愚痴とは
「ぐち」と読み、因果の法則といった真理に無知な心です。
「愚」は愚か、「痴」も知が疒(やまいだれ)に入っています。
つまり、バカの中のバカということです。莫迦(ばか)の語源ともされています。
三毒の1つ
煩悩の中で特に強いものが3つあり三毒といいますが、愚痴の煩悩は三毒の1つです。
縁を因と間違える
すべての結果は因と縁が結びついたものですが、縁を因だと間違え、縁を恨む心が愚痴です。素直に自業自得だと反省できればいいのですが、自分に原因があるとは思えず、不幸の原因を他人や環境など、他に見出そうとする心です。
「泥棒が縄を恨む」という諺があります。縄に縛られた泥棒が、「苦しいのは縄のせいだ」と縄を恨んでいるということですが、これが愚痴です。泥棒の今の苦しみは、自身の過去の悪い種蒔きが原因であって縄ではありません。
・とっさに愚痴が出る
たとえば、石につまずいたり柱に体をぶつけたりした時に、とっさに石や柱、またはそこに置いた人に対して怒りがでます。
小さな痛みだとわかりにくいかもしれませんが、大きな痛みだとより強く出ます。それぐらい人間は愚痴が染みついており、瞬間的に因果の法則をはねつけてしまうということです。
・縁の責任
たとえば、重大な事故や犯罪に巻き込まれた被害者がいるとします。この場合であっても、因は被害者にあり、加害者は縁となるのです。
誤解する人も多いですが、加害者に責任がないというわけではありません。たとえば、交通事故に遭って、「自分が原因だからあなたは悪くない」と考え、示談も何もせずに去っていった人がいますが、これは因果の法則を聞き誤っています。因だけでは結果にならず、加害者には縁としての責任があります。
・愚痴で苦しむ
「人を呪わば穴二つ」という諺があります。人を恨めば自分も恨み殺され、相手と自分の2つの墓穴が必要であることをたとえた言葉です。天に唾吐けば自分に返るように、悪因は必ず悪果となります。
他人の幸せを妬む心
愚痴は、他人の幸せや成功を妬む心を生じさせます。いわゆる「隣の芝が青く見える心」です。
「我々は他人が幸福でないのを当たり前だと考え、自分自身が幸福でないことにはいつも納得がいかない」(エッシェンバッハ/詩人)
「我々は他人の幸福をうらやみ、他人は我々の幸福をうらやむ」(プブリリウス・シルス/劇作家)
「よい仲も 近頃疎く なりにけり 隣に倉を 建てしより後」という古歌もあります。現代では、「リア充爆発しろ」という言葉もありますが、これからも様々な言葉でこの心理が表現されていくでしょう。
グーグルのデータサイエンティスト、セス・スティーヴンズ著「誰もが嘘をついている」には次のような話もあります。
「エコノミストは宝くじの偶発性を利用して、急にリッチになった人々のご近所さんの暮らしがどうなったかも観察している。データは、ご近所さんが宝くじに当たるとあなたの暮らしも変わることを示している。あなたもBMWのような高価な自動車を買うようになりがちなのだ。エコノミストはそれを、成金のご近所さんが高価な車を買ったことへの嫉妬心のためと考える」
そして破産率が大幅に高まるのだといいます。
どれほど成功し欲しいものを手に入れても、嫉妬心はなくなりません。一度手に入れると、今度は他のものが良く見え、自分のものが貧相に思えてきたりするのです。
「誰もが自分の選んだ運命や偶然与えられた運命に満足せず、他の道を歩んだ人々を羨むのはどういうわけだろう」(ホラチウス/詩人)
タレントの神田うのが窃盗被害に遭った時、神田を非難する声も少なくありませんでした。犯人は雇っていたベビーシッターでしたが、要するに、「嫉妬心を刺激するほうも悪い」というのです。ちなみに、この後にも彼女は同様の被害に遭っています。
愚痴を動機にした犯罪も後を絶ちません。「自分は努力しても報われない、努力していない人が幸せになっている、許せない」という具合です。
人気漫画「黒子のバスケ」をめぐる連続脅迫事件。「500通くらい脅迫文を送った」という犯人の渡邊博史は、その動機について次のように語っています。
「『手に入れたくて手に入れられなかったもの』をすべて持っている『黒子のバスケ』の作者の藤巻忠俊氏のことを知り、人生があまりに違い過ぎると愕然とし、この巨大な相手にせめてもの一太刀を浴びせてやりたいと思ってしまったのです」
