかしながらまた来たど」と言ったと伝えられています。
生まれ変わり研究などでも、親など近しい人を導くために、自ら病気になって生まれてきたといった事例がいくつもあります。

・善知識の苦悩
世間的な苦しみとは異なりますが、善知識にも苦しみがあります。
ある時、弟子の1人が釈迦に「仏にも苦しみがあるのでしょうか」と聞いたところ、釈迦は「雨が降るが如く人々が地獄に堕ちている姿が見える。それが苦しみである」と答えています。また、蓮如は病気を患った時、「人の信のなきことを思し召せば、身を切り裂くように悲しきよ」と言い、自分の病気よりも人の信の心配をしています。
つまり、善知識は「人々が苦しむことに苦しむ」といえます。念のため言いますと、だからといってこの苦しみが障りとはなりません。詳しくは後述します。

〇善知識は厳しい
「仏教の先生」と聞くと、「温厚そう」だとか「決して怒らない人格者」といったイメージを持つ人がいます。悪い言い方をすれば、去勢されたようなイメージを持つ人もいるかもしれませんが、そうではありません。
善知識と呼ばれるような人は、非常に怒りっぽく、激しい気性であり厳しい人です。釈迦は、言ってもわからない相手には、時に暴力も辞しませんでした。これはもちろん私憤からではありません。善悪に厳しいからです。善を一生懸命する人は怒りっぽいです(詳しくは第4巻)。
また、真剣だからです。
落語家の立川談志は、居眠りしていた客に怒り退出させたことがありますが、真剣に話をしているのに聞く側がいい加減だと怒りがでます。ちなみに、このことを不服とした客は、その後、裁判を起こしていますが、居眠りが会場の空気を乱し、重大な障害になる事もありえるとして訴えは棄却されています。
そして何より利他心からです。
親は、子に悪い面があれば直そうと厳しくしますが、厳しくするのは、子が憎いからではなく愛情からです。これを教えた「憎くては 叩かぬものぞ 笹の雪」という古歌もあります。動物をいじめているように見えて、実は野生に戻す訓練だったという話もあります。プロ野球の星野監督は、乱闘になった時、ベンチで見ていた選手に対して、「仲間が大変なときに黙って座るとは何事か」と叱ったといいます。慈悲の観音菩薩には馬頭観音という憤怒の相があります。
怒っている人を見て、「そんなに怒らなくてもいいのに」とか「もっと冷静になるべきだ」「客観的に自分を見るべきだ」と思うこともあるかもしれませんが、以上のような理由から、当事者にならないとわからないことがあります。客観視した結果、怒りが出るということがあるのです。稲盛和夫は、「小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり」と言いましたが、広い視点で善悪を見る必要があります。

・厳しくされなかったら信用されてない
そんな善知識から叱られたり厳しくされないということは、簡単に言えば、信用されていないということであり、その程度のレベルということです。つまり、厳しさに耐えられるだけの能力がまだないと思われているのです。極悪人の人間を進歩させ、上にあげるためにはどうしても厳しくならざるを得ません。

・注意されるうちが華
あるいは、悪に染まり切っているために厳しくしても無駄だと思われているかもしれません。
ジャータカには「香り盗人」という話があります。
出家した修行者が、池の水面を覆うように咲きそろった蓮の花の香りをかいで楽しんでいました。
その時、陰から蓮池の主が現れて、「花の香りをかぐのは泥棒だ」と修行者に注意しました。驚いた修行者は抗議しました。
「花を折ったわけでもないし、花を散らしたわけでもない。香りをかいだだけなのに、なぜ泥棒というのか」
するとそこに1人の男がやってきて、花を荒し根こそぎ取っていきました。
「香りを楽しむだけの私を泥棒ととがめながら、あの男にはどうして何も言わないのか」
再び修行者が抗議すると、蓮池の主はこう諭しました。
「悪に染まった人に何を言っても無駄です。あなたは悪をやめ善をすることに努める修行者。うさぎの毛ほどの罪も敏感に感じるべきです」
これを聞いて修行者は深くうなずき、ますます修行に励んだといいます。
「注意されるうちが華」という言葉もありますが、本当におかしい人には誰も注意しません。善知識から注意されなくなったら終わりです。

善知識の恩を知る

意識するとしないとにかかわらず、善知識からは有形・無形問わず膨大な恩恵を被っています。
〇善知識の恩を知る重要性
善知識の恩に限らず、恩を感じない人間は畜生にも劣るといわれるぐらい、人間にとって恩を知ることは重要です。
・阿弥陀仏の恩がわからない
善知識の恩がわからないと阿弥陀仏の恩がわかりません。阿弥陀仏の恩がわからないと死の解決ができないため、善知識の恩を知るというのは非常に重要です。

〇親よりも重い恩
第5巻で説明した通り、親には非常に重い恩がありますが、その親よりもはるかに重い恩が善知識にはあります。
「三塗を脱るることを得るは知識の恩なり」(般舟讃)
(訳:地獄を脱れることができるのは善知識の恩である)
子供は忘れていても、親はずっと子供に思いをかけています。同じように、人間が忘れていても、阿弥陀仏や善知識はずっと思いをかけているのです。

