僧侶は仏説の多くを信じることができていません。
たとえば仏教徒であれば当然「業」を信じているという人は多くいます。業については以下を参照ください。
しかし、信じ方は千差万別です。
たとえば、西本願寺勧学(学階の最高位)の源哲勝は著書「業の認識と弥陀の救済」の中で次のように語っています。
「業の思想について、それがはたして現代の科学の批判に堪えうるかどうかを問題とする人がある。しかし、その問題は私の問題とはならない」
「業思想が科学的に正しいか正しくないかの問題ではなく、業の道理によって心が安定し、心の喜びを感じられるかどうかが問題なのである」
これは情緒的で曖昧な信じ方であり、今風に言えば「ふわふわした信じ方」であり、はっきり言えば業が何なのかよくわからないということでしょう。
東京帝国大学助教授で念写の発見者である福来友吉は、次のように仏教学者は神通力を迷信だと思っていると指摘していますが、これは今でも同じでしょう。
「現代は科学万能の時代である。仏教学者も科学思想に支配せられ、これと矛盾するものを迷信と思っている。だから科学と矛盾する神通を彼らが信じ得ようはずがない。仏典中に神通のことが記載されてあっても、彼らは唯仏の徳を讃美する形容にすぎぬものとしてそれを省き、科学と矛盾せざる部分のみをひきだし、それを仏教だと言って宣説するのである。かくして宣説される仏教は科学万能の現代人にはよくわかるであろうけれど、吾人から見ると魂の抜けた仏教である」
業や神通力だけではなく、死後の存在や因果応報、罪悪等々、あらゆる超心理現象にいえます。
仏教界のリーダーからしてこの調子です。世間の人が仏教を信じられないのも無理がありません。
このように情緒的で曖昧な信じ方をしている仏教者に、科学が正しい信じ方を与える可能性があります。