瞋恚とは
「しんに」と読み、怒りのことです。
三毒の1つ
煩悩の中で特に強いものが3つあり三毒といいますが、瞋恚は三毒の1つです。
瞋恚の恐ろしさ
「怒」という字は、心の上に奴と書きますが、欲が邪魔されると心の中で相手を「あの奴!」と切り刻むのです。冷静に考えれば損をすることは明らかなのに、一瞬の怒りが人生を破滅させてしまいます。
1回目の新型コロナウイルス緊急事態宣言が出される2日前、東京都江戸川区で、夫(59)が妻(57)を平手打ちしてケガをさせる事件がありました。夫は自ら119番通報しますが、その後、妻は頭を強く打ち搬送先の病院で死亡しました。夫は調べに対し、「妻から稼ぎが悪いといわれ、頭にきてやった」などと供述しているといいます。結婚して30年以上、近所の人たちによれば若い頃から「おしどり夫婦」として評判だったようです。
怒りがない人はいない
「あの人は何言っても怒らない」と言う人もいますが、たとえ怒らなくとも我慢して腹に溜めています。そして、きっかけがあれば爆発してしまうのです。
大阪でも、「お前、ええ身分やのう」と言われたことをきっかけに妻を殴り殺す事件がありましたが、男は「今まで我慢していたものが全部切れてしまった」と言い、初めて振るった暴力だったそうです。前から妻の言葉はきつかったようで、親族や友人も男に同情します。証人出廷した長女は「父だけが悪いようには思えない。重い処罰は望みません」と涙を流し、妻の弟も「義兄は温厚で優しい人。これは事件ではなく事故。刑を軽くしてほしい」と訴えているといいます。
ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇(83)がバチカンのサンピエトロ広場で、信者らの前を歩きながら挨拶していた時のことです。一人の女性が突然、教皇の手をつかんで引っ張りました。放そうとしなかったため、教皇は女性の手を叩いて、ふりほどいたといいます。
翌日、教皇は「我々はしばしば忍耐を失う。私もそうだ。昨日の悪い行いをおわびします」と謝罪しました。その前のミサで教皇は、「女性に対するいかなる暴力も、女性から生まれた神に対する冒瀆(ぼうとく)になる」と語っていたばかりでした。「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」の教えに従うことはできなかったようです。しかし、こんな教え誰が貫けるというのでしょうか。この点からもキリスト教の間違いを指摘することができます。
刑罰の限界
怒りの感情は理性を吹き飛ばしてしまう力を秘めています。刑罰を重くするだけでは限界があるでしょう。
「多くの進化心理学者が死刑には殺人を抑止する効果がないと考えているのもこのためだ。(中略)些細な口論がどんどんエスカレートして、抜き差しならぬ事態になるような現実の殺人事件の歯止めにはならないということだ」(アラン・S.ミラー/北海道大学教授/「進化心理学から考えるホモサピエンス 一万年変化しない価値観」より)
文教大学准教授の浅野正容疑者(51)が、法務省職員で妻の浅野法代さん(53)を殺害するという事件がありました。浅野容疑者は犯罪心理学が専門で、犯罪被害者支援にも関わってきたといいますから人一倍詳しかったはずです。同大学の益田勉(人間科学部長)は、「(浅野容疑者は)温厚で物静かな性格。大変驚いている」と述べ、学生も「とても温和で優しい先生だった。事件を起こすような人とは思えない」と話します。
犯罪心理学が専門の精神科医、加賀乙彦は145名の殺人犯と面接して、「犯行前に死刑を念頭に浮かべた者はただの1人もいなかった」と言い、「殺人の防止には、刑罰を重くするだけでは駄目なことは、私が多くの殺人犯に会ってみた結果、知り得た事実である」と言います。
近くに銃や核爆弾があれば使ってしまう恐れがあります。ですので、そういった悪縁を遠ざけて行くことも重要になってきます。
