シュリハンドク
小路という人がいます。
数多い釈迦の弟子の中で最も愚かな弟子として知られ、大愚の元祖ともいわれています。自分の名前も覚えられず、名札をつけているよう釈迦に言われていたような人です。ちなみに、この人の墓から生えてきた草を茗荷といいます。
対照的に、兄の大路は非常に賢い人でした。最初、大路は熱心に小路に教えていましたが、あまりに覚えが悪いため気力が尽きてしまいました。
「お前にはとても悟りを開けないだろう。あきらめてこの精舎から出て行くがいい」
大路からこう言われ、小路は悲しみ途方に暮れていました。するとそこへ釈迦が通りかかりました。
「こんな時間にどこへ行くのか」
「私は愚か者です。出家をやめようと思っています」
「お前は愚かさを知っている。兄の大路は知らないから、お前のほうが早く悟りを開くだろう」
小路は皮肉を言われていると思いましたが、釈迦は続けて次のように指示しました。
「この布切れをもって、訪れる人の埃や履物の泥を払いながら、『ちりを払え、あかを取れ』と唱えなさい」
とても覚えきれないと思っていた小路でしたが、弟子たちの協力もあり段々と覚えられるようになりました。
それから、何年かたったある日のこと、小路はふと思いました。
「この布は初めは綺麗だった。それがいつの間にか汚れてしまった。人の心もこの布と同じだ」
このような気づきを得て、小路は悟りを開いたといいます。
庄松
庄松という人も紹介しましょう。
知識は手段
このように、知識がなくとも悟りを開いた人はたくさんいます。逆に、知識がいっぱいあっても悟りを開けなかった人もたくさんいます。