幽霊は危害を加えるか。彼らは何を食べ、何がしたいのか。心霊写真を撮るための条件とは。幽霊の生態に迫る

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉もありますが、統計を見ると6割前後の人が幽霊を信じているようです。しかし幽霊とは一体何なのでしょうか。

ハイズビルの幽霊屋敷

心霊研究は「ハイズビルの幽霊屋敷」と通称される事件から始まったといわれています。
この事件について念写の発見者である福来友吉は、「ラップを発したものはいかなる霊であったかが突き止められ、かつ今日の心霊研究の端緒を開いたという点から、心霊研究史上に重要なる位置を有している」と言います。
1847年、ニューヨーク州の片田舎、ハイズビルという小さい村にフォックス一家が移住してきました。フォックス夫妻には2人の娘、11歳のマーガレットと、7歳のケートがいました。
怪しいラップが聞こえるという噂があったものの、移り住んできたばかりの時は何も異常はありませんでした。
しかし、翌年の1848年になるとラップが聞こえだしました。最初は小さかった音が段々と大きくなっていき、ある時は単なるラップでしたが、ある時は家具をひきずるような音となりました。家族は眠れなくなり、フォックス夫人は病気になるほどでした。2人の娘も怖がり、自分たちの部屋で寝るのを嫌がって両親の寝室に移されました。
そんなある時、ケートが無邪気にもこの見えない相手と意思疎通をはかろうとします。ケートがトントンと叩けば同じように反響するといった具合に応答があったのです。マーガレットも同じようにやってみたら意思疎通ができました。
このやり取りを知ったフォックス夫人は大変驚きました。そして夫人自身が問答してみたところ、この見えない相手が夫人の秘密を知っていたのでますます驚き、驚きを通り越して恐怖しました。
噂を聞きつけた村人が集まり、100人ほどに達しました。
ある村人の思いつきで、アルファベットの文字をラップで指示する方法によって問答が行われました。
こうした実験によって、この見えない相手が霊であること、そしてこの霊はこの家で殺害された31歳のチャールズ・ロスマという男であることがわかりました。他にも、殺害者の名や、土曜日の12時頃に金銭問題を理由に屠殺ナイフで喉を切られて殺されたこと、そして、地下奥深くに埋められていることなど、具体的なことがわかりました。
さらに噂が噂を呼び、300人ほどの人が集まりました。
フォックス夫人はこの件についての報告書の中で、次のように訴えています。
「私は幽霊屋敷や超自然的現象の信者ではない。それについて、そんなに多くの騒ぎがあったことを甚だ遺憾に思っている。それは我々には大変な迷惑であった。こんな時、ここに住んでいたことが我々の災難であった。しかし私は真理が判明し、そして真正なる説明書の作らるることを熱望している。私はこれらの響を説明することが出来ぬ。私の知るすべては、すでに述べた通り、響が繰り返し聞かれたということである」
真相を確かめるべく、1848年の夏に地下を掘ってみますが、証拠となるようなものは見つかりませんでした。
その後も、何度も発掘作業が行われては失敗するという流れを繰り返しますが、事件から56年後の1904年、証拠が発見されます。ハイズビルの幽霊屋敷の地下室で、こっそり遊んでいた子供たちが人骨らしきものを発見したという報告をきっかけに調査してみたところ、地下室の壁との間に、ほとんど全部の人間の骸骨が見つかったのです。これについて1904年11月23日のボストン・ジャーナルは「この発見は、1848年4月11日にマーガレット・フォックスによって作られた契のステートメントを実際的に確証するものである」と報じました。