「自分の人生と犯行動機を見も蓋もなく客観的に表現しますと、『10代20代をろくに努力もせず怠けて過ごして生きて来たバカが、30代にして人生オワタ状態になっていることに気がついて発狂し、自身のコンプレックスをくすぐる成功者を発見して、妬みから自殺の道連れにしてやろうと浅はかな考えから暴れた』ということになります。これで間違いありません。実に噴飯ものの動機なのです」
また、柏市連続通り魔事件の被告は「テロを起こして、理不尽な社会に復讐したかった」と言い、世田谷区で踏切に一升瓶を置き逮捕された男は「幸せな人を妨害したかった」と言っています。
「彼らは特別おかしい人間で自分は違う」などと思っていたら間違いで、すべての人間に愚痴があります。
自分が受けた苦しみは現実であり、ちょっとした苦でも嫌ですが、他人の苦しみはフィクションであり、劇作家のオスカー・ワイルドが言うように、「他人の悲劇は、常にうんざりするほど月並み」です。
自分は多大な努力をしているのに小さな結果しか得ていないように思えますが、他人は少しの努力で大きな結果を得ているように見えます。
口では、「自分の人生なんて大した人生ではない」と言っている人でも、腹底では、「自分の人生ほど波乱万丈な人生はなく、映画にしたら超大作になる」ぐらいに思っているものです。いわゆる「悲劇のヒロイン症候群」です。他人からすれば、「誰もそんなの興味ない」と思いますが、本人には欲目が働いているのです。
ネットと愚痴
現代はネット社会です。ビートたけしは掲示板を便所の落書きと言いましたが、ネットは愚痴と相性がよく、愚痴で溢れています。実生活では大人しいのにネットでは暴れる、いわゆるネット弁慶もたくさんいます。
元朝日新聞植村隆記者の娘(17)への脅迫ツイート事件で、弁護団長の阪口徳雄弁護士は、被告の姿を見た感想を次のように語っています。
「小柄な、中年男性だった。年齢は40代の半ばごろか。大人しそうな、それも中年の男性が、17歳の高校生にこんなひどい書きこみをするのか・・・・。ネットという暗闇に向かっての書き込む威勢とリアル社会での被告の姿との落差に驚いた。ネット右翼と呼ばれる生の人物を見た一瞬だった」
また、ブロガーの「はあちゅう」は次のような話をしています。
「ツイッターでしつこくアンチ行為をしてくる人の身元が割れた。子供と一緒に出演したメディアで夢を語る主婦の方だった。表の顔では夢や希望を語り、一方で誰かに執拗に粘着し、アカウントを複数つくり、悪口を書き込み、陥れようとする。これが人間なんだなぁって感じ」
「その人が本名でやっているインスタは、人への感謝と充実した私の発信でぎゅうぎゅうだった。裏の陰湿さとのギャップが怖すぎる」
こういう仕事柄、私も迷惑メールをたまに送りつけられます。いつもは無視するのですが、ある時、その中の1人と話をしてみようと思い電話したことがあります。向こうは、まさか本当に電話してくるとは思わなかったようで驚いていました。メールの勢いはどこへやら、別人のように大人しくなり謝っていました。それからメールはしてこなくなりました。
これからネットの匿名性は低くなっていくでしょうが、愚痴の煩悩がある限り、形を変えて続いていくことでしょう。
他人の不幸を喜ぶ心
逆に言えば、他人の不幸や失敗を喜ぶということです。いわゆる「他人の不幸は蜜の味」という心理です。
事故現場で写真を撮ったり、ケンカが終わるとがっかりしたり、他人の失敗談になると目の色が変わったり、「怖い!」と言いながら指の隙間から覗いてみたりといった具合です。
当時者となれば嫌ですが、対岸の火事は楽しいのです。
「火事と喧嘩は江戸の花」とか「隣の貧乏雁の味」という諺もあります。ドイツ語のシャーデンフロイデという言葉もよく知られています。この心理を表現した言葉も枚挙にいとまがありません。
「幸福——他人の不幸を眺めることから生ずる快適な感覚」(ビアス/作家)
「不幸なる人々は、さらに不幸な人々によって慰められる」(イソップ/作家)
「人は自分が幸福であるだけでは満足しない。他人が不幸でなければ気がすまないのだ」(ルナール/小説家)
「陰口をきくのはたのしいものだ。人の噂が出ると、話ははずむものである。みんな知らず知らずに鬼になる。よほど、批評はしたいものらしい」(小林秀雄/批評家)
ビートたけしは次のように語っています。