怒りで死ぬ
怒りの感情は自分の肉体にも悪い影響を与え、怒りのストレスで死ぬ人もいます。怒っている時の血液をマウスに注射するとマウスが毒で死ぬという話もあります。
怒気
体脱体験をしたという坂本政道は、体験後にオーラが見えるようになったそうで、一例として怒っている人を見て次のように語っています。
「何ともそら恐ろしい毒気が吹き上がっているように見えた」
「よく怒りの炎が燃え上がるとか言うが、あれは比喩でも何でもなかった」
「かげろうを見るように、単に物理的に湯気が見えていたのとは違っていた。怒りとか欲とかといった強烈な感情のかたまりがそこには感じられたのだ。それが、湯気のように見えたと言った方が適切かもしれない。よく頭から湯気を出して怒るという表現をするが、きっとあれも、見る人が見れば本当に湯気が見えるのかもしれない」
「この体験の後よくよくわが身を振り返ってみて、ぞっとする思いがした。今まで、気づかないうちに、どれだけたくさんの毒気を、周囲にまき散らしてきたことだろうか。怒り、欲、うらみ、怨念、などなど、すさまじいほどの毒気をばらまいてきていたのだ。これらの持つエネルギーは、我々が想像する以上に強烈だ。なんともおぞましいことだ。ただ、もっと恐ろしいことは、そんなことに一向に気づいていなかったことである」
「私は体脱体験をするようになってから、超常体験に関する本や、宗教に関する書物を読みあさったが、その中で、この疑似オーラ体験との関連で、仏教に関するものの中に興味深いものを見つけた。真言宗の僧侶となった苅萱道心という人の話である。彼はもともと加藤左衛門繁氏といって、筑前、筑後、肥後、肥前、大隅、薩摩の探題であった。ところが、花見の酒宴の最中に、花のひとひらが、盃の中に舞い落ちてきたのを見て、いたく無常を感じ、そのまま帰宅してしまった。家に帰ると、妻の千里と妾の須磨が、一室で琴を奏していた。いかにも仲睦まじそうに合奏していたが、障子に映った彼女たちの姿を見て、彼は驚いた。彼女たちの髪が、大蛇となって激しく噛み合っている様が映し出されていたのだ。彼はその夜、家を密かに抜け出て出家の身になったという。私が目撃したのは、大蛇ではなかったが、それに負けず劣らずおぞましいものであった」
怒りは悪とは限らない
こちらの記事で説明した通り、人間の善は雑毒の善ですから、一生懸命善をしている人は怒りやすいです。
逆に、怒りがでない人というのは、あまり善をしていない人ということになります。
悪を見て怒らない人というのは、悪を悪と思っていないということであり、悪に鈍感な人です。
もっと言えば、怒りのない人というのは人格的にゼロであり、心が死んでしまっているのです。
「怒り」を絶対悪ぐらいに思っている人は多いですが、悪とは限りません。たとえば、泥棒が家に入れば当然ケンカになります。盗まれても殴られても、怒らず何もしなければ、それこそ悪というものです。ガンジーは、たまたま殺されなかっただけでしょう。怒る人がいることで全体の協調行動が増えるという研究もあるようです。
「怒りという感情はないほうがよいと考えがちであるが、社会の中に怒る人がいるというのは案外重要なことのようだ。人間が協力して暮らしていくのに、怒りが大事だというのは意外かもしれない。ただ単に怒りっぽいだけでは、人としてはとっつきにくいが、怒るべきときに怒り、過度に自己中心的な人や、社会の規範を守らない人を罰するというのは、社会の秩序を維持するために、世の中の役に立っているのかもしれない」(金井良太/認知神経科学者/元英国サセックス大学准教授)
もちろん、怒っている人がすべて正しいとは限りません。
また、たとえ怒りを口にしなくとも表情などに必ず表れます。こういったことがわかってくると、その人が本当に善をしたかどうか証拠の1つになり、嘘を見抜いたりすることもできます。