「死が怖くない」などと高を括っていた人が、いざ死に直面するとまったく逆の反応を示すことを、こちらで詳しく説明しました。
同じことは世間的な成功者にもいえます。世間的な成功者の中には、「やりたいことは全部やったから、いつ死んでもいい」などと言う人がよくいますが、果たしてどうでしょうか。
ビートたけしは、よく「いついつまでに死んでやる」と言っていました。
ところが、バイク事故の後になると、「自分がいろいろ背負っているものを投げ出したいってのが本音であって、それを格好つけて、もう数年で死ぬんだと嘘ぶいていたってことだろう」と語っています。
タレントのやしきたかじんは「60で死ぬと決めといて、いつ死んでもええと生きてきたのに、惜しくなるんは恥や」と言って死んでいきました。
浪曲師の桃中軒雲右衛門の孫である中岡俊哉は、恐ろしい臨死体験をきっかけに超常現象を研究するようになったという人です。
「私はこれまで3度にわたってニア・デス(近似死)を体験し、死後の世界なるものを垣間見てきたが、私の脳裏に強く焼きついているのは、なんといっても死に対する恐怖であり、生への強い執着であった。”死にたくない”その叫びをいくどとなく繰り返した。死んでしまうことの恐ろしさ、生への願望は筆舌につくしがたいものがあった。私はこれまでに自分自身のニア・デス体験以外にも、友人、知人の死の瞬間に立ち会い、それをつぶさに見てきている」(中岡)
そして、「人はみな、安らかに死を迎え、極楽で成仏したいと思っている。しかし最期を迎えた人間はみな狼狽し、恐れおののく」と言い、祖父の最期について次のように語っています。
「こうした体験がその後の研究に大きく役立っていることはいうまでもないが、その中でも特に、死ぬ瞬間のことで強烈な印象を私に残しているのが、祖父の死である。
桃中軒雲右衛門。今の若い世代の人たちにはなじみが薄く、その名を知らない人も多いだろうが、祖父は一世を風靡した近代浪曲の聖と称される浪曲師であった。雲右衛門の死に際に立ち会った叔母の証言によれば、その死はまさに悲愴なものであったという。
雲右衛門は名誉も地位も功もほしいままにし、大教正という木曽御岳からの位をもらった、いわばその世界でも最高位についた人物である。人間としてすべての面で満ち足りた生き方をし、なにひとつ思い残すことのない生涯であったはずなのだ。
ところが人間の性であろうか、40余歳という若さゆえの生への願望からか、雲右衛門の死に際は、なんとも凄惨なものであった。雲右衛門は一時、莫大な財を築いていた。東京のどまんなかに三頭だての馬車を走らせるほどの広い土地を有し、数十人の門弟を住まわせる豪勢な生活をしていた。だが、雲右衛門の不徳が原因したのか、死ぬ時は谷中の借家の一間で、身内の者たった1人にみとられるという寂しい最期であった。
死期が近づいたとき、雲右衛門は狂ったように暴れた。枕もとに置かれてあったひとふりの刀を抜き、吐血しながら、死への恨みつらみを叫び散らした。”死んでたまるものか、俺は死なないぞ”と絶叫し、苦しみ悶えて息絶えた、というのである。
たしかに40余歳という年齢では、思い残すことは多かったろう。しかし、人間の持つすべての欲望を満たしきったような人生であったことを思えば、死というものを達観した状態で迎えても不思議ではなかったはずだ。
しかし、その病気が不治のものとわかっていても、また短いながら人生においてすべての欲望を満たしえた人間であっても、やはり生への願望は強く、死を怖れ死から逃れようとする狂心状態が起きてしまったのである。叔母の証言によれば、死ぬ瞬間はまるで阿修羅のようであったという。
私がここであえて雲右衛門の例を挙げたのは、死にのぞんで人がさらけだす、地位も名誉も財産もすべてを顧みず”生きたい”と渇望する人間の本性を知ってほしいためである」