【悪に強ければ善にも強し】凶悪犯から偉大な仏教徒となった人もいる

「悪に強ければ善にも強し」という諺があります。悪を徹底している人は、善に向いた時にも徹底するようになるという意味です。逆に言えば、悪に中途半端な人は、善にも中途半端という意味でもあります。
その人の行為が善か悪かという視点も大切ですが、徹底しているか中途半端かという視点も大切です。たとえれば、振り子のようなものです。左に大きく振れれば右にも大きく振れ、左に小さく振れれば右にも小さく振れます。

・善悪を区別している
正しいか否かは別として、「悪をしよう」と自覚しているということは、「善とは逆のことをしよう」と自覚しているということであり、善と悪を明確に区別しているということです。

・悪に鈍感な人は善にも鈍感
悪を徹底している人は悪に敏感な人であり、善にも敏感な人です。逆に、悪を造っているのにその自覚が無い人は、悪に鈍感な人であり、善にも鈍感な人です。

・人間は中途半端
詩人のポープは、「人間はすべて善でもあり、悪でもある。極端はほとんどなく、すべて中途半端だ」と言いましたが、人間は、善と悪の両方を中途半端にしています。

・最初の動機は何でもいい
求道を始めるに至る経緯は千差万別ですが、最初の入り方はあまり問題ではありません。その後の聞き方のほうが重要です。
「悪人」に限らず、「不真面目」「軟弱」「いい加減」「無責任」「わがまま」「飽きっぽい」等々、世間的に悪い評価を受けている人がいますが、その人は悪に強い可能性があります。
逆に、世間的に良い評価を受けていても、その人は善に弱い可能性があります。
もちろん、これだけでは判断できません。ただのクズもたくさんいます。ですが、世間的な評価だけでは判断できないのも確かです。
釈迦の弟子にアングリマーラという人がいました。彼は様々な経歴がある弟子の中でも特異な存在でした。優しくて聡明な男でしたが、邪師に騙されて1000人殺せば天界に生まれると思い込まされ、実際その通りに多くの人を殺し、彼らの指を切り取って首飾りにしていました。アングリマーラとは「指の首飾り」という意味です。
999人殺し、最後に自分の母親を殺そうとしたところで釈迦に出くわします。そこでアングリマーラは釈迦を殺そうとしますが、いくら追いかけても釈迦は遠ざかるばかりでした。「止まれ」と叫ぶアングリマーラに、釈迦は「私は止まっている。お前が止まっていないのだ」と説いたといいます。教化されて弟子となったアングリマーラは、その後、悟りを開きました。
バラモンの家に生まれた龍樹は、どんなことも一度聞いただけで理解できたといいます。青年時代には天文学や地理学など、多くの学問に精通し、他に並ぶものもなく名声も広がっていました。
学び尽くしたと思った龍樹は次に、快楽にふけることが何よりも楽しいだろうと考えました。そこで、国内の美女が集まっている王宮に目をつけました。3人の親友とともに王宮に忍び込むや、宮中の美女を皆、犯してしまいました。やがて、何人かの官女が身ごもったことが発覚すると、王は激怒し、曲者を見つけ次第殺すよう兵士に命じました。そこへ4人がやってきたものですから、たちまち兵士に囲まれ、すぐに3人の親友は殺されてしまいました。幸い龍樹は王を盾にして何とか逃れることができました。
友人を失い世の無常を強く感じた龍樹は、やがて仏門に入ります。爆発的な求道を開始すると、たちまち死の解決まで求め切りました。最終的に、インドの歴史で釈迦がいなかったら龍樹が最高の偉人だっただろうといわれるまでの人になりました。
耳四郎という大泥棒は、たまたま盗みに入った寺で説法を聞いて仏教徒になりました。
弁円という山伏は、親鸞の隆盛を妬み、親鸞を殺そうとしましたが、そのことをきっかけに仏教徒になりました。
東条英機は、戦争指導者として多くの人を殺し、自身も死刑となりましたが、刑務所で仏教と出遇いました。
彼らが造った悪は、結果的には悪ではなかった可能性があります。
念のために言いますと、罪悪を造ったほうがいいとか、罪悪感を感じなくてもいいといったことでは決してありません。

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