「お客さんたちは、いい人を見るより大久保清を見たがるんだよ、絶対に」
「他人の不幸を見ることによって、今の自分がどんな位置にいても慰められる。『あれに比べればいいんだよ』って」
「トラックに追突されて一家五人が死亡ってニュースを見ると、かわいそうに思うけど、よけいに自分が幸運に感じてしまう。しかも、もっと怖いことに、無意識のうちに『もっと不幸なヤツはいないかな』と探している時さえあるんだから。他人のどんな悲惨な様子を見ても、身につまされないっていう感性。そういう感性があまりに根深いから、人間ってのはそういうふうにできちゃっているのかなって思うことがある」
「痛い目とか不幸な目に合うと人間がよく見えてくるね。調子が悪くなれば友情なんてどんなものか、電話のひとつもかからなくなるから身にしみてわかるはずだ。
ところが、そのとき電話をかけてきて、『どうしている』といってくれる人がいると、感激して本当の友達だなんていう。一見その人がやさしく見えるんだけど、それは違うんだよ。そいつは駄目な具合を再確認しにきただけであって、『大変だな、頑張れよ』と言いながら、心の中では笑っている。いいひとに見えるけれど、悪なんだね。実際は。
女の雑誌の凄いところは、そういうダメになったかわいそうな話ばっかり載っけていることだね。それ読んでみんな涙しているんだけど、実は嬉しくてしょうがない。私よりまだひどい人がいたって。女性週刊誌を買うっていうのは、電話をかけて不幸を確認しているのと同じことだ。他人の不幸はわが家の祭りなんだね」
「みんな自分の下だと思うものを見下しておいて、自分の価値を見定めているような、そういう性格の悪さってのが基本にある」
「悲惨な事件を見ると安心してしまうという心の動きがあるんだよ。野球選手がぶつかって大けがしてくれねえかと思っているんじゃないかという。だから、三浦知良が試合中に顔面骨折したとき、ほっとしたところがある。ヤバイなこういう感覚」
人類学者のフランシス・ラーソン(オックスフォード大学名誉研究員)は、「斬首動画が何百万回も再生されてしまう理由」と題した講演で次のように語ります。
「欧米で残酷な公開処刑がなくなった理由は、死刑囚への配慮からという面もありますが、見物に来る観衆の振る舞いがあまりにひどく、まったく手に負えなかったからでもあります。処刑があると、その日は厳かな儀式どころか、お祭り騒ぎになることがあまりに多かったそうですからね。現代の欧米で法の下での公開処刑はありえませんが、だからといって時代が変わったんだとか現代人はそんな野蛮なことはしないなどと思うのは短絡的過ぎます」
「観るという行為は受身の正反対です。見せたいという殺人者の思惑通りに動いているのですから、縛られ無力な状態で今にも殺されようという被害者は、必然的に犯人のショーの中の手駒と化しています」
「もう観るのは止めるべきです。でも無理ですよね。歴史がそれを物語っていますし、殺人者たちにもわかっているのです」
「自殺を考えてビルの屋上に上がった人を見に来た人々で人だかりができます。そして野次が飛び始めます。
『早くやれ!飛び降りろ!』
これはかなりよく知られた現象です。1981年発表のとある論文によれば自殺予告のあった21件のうち10件に見物人の野次や『けしかけ』があったそうです」
精神医学者の高橋英彦(京都大学准教授)は著書「なぜ他人の不幸は蜜の味なのか」で、「人間の脳は、他人の不幸を蜜の味であると感じるようにできている」と言い、脳メカニズム的に証明されるといいます。
「人間の脳の中に他人の不幸を喜んでしまう回路が存在しており、しかもそれは私たちの意識とは無関係に勝手に働き、自然と心地よい気持ちになってしまう」(高橋)
この心理は、様々なところで利用されています。
江戸時代に、士農工商の身分制度がありました。士は武士、農は農民、工は職人、商は商人のことです。さらにこれらの下に「穢多」「非人」が置かれましたが、この心理を利用したともいわれています。つまり、「下見て暮らせ」と言うわけです。ちなみに、この人たちの子孫が今日でも部落出身者として差別を受けています。
AKBの指原莉乃は、「アイドルは不幸感が大事」と言っていましたが、好感を得るために不幸をアピールする人はたくさんいます。
愚痴の煩悩がある限り、ゴシップ誌などの仕事もなくなることはないでしょう。「くだらない」と言いつつも、くだらないと思えないくだらなさがあるのです。