〇恩がわからない
膨大な恩があるにもかかわらず、人間は善知識の恩がわかりません。親の恩にはなかなか気づけないものですが、それよりももっと気づき難いのが善知識の恩です。
「父母に子あり。初めて生まれてすなはち盲聾なり。慈悲の心慇重にして、捨てずして養活す。子は父母を見ざれども、父母はつねに子を見んがごとき、諸仏は衆生を視そなはすこと、なほ羅睺羅のごとし。衆生は見たてまつらずといへども、実に諸仏の前にあり」(往生要集)
(訳:生まれた子が盲ろう者であっても、愛情が深いので親は捨てずに養う。子は親を見ないが、親は常に子を見るように、諸仏が衆生をみそなわすことは、釈迦の一人子である羅睺羅のようである。衆生は諸仏を見ないが、実に諸仏の前にいるのである)
人間は、無常の幸福を与えてくれる人に感謝してばかりで、法を与えてくれる人に感謝できないありさまです。
・謗法罪
善知識を謗ることはもちろん、おろそかにするだけでも謗法罪です。
「善知識をおろかに思ひ、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり」(末灯鈔)
(訳:善知識をおろそかにし、謗る者を謗法の者というのである)
「自分が理解できないのは、お釈迦様が出し惜しみしているからだ」と文句を言う弟子もいました。釈迦が死んだ時、「これでやかましいことを言う人はいなくなった。少しは楽ができるぞ」と言った信者もいたといいます。
しかし、心をたずねれば、誰もが形だけ尊び畏まったフリをして、善知識を謗りっぱなしであることがわかります。たとえば善知識の指示に従わなかったり、聴聞しながら他事を思ったり、善知識を軽んじる行為はすべて謗法罪です。
また、仏法を聞いて「今日の話は良かった」などと誉めることも謗法罪になります。誉めるということは評価しているということです。仏法を評価するということは、釈迦より上の立場になっており、いわゆる「上から目線」であり、釈迦に説法している状態です。素人が玄人を批評し、幼稚園児が大学教授を誉めているようなものです。
そして、善知識に近づかないのも謗法罪です。善知識に近づくのは怖いことですが、怖いと思っているのは、自分が不真面目だからです。真面目な求道者であれば、その厳しさが非常に有難く思えます。
「同行・善知識には、能く能く近づくべし。親近せざるは、雑修の失なり」(御一代記聞書)
(訳:善知識には、十分に近づくべきである。親しみ近づかないのは、雑修の失の1つである)
雑修の十三失といって、死の解決ができずにいる求道者には13個の欠点があると説かれますが、その1つに「人我おのづから覆ひて同行善知識に親近せざるが故に」というのがあります。これは、「自分の小さな考えにとらわれて善知識に親しく近づかないから」という意味です。

・恩がわかるまで求める
結論から言うと、死の解決をするまで善知識への心からの感謝はできません。先に説明した通り、信前の人間は釈迦の頭の上に胡坐をかいて釈迦を舐めている状態です。

〇恩に報いる
人間であれば恩返しをしなければなりません。
「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし」(恩徳讃)
(訳:阿弥陀仏の大きな慈悲への恩返しは、身を粉にしても報いるべきである。善知識方への恩返しも、骨を砕いてでも感謝すべきである)
・本当の恩返し
善知識に恩返しをするといっても、金や物をいくら差し出しても不十分です。死の解決をしなければ本当の恩返しとはなりません。蓮如は、年末の礼をしにやってきた人たちに対して、「無益の歳末の礼かな。歳末の礼には、信心をとりて礼にせよ」と言いました。

・信がない人には会いたくない
仏教を聞いていながら死の解決をしていないということは、不真面目な人間ということですので、会いたくないというのが本音です。
「『当年よりいよいよ信心なき人には御会いあるまじき』と、かたく仰せ候ふなり」(御一代記聞書)
(訳:蓮如上人は、「今年から、死の解決をしていない人間には会わないつもりである」と、厳しく仰せになりました)

「信心なき人には会うまじきぞ。信を獲る者には召してもみたく候、会うべし」(御一代記聞書)
(訳:死の解決をしていない人間にはもう会わない。死の解決をした人には呼び寄せてでも会いたい、ぜひとも会おう)

・何よりも嬉しいこと
このように死の解決は善知識が最も喜ぶことなので、死の解決をした人が現れれば言葉にできないくらい喜びます。
「ひらつかの入道殿の御往生とききそうろうこそ、かえすがえす、もうすにかぎりなくおぼえそうらえ。めでたさ、もうしつくすべくもそうらわず」(親鸞消息)
(訳:平塚の入道殿が死の解決をしたと聞いたが、本当に言葉で表現できない思いである。そのめでたさも言葉で言い尽くせない)

・驚くことでもない
一方で、驚くことでもありません。死の解決は、誰でも一生懸命求めれば手に入るからです。
「明法御坊の往生のこと、驚き申すべきにはあらねども、かえすがえす嬉しう候う」(親鸞消息)
(訳:明法房が死の解決をしたことは、驚くことではないが、本当に嬉しいことである)

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