こんにちは、オンリーライフです。
今年も残すところ1か月ちょっととなりましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
少し前に次のようなニュースを見かけました。
「うんざりだよ!」インクもれする万年筆に怒りを見せたチャールズ3世。
国王も大変だなと、こういったちょっとしたことからもうかがえます。
仏教では有無同然を説いています。
すべての人間は例外なく苦しんでいるのですね。
また、次のようなニュースも見かけました。
「今は、スランプかもしれないですね」――戸田恵梨香ロングインタビュー
この記事についても色々と取り上げたいことはありますが、今回は記事の最後のほうにある次の部分について少し書きたいと思います。
「歳を重ねる……基本的には、楽しみではあるんですけど、やっぱり『死』に向かっていくわけですから、恐怖もすごく感じています。子どもの頃から、死に対する恐怖がものすごく強いんです。大人から、怖い話を聞かされたりするじゃないですか。嘘をついたら地獄に落ちて閻魔大王がどうのとか、想像するだけで『怖い!』ってなったし、映画『火垂るの墓』で受けた衝撃も忘れられない。息ができなくなったらどんな感じかなと思って、少し息を止めて見て、『やっぱり怖い!』って。死んでしまったら、何にも触れられなくなるとか、笑えなくなるんだ、とか、当たり前にしていることができないということが恐ろしくてたまらなかった。今も、少しでも体調を崩すと、死を想像してしまう。死が待っているという現実がとても嫌ですね。いやもう、まだ絶対死にたくないです」
誰でも死が近づけば恐怖に恐れおののきます。
下記でも詳しく書いた通りです。
死より怖いものはない。「死は怖くない」とか「死より怖いものがある」と思うのは間違い。死の恐怖は人間の優れた能力。
「死が怖くない」などと言う人は鈍感なだけです。
その点、彼女は敏感に無常を観じているといえるでしょう。
・その恐怖は弱い
一方で、その死の恐怖は、まだまだ弱い死の恐怖であるということをアドバイスしたいですね。
仏教で説く本物の死の恐怖ではないということです。
なぜ弱い死の恐怖であると言えるかというと、強い死の恐怖であれば、必ず解決に向かって必死になるからです。
彼女に限らず、「死が怖い」と言う人もたくさんいます。
しかし、ほとんどの人が平生に感じる死の恐怖は弱いです。
そして、臨終(死の直前)に本物の死の恐怖を感じて一生を終え、そのまま死後の地獄の一生が始まるという流れをとります。
こちらで詳しく書いた通りです。
無常観とは?「寂しい」は弱い無常観。強くなれば「恐怖」となる。
平生に本物の死の恐怖を感じる人は、滅多にいません。
釈迦のような人です。
そういう人が宿善の厚い人だとか言われるのですね。
ほとんどの人は宿善の薄い人間です。
そのこと自覚し、求道して死を問い詰めて、本物の死の恐怖を平生に感じられるようにならなければなりません。
死の恐怖というのは、どこまで問い詰めることができるのでしょうか?
最終的には「血を吐いて死ぬ」と経には説かれています。
これについては、こちらで詳しく書いてます。
この境地は相当求めないとたどり着けません。
ぜひ、ここまで求め切ってほしいと思います。