人生には目的があり、それは死の解決(悟り)であり、悟りを求めることを求道といいますが、求道は自己を知る道であることはこちらで詳しく説明しました。
行学
行動して学ぶことを行学といいますが、座学よりも行学のほうが重要です。座学だけで聴聞となり自己を知ることができるのであれば、それに越したことはないのですが、大抵の人は座学だけでは頭だけの理解になってしまいます。行学でないと聴聞にならず、自己はとてもわかるものではないのです。
この一因は進化論でも説明できるのかもしれません。
「想像の中で食べて満足してしまうと、栄養不足で死んでしまいます。進化の原理からすると、人間の想像力は高いものの、現実ほどにはありありとしていない範囲に抑えられているに違いありません」(石川幹人/明治大学教授)
行学でないととても聴聞にならないということです。行と信は別々のものではありません。仏教の要は決まっており、あとはいかに努力し行学できるかにかかっています。
つまり、大まかに言えば、聴聞・開顕・勤行・教学のサイクルをいかに速く回せるか、いかに粛々とこなせるかにかかっているのです。こんな話もあります。
このエピソードは行学の大切さを教えています。
「弟子たちは、皆が皆優等生ばかりではなかった。どんな人間でも努力によって優れた人物になれることを教え示しているのである。小路のエピソードはことに美しい。仏教は知識で把握するものではなく、実践することによって悟りの世界を体得するのだということの正しい証明である」(石上善応/大正大学教授)
また、善知識の指導に愚直に従う大切さも教えています。
体験は強い
「百聞は一見に如かず」という言葉があるように、体験というのは強い力があります。「熱い」ということはどういうことかわからない人に、「熱い」ということを教えるのは困難ですが、火に触れれば一瞬でわかります。また、プリンを食べたことがない人に、プリンの味を伝えるのは非常に難しいことですが、食べれば一瞬でわかります。
仮時
仏教には「仮時」という言葉があり、「ケガをして痛かった時」とか「プロポーズが成功した時」といった時を指します。
仏教では、「午前1時」とか「午後1時」といった実時よりも、仮時を重視します。
体験談は力強い
このように体験というのは強い力があるので、体験談というのは説得力があります。ある事実を聞く場合、次のどれが1番心に響くでしょうか。
1.話し手が現場を想像して作った話
2.話し手が人づてに聞いた話
3.話し手が直接現場に行って感じた話
ほとんどの人が3番を最も信用し、聞き入るのではないでしょうか。
高度な教学より基本が大切
マニアックな教学を身につけようとする人がいます。
その姿勢も大切なことではありますが、それよりも基本的なことをきちんとこなすことのほうがずっと大切です。
「一利を興すは一害を除くに如かず」という言葉もありますが、基本動作がきちんとできないから、いつまで経っても死の解決ができないのです。
心は後からついてくる
良くも悪くも行動した通りに心が作られていきます。
心がきちんとしてなくとも、きちんとした行動をすることで心もきちんとなっていきます。心がきちんとしていても、だらしない行動をすることで心もだらしなくなっていきます。また、心が変わるまで行動するという視点も大切です。
心のために行動する
行動する目的はあくまで自己を知るためであり、信のためです。動作療法を提唱している臨床心理学者の成瀬悟策(九州大学名誉教授)は、「主体の変化そのものが狙いであって、動作するということはそのための手段・方便である」と言います。世間の人間も聖道門の仏教徒も、自己を知るという目的を知らずに努力していますが、それでは本末転倒であり努力の意味がありません。
記録する
時間が経つにつれ、体験時の記憶が捻じ曲がっていくため、体験して感じたことや理解したことをすぐに記録しておくべきです。大切な人が死んだ時など、何度も体験できないことは特にそうです。