十悪とは
十悪とは、世の中の悪を、大きく10種に分けて教えたものです。
次のように、心で造る悪が3つ、口で造る悪が4つ、身体で造る悪が3つ説かれています。
・心の悪
貪欲(とんよく):欲を貪る
瞋恚(しんに):怒り
愚痴(ぐち):真理に無知
・口の悪
綺語(きご):真実に反して綺麗な言葉で飾る
両舌(りょうぜつ):二枚舌を使う。離間語とも
悪口(あっこう):人を悪く言う
妄語(もうご):嘘をつく
・身体の悪
殺生(せっしょう):生き物を殺す
偸盗(ちゅうとう):人のものを盗む
邪淫(じゃいん):不純異性交遊
十悪より重い悪
この世には十悪より重い罪悪があります。
〇五逆罪
五逆罪は、簡単に言うと親殺しの罪で、十悪よりも重い罪です。
〇謗法罪
謗法罪は、仏法を謗る罪で五逆罪より重い罪です。
膨大な十悪を造っている
意識するとしないとにかかわらず、人間は日々膨大な量の罪悪を造っていると説かれます。
「心常念悪 口常言悪 身常行悪 曽無一善」(大無量寿経)
(書き下し:心常に悪を念じ、口常に悪を言い、身常に悪を行い、曽て一善無し)
(訳:心は常に悪を念い、口は常に悪を言い、身は常に悪を行い、今だかつて1つの善もしたことがない)
ここで重要なことは、非連続の連続を意味する「恒」ではなく、「常」を使っている点です。絶え間なく罪悪を造り続けているということです。
別の経にも、「一人一日のうちに八億四千の憶いあり、念々になすところこれみな三途の業なり」と説かれています。これは、「人間は一日の中で、無数の業を心で造っているが、これらはすべて悪業であり地獄行きの業である」という意味です。
他にも、膨大な罪悪を造っていることは聖教に縷々説かれています。
「もし起悪造罪を論ぜば、なんぞ暴風駛雨に異ならん」(安楽集)
(訳:もし悪を起こし罪を造るということを論ずるならば、どうして暴風や豪雨と異なろうか。暴風や豪雨の如く罪悪を造っているのである)
「もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずということなし」(口伝鈔)
(訳:元々、罪悪の塊である凡夫であるので、罪悪の大小に関係なく、心と口と身体で造る行為はすべて罪悪である)
死後は必ず地獄
悪い行いをすれば必ず悪い結果が返ってくるというのが、因果応報の法則です。この「行い」は身体や口の行いだけでなく、心の行いも含まれます。たとえば、「死んでくれたらいい」などと心で思えば、未来必ず相応の悪い結果が返ってくるということです。「思っただけ」では済まないのです。
人間の日々の行いを反省すると、身体で生き物を殺したり、心で人を殺したり、数多くの悪い行いをしています。
ですので、人間の死後は必ず地獄です。地獄は荒唐無稽な世界ではありません。実在する世界です。この世に地獄と形容できるような苦しみが実在するように、死んだ後にも実在するのです。自殺を防止するためでも、悪い事をやめさせるためでもないのです。
このことを以下の記事では科学的知見を交えて詳しく説明しました。
人間は罪悪に鈍感
「それだけ重い罪悪を造っていれば、強い罪悪感を感じるはずだ」と思っている人もいます。
しかし人間は、自分の苦しみには敏感ですが、人の苦しみや罪悪には鈍感です。
釈迦がまだ少年だった時、小鳥が虫を啄む光景を見て大きな衝撃を受けました。つまり、その光景から、虫を小鳥が食べ、その小鳥を大鳥が食べ、その大鳥を人間が食べるという食物連鎖の頂点にいる人間の罪悪に驚いたのです。
普通の人間は、ここまでは感じないでしょう。内側(自分自身の心)からも、外側(社会的な圧力など)からも力が働いているため罪悪はわかりにくくなっています。詳しくは以下の記事で説明しますが、大抵の人間の善悪観の基準は「法律」や「道徳・倫理」といったものです。しかし、これは人間が造った不完全な基準であり、粗くて罪悪を正確にとらえることができません。口や身体の悪の1部しか対象にしていませんし、心の悪に至ってはすべて対象外です。