人間がおかしい宗教や迷信に迷う理由はいろいろとありますが、ここでは次の内容を取り上げます。
心は科学の対象外だった
次のような理由から心は科学の対象外でした。
「『科学的』であるためには、理論的な説明がつくこと、それゆえ『論証性』があること、および、いつでも実証できて、再現できること、それゆえ『実証性』と『再現性』があることの3つの基本的条件が満たされることが必須条件とされてきた。そのため、『論証性』も『実証性』も『再現性』も保証されないような『心の世界』といった曖昧な世界の研究は非科学的であるとして完全に排除ないし捨象されてきた」(岸根卓郎/京都大学教授)
しかし、「心の世界といった曖昧な世界を無視してつくられた仮説は現実から乖離するという重大な欠点がある(岸根)」のです。
・人生の根本問題に科学は無力
エジソンは、ある記者に「君は何をしにここへ来たんだ?この地上に」と問いました。
記者が答えられないでいると、エジソンは「ほら、そうだろう。われわれはわかっていない。わからないんだ。わかるには限界がありすぎる。本当に重要なことは、人間にはまだつかめていないんだ」と言ったといいます。
また、サイエンスライターのコンノケンイチは「この世に生きているとは?誰も避けられない死とは?死後の世界は?こうした肝心なことに人類は完全に無力で、現代科学には権威しかない」と言って死んでいきました。
心を対象外にしてしまったことによっていろんな問題が生じてきますが、人間にとって何よりも問題なのが人生の根本的な問題に対して科学が力にならないということでしょう。
・無数の宗教ができてしまった
今日、無数の宗教が乱立しています。
宗教年鑑平成26年版によれば、219,939の宗教団体があり、内訳は次のようになっています。
神道系:88,549(40.2%)
仏教系:85,282(38.7%)
キリスト教系:9,347(4.2%)
諸教:36,761(16.7%)
これらの宗教団体が正しいことを教えていればいいのですが、実態はそうではありません。おかしい宗教で溢れています。
今日、「宗教」という言葉に対するイメージが悪いのも無理からぬことです。宗教とは書いて字の如く、「宗(むね)とする教え」であり、この言葉自体は本来、善でも悪でもないはずです。
なぜこうなったのか、その一因は心が科学の対象外だったことにあるでしょう。
アインシュタインは「科学のない信仰は盲目だ」と言いましたが、このように科学には致命的に頼りない面があるために、科学の力が及ばない心の世界の解決法として無数の宗教がはびこってしまったといっても過言ではありません。
たとえば、「祈り」は良い影響を与えますが、このことを知らない人の中には、特定の神や教祖の力だと思ってしまい、「自然治癒力が治し、医者が金を請求する」というような滑稽なことが起こるかもしれません。
あるいは、超能力が使えるというだけで神格化してしまい、その人の言うことを何でも信じてしまうかもしれません。
中部大学教授の大門正幸は、教え子の1人がオウム真理教の地下鉄サリン事件に絡み逮捕されたといいます。
「彼は、筆者など足元にも及ばないくらい普段から人生を深く真剣に考えている真面目な若者でした。研究室にやってきては、筆者に挑むような熱心さで議論を吹っかけてきました」
「『人生の目的って何ですかね』『人間は何のために生きているんですかね』そんな人生論が中心でした。深い人生論を持ち合わせていなかった筆者は、唯物論的な観点に時折キリスト教的な視点を入れて解答したように記憶しています」
「もし教団のことを少しでも知っていたら別の対応ができてたのではないかと悔やまれます」
そして、なぜ高学歴のエリートといえる人物が信じてしまったか、その結論として「人間を越えた何か聖なるものの存在や、霊体験や神秘体験といった超常現象を、科学的にありえないものとして表舞台から排除してしまったこと」を根本的な原因に挙げています。
著名な懐疑論者であるカール・セーガンも次のように言います。
「オウム真理教は、教養ある人々をたくさんひきつけ、なかには物理学や工学の高い学位をもつ人たちさえいた。つまりその教義は、無知な大衆向けではないのである。そこには何か別のことが進行しているのだ」
また、明治大学教授の石川幹人は「超心理学が進めば、超能力の限界が判明するなど、熱狂的な信奉に歯止めがかかる。超能力はありえないなどとして、放っておくほうがむしろ危険である」と言います。