欧米の心霊研究

欧米でも、「ハイズビルの幽霊屋敷」の事件後、心霊現象について賛否両論がありましたが、真面目に心霊現象を研究する学者も現れました。
特にウィリアム・クルックスを動かしたことが大きな転機となりました。彼は、フローレンス・クックという女性霊媒師と、彼女が現したケイティー・キングと自称する物質化された霊を調査、その研究結果を科学雑誌に発表し、「私はこれらの現象が可能であるというのではない。これらは存在しているというのである」と結論づけました。
すると、欧州中の科学者がクルックスを罵りました。クルックスの厳重な研究によって心霊現象が詐術であることが証明されるだろうと期待していたからです。
しかし、心霊現象に対して生涯を貫き通したクルックスの真撃な姿勢は、多くの科学者を動かしました。たとえば、パリ大学のシャルル・リシェ(1913年ノーベル生理学・医学賞受賞)もその一人でした。
「世人は、クルックス氏をただ冷笑することで満足していた。私もその片意地な盲目者の一人であったことを、恥ずかしながら告白する。科学者の勇気を称賛することの代わりに、私はそれを笑ったのだった。今日となってクルックス氏の業績が本当に理解されるようになったばかりである」(リシェ)
リシェは「エクトプラズム」という言葉を生み出し、「不合理である。しかし、真実である」という言葉を残したことでも有名です。
そして、1882年、クルックスが50歳の時、英国のオックスフォード大学、ケンブリッジ大学の超心理研究会を中心にしてロンドンに心霊研究協会(SPR)が設立されます。
初代会長にはケンブリッジ大学哲学科教授のへンリー・シジウイツクが就任し、その後は、アーサー・ジェイムズ・バルフォア(英国首相)、ウィリアム・ジェームズ(心理学者)、ウィリアム・クルックス(化学者)、オリバー・ロッジ(物理学者)、シャルル・リシェ(生理学者)、アンリ・ベルグソン(哲学者)等々の一流の学者が会長の任に就き、心霊研究の発展に尽くしました。
また、デューク大学教授のジョゼフ・バンクス・ラインは超心理学協会を設立、1969年に米国科学振興協会(AAAS)に加盟します。AAASは世界で最も大きい科学組織であり、第一級の科学論文誌サイエンスの発行母体でもあります。この加盟について、ラインセンターに客員研究員として滞在したこともある明治大学教授の石川幹人は「これは形式的には、超心理学が正統的な科学として認知されたことを示す」と言います。
ラインは世界で最初にこの分野の研究を科学的に証明した人とされており、超心理学という言葉を広め、「超心理学の父」と呼ばれています。

日本の心霊研究

東京帝国大学助教授で念写の発見者である福来友吉は心霊写真を撮影するためには、次の条件が必要だと言います。
「心霊写真の撮影には、写真機のほかに、霊媒というものがなくてはならぬ。霊媒とは霊の媒介者ということで、幽霊はこの者の仲立ちによって乾板の上に現れると解釈されている。そして、写真師自身が霊媒であることがある。その時には、何人でもその写真師に写真を撮ってもらえば、乾板に霊の姿が現れるのである。また、被撮影者が霊媒であることがある。その時には、その人が何人に写真を撮ってもらっても霊が現れるのである。また、第三者が霊媒である場合には、その人が撮影場にいると、霊が現れるのである。要するに、霊は自分自ら直接乾板に現れないで、必ず霊媒の仲立ちを通じて現れるものとなされている」
・マムラー
まず、「心霊写真師の元祖」として米国ボストン市のマムラーを紹介しています。
マムラーは、心霊現象の研究者でも写真師でもありませんでしたが、自分で自分の姿を撮影したところ従兄弟の姿が写っていたという人で、このことが世間に伝わるや心霊現象の撮影を注文する人が続々とやってきました。
多くの心霊写真を撮影しましたが、その中でも有名なのがリンカーン大統領の心霊写真です。ある日、リンカーン未亡人がヴェールで面を隠し、チンダル夫人という仮名でマムラーを訪問し写真を撮ってもらったところ、彼女の肖像の後ろには、その肩に片手をあてて立っているリンカーンの姿が現れていたのです。
心霊写真は人工的に撮影されたものであるという理由で、マムラーは反対者に裁判に訴えられてしまいますが、多数の証人が続出して彼を弁護したため、結局不起訴となって事件が落着しました。福来は「このことが心霊問題に対する世人の信用を喚起するのに大変有力なものであった」と言います。

