【愛の欠点】人間の愛は盲目の愛。良かれと思ってやってあげたことが裏目にでる

人間の愛は、物事の分別がつかない盲目の愛です。
善悪というのは非常に複雑です。愛情から相手のために良かれと思ってやってあげたことが、結果として相手を傷つけたり裏目に出ることがあります。
ハチミツを与えられた生後6か月の男児が死亡するというニュースがありました。1歳未満の赤ちゃんがハチミツを食べることによって乳児ボツリヌス症にかかることがあり、ハチミツは1歳未満の赤ちゃんにはリスクが高い食品です。男児の家族は、そのことを知らなかったといいます。
ヨーロッパには「地獄への道は善意で敷き詰められている」という格言もあります。
火を消そうとして、水と間違えて灯油をかけてしまい家が全焼したというコントのようなニュースもありましたが、人間の愛はどれも、これと似たようなところがあります。
愛情からデマを広めたり、寄付金詐欺やオレオレ詐欺に騙されたりすることがあるのです。親切にされて最初は感謝していたものの、段々と親切にされることが当たり前になり、感謝を忘れ、不満を言い始め、親切にされなくなると恨むようになる、という流れもよくあることです。
こちらで説明したように善悪は非常に複雑です。

善悪はコロコロ変わる。殺人さえ善になる。相対善悪とは?善悪不二とは?善悪の区別がある世界に真の安らぎはない。

しかし、因果の法則は、そういった人間側の都合を一切考慮してくれません。人間関係であれば、「知らなかったのだから仕方ない」とか「愛情からやったのだから許そう」と大目に見てくれることもあるかもしれませんが、自然法則である因果の法則にはそういった容赦は一切ないのです。
中国は唐の時代、希運という禅宗の高僧がいました。希運は幼少から出家していたため、母親は何とかして希運に会いたいと思っていました。
ある日、母の様子が気になった希運は郷里を訪ねることにしました。母に遇うことができましたが、修行の妨げになると思い親子名乗りはしませんでした。
涙をこらえて舟に乗ろうとすると、希運と気づいた母が追いかけてきました。舟はすでに岸を離れ遠くにありましたが、狂乱状態の母は河に飛び込みました。流される母を見て、希運は松明を河に投げ入れるのみでした。そして、心の中でこう叫びました。
(1人出家すれば、一族は皆、天上界に生まれるとあります。希運は真の出家となり、必ずや母上を天上界に生まれさせて見せます。どうか悪く思わないでください・・・・)
聖道方便の仏教に迷ったために、母を見殺しにするという悲劇を生んでしまったのです。
ちなみに禅宗では、葬儀の時に松明を投げ入れる儀式がありますが、この希運の故事に由来します。
「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものを憐み、悲しみ、育むなり。しかれども、思うがごとく助け遂ぐること、極めて有りがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、急ぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、思うがごとく衆生を利益するをいうべきなり。
今生に、いかに、愛し不便と思うとも、存知のごとく助け難ければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候」(歎異抄)
(訳:聖道門の慈悲と浄土門の慈悲とでは違いがある。聖道門の慈悲は、ものをあわれみ、悲しみ、育むことであるが、思うように救うことは極めて難しいのである。それに対して浄土門の慈悲は、死の解決をして速やかに仏となれば、大慈悲心でもって思い通りにすべての生物を救えるのである。
今生でどれほど、愛しく不憫に思っても、思い通りには救い難いので、聖道門の慈悲は一貫しない不完全な慈悲である。だから、死の解決をすることだけが一貫した完全な大慈悲心なのである)
仏の慈悲を大慈悲といいます。「大」には「完全」「本物」「絶対」といった意味があります。人間の愛は、欠点のある不完全な愛ですが、仏の愛は完全な愛です。

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