オウム真理教の信者だった端本悟元死刑囚は、早稲田大学法学部に進学するも、オウムに入信した友人を取り戻そうとするうちに、自ら信仰にのめり込んだといいます。彼の母は次のように悔やんでいます。
「止めて止めて止めたんだけどね。出て行く時は正座して“21年間幸せに育ててくれてありがとう”“でも戦争を止めなきゃ”って。馬鹿みたいな話なんだけど、ああいうところに行くとそうなっちゃうんだろうね。子どもの頃からこういう恐ろしいものがあるんだよって教えられていれば・・・・」
オウムの事件に触れ、京都大学の元総長が「物理学を学ぶ人間が、空中浮遊などというあり得ない現象に騙されたのは残念」と言ったそうですが、この調子ではこれからも止めることはできないでしょう。
心に科学のメスが入る
たとえば、量子論によって不可解な心の世界の多くを科学的に説明できるようになるかもしません。
そうであれば、「科学的見地からも、ついに心の時代がやってきた!(岸根)」ということになるでしょう。
「人間は、これまで洋の東西を問わず『宇宙の不思議』や『心の不思議』や『命の不思議』や『生死の不思議』など、総じて『人類究極の謎』を解き明かそうと様々な試みを行ってきた。ちなみに、『科学的な試み』や、『宗教的・哲学的な試み』や『芸術的な試み』などがそれである。しかし残念ながら、そのどの試みも『単独』では所期の目的を達成することができないことが判明した。ところが、幸いなことに、私は、量子論の登場によって、外なる物質世界へ向かった西洋も、内なる精神世界へ向かった東洋も、同じ山頂を目指すようになり、やがて人類にとっての真のパラダイムが切り開かれることになると考える」(岸根)
「人間の徳性とか経験とか、これまでは科学でなかったものが、いまは科学に組み入れられるところまできている。物理学はすでにその方向に進んでいるし、私のみるところ、心理学もそちらの方向に向かおうとしている。そうなれば、いよいよ『心の科学の時代』が始まることになる」(ブライアン・ジョセフソン)
認知神経科学者の金井良太(サセックス大学准教授)は、次のように「心も数学によって表現できる」と言います。
「数学の一分野である統合情報理論によれば、意識(心)も情報の量として数学的に定量化できるばかりか、情報の形(情報の質)としても数学的に計算できる」
つまり、「人類は、すでに心の問題までも、数学によって科学的に把握できる段階にまで進化してきている(岸根)」ということでしょう。
・宗教に科学のメスが入る
そして、必然的に宗教に科学のメスが入ることになります。
「量子論の結論は、これまで科学の対象外とされてきた宗教上の多くの概念を、正統科学の高みへと引き上げることができることを示している」(コンノケンイチ)
「量子論の登場によって、初めて科学と宗教の間の高い壁が取り払われ、可視の物質世界を対象とする科学と不可視の心の世界を対象とする宗教の統合が可能になる。その意味は、ついに科学と宗教の統合の時代がやってきたということである」
「今回の新しい東洋文明では、科学は宗教に潜む非科学性にメスを入れようとするし、宗教は科学に潜む非人間性にメスを入れようとして、物心一元論の文明へと必ず進化する」(岸根卓郎)
・科学と宗教を結ぶもの
アプローチの仕方に違いはあれど、宗教も科学も真実を求めるという同じ目的を持っているので、物理学者のマックス・プランクが言うように、「宗教と科学のあいだには、実際には相反するものなど何も存在しえない。なぜなら、一方が他方をお互いに相補うものだからである」ということになります。
科学と宗教の両者を結びつけるものが見つかる可能性があります。
「経験の精神的な領域と自然科学との乖離は、永遠の並行性をたどるのではなく、接近可能である。いつか、今私たちの眼前で展開されている科学革命がさらに進歩して、両者のあいだに橋が架けられる日が来るのかもしれない」(アーヴィン・ラズロ)
その喜びを、ショーペンハウエルは次のようにたとえています。
「2人の坑夫がいる。2人は、それぞれまったく離れた地点から、しかも互いに遭遇するような具合に大地の下に2本の坑道を掘り進んでゆく。2人とも大地の闇の中を、ひたすら羅針盤と水準器だけを頼りに作業を続けてゆくと、ついに相手方の槌音を耳にするという長いあいだ待ちこがれていた喜びを味わうことができる」