・ホープ
マムラーの後、大小多数の霊媒が続出し、世の非難攻撃と戦いつつ心霊写真の実験を続けていきます。
その中において、福来は「現代の英国において、最も信用すべき霊媒として心霊研究者から公認されているもの」としてウィリアム・ホープを挙げています。ホープは20歳ぐらいから心霊能力を世に認められるようになった人ですが、福来はホープを次のように評価します。
「初めて霊媒として名乗り出てから、もう40年を超えているわけであるが、その間に厳重なる監視のもとに、あらゆる学者紳士の心霊写真を撮影して、いまだかつて一度たりとも怪しまれるような欠点を見せたことがないのである」
ホープを研究した人の中に、英国王立協会会長のサー・ウィリアム・クルックスがいました。クルックスは化学の大家として世界的に有名で、新金属元素タリウムの発見や、陰極線の研究で知られます。
クルックスはサイキック・ガゼットという雑誌上に、その実験結果を発表して、ホープの霊媒能力を次のように証言しています。
「私はクルー市に赴き、私の写真を撮ってもらった。私の姿は大変よく写り、そして同じ乾板の上に、私の亡き妻の姿が、私のすぐ側に現れていた。撮影の時、私の側に何人の姿も見えなかった。ロンドンから同行した婦人の眼にも、何物も見えなかった。写真に現れた姿は私の妻を知れる限りの者は、家族親類以外の人々までも、彼女の姿に相違ないと証言したのである」
クルックスの発表を受け、ホープの霊媒として真価も認められたのです。
福来自身もホープについて2回実験をしています。
ロンドンで手札型の乾板を買い、友人の山本憲一と一緒にクルーにいき、ホープを訪問しました。ホープとホープの助手であるバックストン夫人、山本、福来の4人で実験を行い、その流れを説明しています。
「私は乾板をもって、ホープ、山本の両氏と一緒に暗室に入った。私は乾板の封を切り、その中から2枚を抜き出し、これに署名し、スライドに入れた。残りの4枚は包装紙に包みてポケットの内に保管して置いた。
それから、われら3人は暗室を出て写真撮影場に出た。ホープ氏は写真機を一定の位置に据えてから、それを調べることを私に求めた。私はまず、レンズを取り外して調べてみた。次にカメラを調べてみた。もちろん、微塵も怪しむべき点がなかった。
それから、私はスライドをカメラに嵌め、そして椅子に腰かけて写真を撮る用意をした。ホープ氏は左手をバックストン夫人に触れ、右手でレンズの蓋を取り、その手を額にあてて精神統一を行った。山本氏はホープ氏の傍に立って、注意深くその挙動を見守っていた。それがおよそ5,6秒も経ったと思う時、ホープ氏はレンズに蓋を被せて、実験の済んだことを告げた。私はスライドを裏返しにしてカメラに嵌め、今一枚の乾板につき、右と同一の手続きによって実験を行った。これで、スライドに入れた2枚の乾板の実験が済んだわけである。
そこで私は、ホープ、山本の両氏と一緒に暗室に入り、スライドから乾板を取り外してポケットの内に保管し、別のポケットから乾板の包みを出し、その中から2枚を抜き取り、これに署名してスライドに入れた。それから私は写真撮影場に出て、前述の手続きを反復して実験を行ったのである」(福来)
このようにして、計4枚の乾板について心霊写真の実験が行われました。
福来がホープ、山本と一緒に暗室に入り、写真を現像してみると、最初の2枚には福来の姿が写されただけで、その他には何も現れていませんでした。
しかし、後に実験した2枚を現像してみると、2枚共、福来の頭の上に西洋夫人の顔が現れていました。
「2枚共に同一の婦人の顔であるが、一枚のほうには左向きに現れ、他の一枚には仰向きになっている。そしてさらによく調べてみると、私の左の肩の辺りにも若き女子の顔が現れている。これは正面に向かっている。また、私の頭の上方には崩れた煙のようなものがある。これは私の頭の上にある夫人の顔が回転運動した結果だと思われる。このようなことは心霊写真にはよくあることである」(福来)
2回目の実験も同様の手続きで、2枚の乾板で行われました。
現像してみると、一枚は無結果でしたが、もう一枚には横向きの男の顔が現れていました。

この男の顔の上には左文字で、「Je connais ce,monsieur」とフランス語の文章が写っています。これは「私はそれを知っている。君よ」という意味です。
これらの実験は福来を満足させるものでした。
「以上の実験によって、私は長らく西洋の書物で読んだことのある心霊写真というものを目の当たり見ることができて、本当に満足であった。同時に、目の当たり実験してみれば、何らの怪しむべき点もないこの心霊写真を、既成科学の理論で説明できぬからとの理由で、詐術だの、ごまかしだのと臆断している学者連の思想の浅薄さと了見の狭さとを冷笑せずにおられなかった」(福来)

仏教と幽霊

幽霊については、倶舎論に詳しく説かれています。

幽霊とは中有

幽霊のことを仏教では中有界の衆生といいます。中有界とは中間に有る世界ということで、人間界と次に生まれる世界の中間に有る境界をいいます。衆生とは生きとし生けるものすべてを指し、もちろん人間も含まれます。ちなみに輪廻の1サイクルを次の4つの期間に分けたものを四有といい、中有は四有の1つです。

生有:生を受ける瞬間
本有:生を受けてから死ぬまでの期間
死有:死ぬ瞬間
中有:死んでから次の生を受けるまでの期間

 ちなみに、「世界」という言葉は今でも一般的に使われていますが、元は仏教用語で、生き物が住む時間と空間の全体をいいます。「世」は三世、「界」は東西南北上下を指します。

幽霊の生まれ方

幽霊の生まれる形式は化生です。生物の出生方法を次の四種類に分類したものを四生といいますが、化生はそのうちの1つです。

化生:業の力から出生するもの。天人や幽霊など
湿生:湿気のある中から出生するもの。魚類・両生類など
胎生:母胎から出生するもの。人類や獣類など
卵生:卵から出生するもの。鳥類など

