一水四見とは
仏教には、一水四見(いっすいしけん)という言葉があります。「まったく同じものであっても、見る人によって異なる見方をする」という意味です。まったく同じ水であっても、天人は宝石、人間は水、餓鬼は苦しみの火、魚は自分の家と、それぞれの境涯によって4通りに異なって見るようなものです。
業が違うから世界が違う
人間は1人1人業が違います。業が違うということは、見ている世界が1人1人違うということです。業について詳しくはこちらを参照ください。
因果応報は正しいか?釈迦が1番伝えたかった因果の法則とは何か?業・縁との関係は?科学は因果応報を証明できるか?
2015年に、あるドレスの写真が何色に見えるのか話題になりましたが(白と金のドレスなのか、黒と青のドレスなのか)、まったく同じ物を見たり聞いたりしても1人1人違う受け止め方をしているのです。
「手を打てば 鹿は驚き 魚は寄る 茶店の女中は 返事する」という古歌があります。
手を打つ音を聞いて、鹿は銃声だと思って驚き、魚は餌がもらえる合図だと思って近づき、茶店の店員は客が呼んでいると思って返事するという意味ですが、この歌も一水四見を表現しています。
科学が近づく一水四見
「心は直接外界を見て認識しているのではなく、記憶回路の照合を介して認識しているということです。つまり、認識は推理・推論であって、これには常にいくらかの誤差と錯覚が混入する恐れがあるということを忘れてはなりません」(水原舜爾/岡山大学名誉教授)
「たとえ同じことを経験しましても、人が変われば記憶の背後にある経験も環境も同じではありません。ということは、同じ景色、同じ現象を見ましても、少しずつ異なった『過去の記憶』というフィルターを通してみているということです。すなわち、心に映るものは百人百様だということです。このようなことから唯識は、人はそれぞれ異なった世界に住んでいるというのです。異なった世界に住むとは、人それぞれが異なった主観をもっているということです」(泉美治)
「自然現象を最終的に認識する『人の脳』の情報処理が主観的なものであるということは、自然認識(すなわち科学)も客観的には行い得ない、ということを示している。客観的に行い得ているように思えるのは、自然現象の観測者側の学習体験を共通させることで、見かけ上の客観性が保たれているにすぎないのである」
「自然現象はこうである、と認識する時、人はそれまでの学習経験で作った脳の内部世界によってそのように認識しているにすぎない。それまでの学習経験が異なると、自然現象の観察や認識は異なるのである」
「人が共通した学習体験によって育てられない限り、自然現象として観察するものも大いに異なることを示唆している。そしてこのことは、普通の人と異なった環境に生育した人は、普通の人とは異なって世界を観察し認識するようになることを示している。人はみな個々に異なった内部世界をもち、それぞれ異なった自然と接しているのである」(松本元/脳科学者)
セスは次のような話をしています。
「情報は、人格のいくつもの階層から成る、ふるいを通り抜けなければならないのだ。神経系は、データを変換しながらも、そのデータに対して反応する。そういう意味では、中立の状態で存在するものは何もないのである。情報は受け取られると、必然的に神経系が処理し、解釈できる形態に翻訳されるのだ」
「どんな知覚でも、知覚する者の電磁気的、神経的機構を即座に変化させる。君たちの観点からすると、知覚とは神経的構造の変化なのである。受け取る機構そのものが変化し、受け取るものによって変化させられるのだ。私が今話しているのは、知覚の物質的性質のことだ」
「情報は、物質的に有効な人格構造全体と自動的に混ざり合い、絡み合い、それに溶け込むのだ」
「どのような知覚も行為であり、それが働きかけるものを変化させ、さらにそうしながら自らも変化する。ほんのわずかな知覚でも、君たちの体のすべての原子を変化させるのだ。そして次にはその変化がさざ波のように広がるので、最も微細な行為でも、あらゆる場所で感知されるのである」
人間は孤独
一水四見であることから色々なことがわかります。
相手の立場に立とうと努めることは大切です。たとえば、子供が高齢者の気持ちを理解するために、体の動きを制限する装具をつけたりするのもいいでしょう。
しかし一水四見ですので、近づくことはできても、人は人を完全に理解することはできません。
哲学者のニーチェは、「人は賞賛し、あるいは、けなすことができるが、永久に理解せぬ」と言いました。
人は人に理解を求めますが、それは難しいことです。この点からも人間は孤独だといえます。
劇作家のジョージ・チャップマンは、「青年は老人を阿呆だというが、老人も青年を阿呆だと思っている」と言いましたが、基本的に自分以外の人間は変な人なのです。
「業能く識を莊る、世世処処に各々趣き、縁に隨ひて果報を受く、対面して相知らず」(観経疏序分義)
(訳:業力がよく心を変える。生々世々にそれぞれの世界へ行き、業縁に従ってそれぞれの果報を受け、対面していても相手がわからない)
伝わりにくい
伝える側の主観や偏見がどうしても入ります。ですので、たとえば歴史にしても、その歴史を伝えようとする人の主観や偏見が入っていることになります。
「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」(ニーチェ)
「すべての歴史は主観的になる。言い換えれば、正しくは歴史は存在しない。あるのはただ伝記だけだ」(エマソン/哲学者)
「歴史、それはうわさの上澄みに過ぎない」(カーライル/歴史家)
そのため、史実というのは時代や場所によって変わることがあります。同じことは仏教にもいえます。
「私に史料を提供してくれた年代記が、真実を伝えていると証明することはできない。懐疑主義に対する究極的な防御法は、存在しない」
「正しい見込みが高い仮説を提唱できるというだけだ」(リチャード・ゴンブリッジ/仏教学者/オックスフォード大学教授)
さらに伝える側の主観だけでなく、伝えられる側の主観も入るため、事実を伝えるということは難しいことです。
心理学者のゴードン・オールポートによれば、「あるメッセージが人から人へと伝えられていくとき、そのメッセージが字義どおりに伝えられることはほとんどない」といいます。
自分が思うよりも相手に伝わっていないと思い、相手を理解できるよう努め、一器の水を一器にうつすように仏法を伝えようと心がけるべきです。