・宗教の正誤が決まる可能性
宗教に科学のメスが入ることで、宗教の正誤が決まる可能性が出てきます。そうすれば、たとえばガリレオ裁判のようなことが起こります。周知の通り、ガリレオはコペルニクスの地動説を支持し、教会が支持する天動説を批判したため、1633年に宗教裁判にかけられ有罪判決を受けました。天動説を取る教会にとって、地動説を唱えるガリレオの存在は聖書を否定し神を否定することであったため、教会は徹底してガリレオを迫害したのです。
しかし、359年後の1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、公式に謝罪しました。359年間、頑なに地動説を認めなかった教会が、なぜ認めて謝罪したのかというと、根底には科学の発展があります。
科学が発展し、地動説は世間の常識となりました。地動説を取れば「絶対の教え」を否定し神を否定することになります。しかし、このまま天動説を取り続ければ、「非科学的な教え」というレッテルを貼られ世間に笑われます。どちらを選んでもキリスト教にとって致命的ですが、彼らは最終的に地動説を取りました。そして、「絶対の教え」から「科学の成果に目を向け、必要なら神学の解釈を再検討する義務がある」という方針に変わりました。
このように、科学は「信じ方」に強い影響を与えます。間違った宗教の教義を変えさせ、謝罪に追い込む力を科学は秘めているのです。科学が明らかにしなければ、ずっと教会は天動説を説き続け、謝罪することはなかったでしょう。
同じように、これから宗教に科学のメスが入ることで、正誤の決着がつき、間違った教えが正しい教えに変わる可能性があります。
同じことは各宗教内にもいえます。
たとえば仏教にしても、様々な「仏教」を名乗る団体が乱立していますが、これらも科学が発展するにつれ教義の修正を迫られるでしょう。
この作業を繰り返し、最終的には(相当先でしょうが)宗教と科学は1つになり、同じ内容になるはずです。
その一方で、どれだけ科学が証明しても信じない人は信じません。たとえば、今でも地球平面説を信じている人はいます(しかもアメリカの若者の間で広まっているようです)。
・科学は不完全
念のため言いますと、科学は欠点がある不完全なツールでもあります。「科学的」という言葉が「真実」を意味するかのように使われていますが、それは正しくありません。
・真実を追究する力
レイモンド・ムーディーは「懐疑家とは、今日のように反対や否定ばかり口にする人のことではなく、むしろ、すぐ結論に飛びつかず、ニュートラルに真実を探求し続ける求道者のことだ」と言っていますが、人間には真実を追究する力が要求されます。アインシュタインは「理論物理学者の資格は?」と聞かれ、「ありのままのものを、あるがままに受け止める柔軟な考え方と、豊かな想像力」と答えています。
宗教はゴマンとあります。
そして、1つの宗教団体には複数の教義があります。
その教義を1つ1つ正しいかどうか精査するということになります。1つでも間違っていれば欠陥のある宗教です。100個の教えがあれば100個すべて正しくなければなりません。
たとえば、現代科学は心が対象外であるため、超心理体験をした人は、体験と合致する教えがあればそれだけで飛びつきやすく、その宗教のすべてを信じやすいですが、それは早計で、1つ1つ理性で教義を精査し、すべての教義が正しいか追究しなければなりません。
信じないより信じたほうが得だと考え、神も仏も何でも信じるという人も少なくありません。たとえば、もしその神なり仏なりが実在したら救われる、たとえ実在しなくても害はない、という理屈です(パスカルの賭けと呼ばれているようですが)。
しかし、この理屈には「信じる」という心の行為が害(罪悪)ではないという前提が必要で、これまで説明した通り、心の行為にも善悪があり、ある対象を信じることが罪悪である可能性があります。
また、先のガリレオ裁判の例のように、ある教義に間違いがあることが判明すれば、まだ明らかになっていない他の教義(たとえば神の存在など)の信憑性が疑われるでしょう。
逆に、ある教義が正しいことが判明すれば、まだ明らかになっていない他の教義の信憑性も増すでしょう。
理解の重要性と限界
基本的に、宗教関係者には「宗教の世界は科学ではわからない、人間には理解できない」という信念があるようです。