幽霊の寿命

寿命は大体7日から77日(49日)ですが、中には10年、20年と長逗留する幽霊もいます。死後、7日、49日と法要を営むのは中有の寿命からきています。

幽霊の形

形は本有形、つまり次生の形をしており、犬に生まれるものは犬の形を、人間に生まれるものは人間の形をしています。
そして、多くが寝た姿や座った姿、頭下足上の姿をしているといいます。寝た姿は畜生、座った姿は人間、頭下足上の姿は地獄に生まれる形ですが、ほとんどは頭下足上の姿だというのです。

幽霊の能力

また、浄天眼という通力で人間界はどこでも見えるといいます。夫婦の秘め事もトイレも自分の葬式も、その場にいるようにはっきりと見えるということです。

幽霊は必死

 彼らは夫婦交合の機会を必至に狙っています。中有という不安定な境界を嫌っているからです。夫婦が夜の営みを行おうとする時、多くの幽霊が集まり、受精の一刹那、女の胎内に宿ろうと我先に争っているのです。倶舎論には、「彼は業力の起こすところの眼根によりて、遠方に住すと雖も、よく生処の父母の交会するを見て、転心を起こすなり」と説かれています。しかし、幽霊の心身が微細なため夫婦には見えません。ちなみに、俱舎論には次のように3つの条件が調わないと生まれないと説かれています。
「母胎に入るは、要ず三事のともに現前するによる。一には母の身がこの時調適すること、二には父母の交愛和合すること、三には中有の身の正しく現前することなり」

幽霊は何を食べるのか

彼らの食べ物は「香り」です。そのため墓場によく出ます。悪業を積んだ者は悪香を求め、善業を積んだ者は妙香を求めるといいます。「生まれ変わり研究」で紹介した勝五郎も、「供えてあった食べ物は食べることはできなかったけれど、煙の匂いでうまく感じた」と語っていました。

幽霊と地縛霊は違う

 仏教は無我説ですので、幽霊は肯定しますが、背後霊や地縛霊といったものは否定します。また、いわゆる生霊と幽霊は違います。生霊は「母が死ぬ直前に母の生霊を見た」という具合に使われます。

幽霊は危害を加えない

 「怖いものランキング」でよく上位にあがる幽霊ですが、人間が一方的に怖がっているだけで、仏教が説くように幽霊が危害を加えることはないと思われます。しかし、どうしても恐怖を感じるでしょう。幽霊に恐怖するのは生来的なものなのでしょう。ちなみに本尊(阿弥陀仏)があるところには幽霊は出ないと説かれます。

幽霊はなぜ服を着ているのか

幽霊は裸ではなく大抵は服を着ており、アクセサリーを身に着けているものもいますが、その理由について次のように説明する人は少なくありません。
「おとぎ話に出てくる幽霊は、たいてい足がなく白い服を着ているのに対し、実際の出現物は、体型も色彩も通常の生きている人物と同様の様相をしている。裸の出現物はめったになく、ほとんどの出現物は愛着のある服を身に着けていたり、もしくは殺害された当時の服を身に着けている。また、帽子、杖、刀、本、荷物やアクセサリーを持つ出現物が少なくない。出現物が携帯品を持っているという点は、大変重要である。なぜならば、出現物は肉体によるものではなく、むしろ投影する者の自己イメージによるものだからである。ある有名な例では、娘を亡くした母親が、その娘の遺体を洗って化粧した際に、頬に傷をつけてしまった。傷は化粧で隠したため、母親以外の者は傷のことを何も知らなかった。ところが、その娘の出現物が他の人の前に現れた時、頬にははっきりと傷が見られたのである。この場合、本人の死亡後も、死体の取り扱いがそれ自身のイメージに影響を与えたようである」(カール・ベッカー)

幽霊と仏縁

納棺の際、死体の懐に南無阿弥陀仏の六字の名号を入れることで仏縁を結ばせることができますが、幽霊でも仏縁を結ばせることができるとされています。

生まれ変わり研究と幽霊

生まれ変わり研究の中では、実験的母斑の事例も紹介されています。これは、臨終に近い人の体や遺体に印をつけると、その人物が、その目印と一致する母斑を体にもって生まれ変わって来るというものです。この実験的母斑について、生まれ変わり研究を行っているヴァージニア大学のジム・タッカーは2つの仮説を立てています。
1つ目は「死後にも存続する意識が、しばらくの間、遺体の周辺に留まるという可能性」、つまり、「体につけられた目印がその意識に感情的な影響を及ぼし、その結果として母斑が発生するということなのかもしれない」
2つ目は「目印そのものよりも、目印をつけた人がそのときに唱えた祈りのほうが重要だという可能性」、つまり、「死を迎えようとしている者に、あるいは既に死亡した者に向かって、その目印を持って生まれ変わってほしいと、目印をつけた人が念じると、その人の意識が故人の意識と結びつき、その結果として母斑が発生するのかもしれない」

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