・もっと不幸を求める
また、この「蜜の味」も無常の幸福です。慣れてくると満足せず、もっと残虐な不幸を求めるようになります。
「首切りシーンを目の当たりにしながら、なお平気だったり、むしろがっかりするなどという人間の性質が最も顕著に現れたのは、1792年フランスでギロチンが登場したときでしょう。皆さんご存知の、いわゆる首切りマシーンです。21世紀に生きる私たちには恐ろしい怪物のような装置に思えるかもしれません。
しかしギロチンを初めて見た人々には、むしろ期待外れだったのです。それまでは処刑台上で焼かれたり切り刻まれたり、ゆっくりと八つ裂きにされる長く痛々しい処刑を観慣れていた観衆にとって、ギロチンでの処刑はあっという間で見どころがないというわけでした。刃が落下すると頭が落ちてかごに入りすぐに片づけられる。見物人たちはそれを見て『首切りはつまらん!絞首刑に戻せ!』と叫んだとか」(フランシス・ラーソン)
・死んだ人は不幸な人
死は不幸の最たるものなので、死んだ人に対しては嫉妬心が和らぎます。生前、非難を浴びていた人が、死ぬと急に称賛されるということはよくあります。生きている人に厳しく、死んだ人に優しいのが人間なのです。
・同情と嫉妬を繰り返す
不幸な人を見れば同情し助けたいと思いますが、その人が幸せになったと思うと今度は妬むのが人間です。
「誰でも他人の不幸に同情しない者はない。ところがその人がその不幸を、どうにかして切りぬけることができると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して言えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くようなことになる」(芥川龍之介)
・苦しくなるほど愚痴は強くなる
人間は他人の不幸に対しては、「自業自得だ」と舌鋒鋭く批判しますが、自分に不幸がやってくるとそう簡単には納得できません。その一方で、幸せがやってくると、「自分の努力の賜だ」と誇ります。心理学でいう自己奉仕バイアスです。
「ある実験では、疎外感を持たされた被験者のほうが他者を厳しく評価し、実験の課題のルール上制裁が必要になると、他の被験者により多くの罰を与えることに賛成した」(ジョン・T.カシオポ著「孤独の科学」より)
以前、「幸せな人を妨害する」というスタンスで活動する芸能人がいました。ところが、その人に恋人ができて幸せになるや、「皆、幸せになればいいと思うようになった」といい妨害するのをやめたそうです。
人を傷つける人というのは、だいたい自分も苦しんでいたりするのです。
・恨みもエネルギーを使う
恨む人は多いですが、続かない人も多いです。長く恨み続けるということは、膨大な負のエネルギーを使うからです。
・女は愚痴で破滅する
愚痴は女性が特に強い煩悩です。一般的にも、男性は理性的で女性は感情的な生き物といわれます。ココ・シャネルは、「女というものは、これすなわち、妬み+虚栄心+おしゃべり+精神の混乱」と言いました。「悲劇のヒロイン症候群」も「ヒロイン」となっています。
哲学者のラルフ・ワルド・エマーソンは、「軽薄な人間は運勢を信じ、強者は因果関係を信じる」と言いましたが、物事の善悪や正邪を判断するのは、感情ではなく理性です。ですので女性のほうが、たとえば、おかしい宗教や迷信に騙されやすいです。もちろん、個人差はあり、あくまで比較の問題です。女は愚痴で破滅してしまうので、この点、男を見習うべきです。
また、最近は占いを信じる男性が増えているようですので、男性の女性化が進んでいるのではないでしょうか。
深信因果
人間は、愚痴の煩悩があるため、因果の法則を深く信ずることができませんが、死の解決をすることで、因果の法則を露塵の疑いなく信ずることができます。これを深信因果といいます。
・一切に感謝できる
無常の幸福でも、手に入れれば幸せを感じ、人に感謝する心が生まれ、皆にも幸せになってほしいという心が生まれます。
過去の不幸な体験にさえ、「あの時の苦しみがあったから今の幸せがある」などと感謝できるでしょう。まして、死の解決です。一切に感謝できるようになります。
逆に、死の解決をしなければ、究極の不幸である地獄に堕ちることになるので、最期は一切を恨んで死んでいくことになります。