その理屈や根拠は何かと聞くと、だいたい返って来る答えは「神の不思議な力は人間には理解できない」といった類の答えです。
・もっと理解できる可能性
しかし、これまでの科学が収めてきた成功を見ると、彼らが思っている以上に、世界はもっと人間に理解できるように思えます。昔は、電気や稲妻も神だと思われていました。
「私たちの『心』についての理解は、今は、稲妻を神の怒りと思っていた古代人の自然についての理解とさほど違わないレベルかもしれません」(理化学研究所「つながる脳科学」より)
京都大学名誉教授の益川敏英(2008年ノーベル物理学賞受賞)は、「神を信じている者は、自然現象に対して疑問を持ち、説明しようとすることを放棄して、すべてを神にゆだねてしまっている。それは人間の進歩を止めてしまう思考停止である」と言いましたが、理解しようとすることを諦め、神や仏を引っ張り出してくるのがあまりに早い人がいます。
物理学者のジョン・ポーキングホーン(ケンブリッジ大学名誉教授)は、「解決不可能性は、究極的にはありうることとしても、それは最後の方策であるべきで、最初から前提にするべきではありません」と言いました。
後述する「悟り」の根拠で説明している点を考慮すると、人生における重要な点は理解できるようになっており、それも優れた人だけが理解できるのではなく、いわゆる「普通の人」が理解できるように世界はなっているのではないでしょうか。
「(科学的単純性の原則について)これは問題に取り組むひとつの手段にすぎないが、科学が収めてきた驚くべき成功は、それがきわめて効果的なアプローチであることを示している」(ニック・レーン/ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン教授)
アインシュタインは「なぜ世界が理解可能であるのか」を「永遠の神秘であり、ひとつの奇跡だ」と言います。また、「この世界は理解可能だという信念が科学の背後にあるのは間違いない」と言っており、「科学理論は子供にもわかるくらい単純な形で記述できるはずだ」とも言っています。
このように、科学の根底には「信念」とか「信仰」といったものがあるという点も重要です。
自然を理解できるのは、人間に素粒子の心もあるからなのかもしれません。
「人間が自然の営みを分析し、その真理に近づけるということは、科学者の抱く心の深層に、素粒子の心が秘められているからであり、その素粒子の心の1つの現れが数式となって表現されているのではないだろうか」(望月清文/城西国際大学教授)
医化学者の水原舜爾(岡山大学名誉教授)は「自覚智(脳科学でいう自己意識)は『悟り』に欠かせない智恵であるばかりでなく、科学的研究においても重要な働きをします」と言っていますが、外を見る科学と内を見る「悟り」の両者において「自覚」ということが重要な働きをするのは偶然ではないのではないでしょうか。この点は後でも触れます。
・理解に限界がある可能性
一方、人間の理解に限界がある可能性もあります。
たとえば科学法則がなぜ成り立つのか、根源を辿っていくと、これ以上説明できなくなる境界があります。
「なぜエネルギー保存則があるかは実は証明できない。なぜ、電子や原子核が存在しているかもまだ証明されていない。しかしそれらの存在を認めた上で、最低限の公理を使って、自己矛盾が発生しないことを証明するのが物理学である」(山田廣成/物理学者/立命館大学名誉教授)
「現象を説明できればよいのであって、どうしてそのような法則になるのか、根源的な部分で『なぜ』を問わないのが科学というものの実体なのである」(川田薫)
そのため、神と呼んでも何と呼んでもいいですが、そういった概念を持ってこないと世界を説明し切れないでしょう。
国連のある調査では、過去300年間に大きな業績をあげた世界中の科学者300人のうち、8割ないし9割が神を信じていたといいます。
現代科学では宇宙の物質の96%は理解できていないとされていますが、すべては理解できない可能性があります。
人間は迷いやすい
そもそも人間は迷いやすい生き物です。内側(心)も迷いやすいようにできていますし、外側からも迷わせる情報で溢れています。「禍福は糾える縄の如し」という諺もありますが、善悪は非常に複雑です。
哲学者のキルケゴールは、「人は二通りの方法で騙される。一つは、真実ではないことを信じることによって。もうひとつは、真実を信じないことによって」と言いました。