真実を追究すると敵が出てくる。仏教に学ぶ誹謗中傷の受け止め方

本当のことを言って好かれればいいですが、現実はそうはいきません。どうしても嫌われる覚悟が必要になります。

真実を追究すると必ず敵が出てくる

真実を追究していくと、自ずと正誤が区別され、間違った教えを潰すことになります。
すると、間違った教えを信じている人からは反発されます。「至言は耳に忤う」「良薬は口に苦し」といった言葉があるように、真実は耳障りが悪く感情が反発しやすいものです。
無知からくる反発もあります。そのため、釈迦を殺そうとした提婆のように、いつの時代も仏教には敵が出てきます。
承元元年、後鳥羽上皇による浄土門弾圧が起こりました。世にいう承元の法難です。
松虫、鈴虫という御所の女官が、法然の弟子である住蓮房と安楽房の話を聞きにいったことが、そもそもの始まりです。日頃から世の無常を感じていた松虫と鈴虫は、出家を願い出て髪を切ってしまいました。
それを知った上皇は嫉妬に怒り狂いました。これに、日頃から浄土門を目の上のたんこぶと思っていた聖道門諸宗の者たちが乗じ、上皇に浄土門の悪口を讒訴しました。すぐに上皇は念仏停止の禁令を下しました。そして住蓮房と安楽房を打ち首にし、法然と親鸞を流刑にしました。住蓮房は殺される直前、上皇に向かって、「必ず仏罰(悪因悪果)がくだるぞ!」と言い放ったといいます。
また親鸞は、この弾圧に対し、教行信証で、「主上・臣下、法に背き義に違し、忿を成し、怨を結ぶ」と怒りの筆をふるっています。主上とは天皇のことです。先程も説明したように、封建時代に天皇批判ですから、死を覚悟してのことです。
このように妨害してくる敵がいっぱいいますが、これは仏教だけに限りません。
たとえば科学のパイオニア的な人には、必ず敵が出てきます。ガリレオしかり、福来しかり(詳しくは第1巻)。
敵を作ろうと思ってやっているのではなく、真実を追究していくと、どうしてもそうなってしまうのです。真実を追究する人の宿命のようなものです。
「いつだって、偉大な先人たちは凡人たちの熾烈な抵抗に遭ってきた」(アインシュタイン)

「いつの時代でも、どこの国でも、新しき真理の発見は悪魔外道から迫害されるものである。しかし、いかほどの迫害があっても、真理は成長せずにはおかぬ」(福来友吉)

地動説を支持したために火刑に処せられた哲学者のジョルダーノ・ブルーノは、「あなた方は真理におののいている」と批判して死んでいきました。
これからも人間に都合が悪い真実が明らかにされるたびに、敵が出てくるでしょう。

敵が出ないのは活動していないから

出る杭は打たれます。裏を返せば、敵が出てこないということは活動していない証拠です。よくいわれる通りです。
「今の評価がやたらと気になるというのは、みんなに好かれたいと思うからなんだ。敵が百人なら味方も百人。敵が多いやつほど、本当の支持者も多いってことがわかっていない。タレントでもそうだよ。雑誌に悪口の一つも書かれないというのは、タレントとしてはもうお終いってことだよ」(ビートたけし)

「敵が野次をとばさなくなったら、自分はもうおしまいだと思うでしょうね。敵がいるからこそ私は奮い立つのであって、下卑た野次を彼らの喉元まで押し戻してやりたいと思うのです」(マリア・カラス/オペラ歌手)

「悪名が高ければ高いほど仕事が来るようになるのよ。そんなこともわからないの?」
「あたしが興味をもっているのは人を怒らせることなんだから」(マドンナ/歌手)
劇作家のオスカー・ワイルドは、「うわさになるより悪いのは、うわさされないことだけである」と言いました。
ある国会議員は、「現職議員のときは良くも悪くも電話が鳴りっぱなし。落選すると両方なくなる」と言っていました。
もちろん、敵がいるからといって正しい活動をしているとは限りません。

誹謗中傷の受け止め方

もっとも、現代の日本は憲法の保障もあり、敵といっても悪口(それも陰口)を言われるぐらいです。

基本は無視

誹謗中傷に限らず、おかしい人は無視するのが得策です。教行信証に、「仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥じず」と説かれている通りです。「仏の恩の深いことを思い、人があざけるのを恥とは思わない」という意味です。
第4巻でも説明した通り、「恨む」というのは膨大な負のエネルギーを使うため、大抵は長続きしません。仏教に対する徹底した敵というのは現代ではまずおらず、中途半端な敵です。

負けるが勝ち

勇気を出すことは、だいたい善であることが多いですが、何といっても相手は極悪人です。正義を貫いて殺されてしまうかもしれません。死の解決をするまでは危険な状態にいることも知るべきです。
「負けるが勝ち」という諺があります。おかしい人には謝ったり関わらないようにし、話しが通じる人だけを相手にすべきです。釈迦のように強い神通力を使えるわけでもないので、ケンカの仕方も考えなければなりません。
蓮如は、「たとい、牛盗とはいわるとも、もしは善人、もしは後世者、もしは仏法者と見ゆるように振舞うべからず」と言い、仏教徒であることを隠せと命令したことがありました。仏教徒に恨みを持った人たちが、今日では想像もできないぐらいの乱暴を働き、信者の命を守るためにこう言ったのです。現代の日本では、言論の自由が憲法で保障されているため隠す必要はありませんが、負けるが勝ちという視点は大切です。

嫌われる覚悟

人の評価を気にし、人から好かれたいと思っているから本当のことが言えないのです。
小説家のアンドレ・ジットは、「作り物の自分を愛されるより、ありのままの自分を憎まれる方がましだ」と言いましたが、「嘘を言って誉められるより、嫌われてもいいから真実を言おう」という覚悟が必要です。一生涯しゃべり続けても誰にも理解されず、死ぬまで嫌われ者でも構わないと覚悟することです。
人の評価を気にしすぎていることを自覚し、言いたいことを言い、やりたいことをやるように努めないと後悔してしまいます。
老人を対象にしたアンケートでも、「人の評価を気にしなければよかった」と後悔する人が多いようです。
内側からは名誉欲といった煩悩、外側からはモラルといった大衆の力が邪魔するので、そういった力と闘う必要があります。

因果の法則が罰を与える

また、こちらが何かしなくとも因果の法則が狂いなく悪果をもたらします。芥川龍之介は、「他を嘲(あざけ)るものは同時にまた他に嘲られることを恐れるものである」と言いました。
ジャータカ(釈迦の前世物語)には「サルと水牛」の話があります。
ある時、繁栄を誇る水牛の王が森を歩いていました。
嫉妬したサルは水牛の王に向かって、石を投げたり、大便や小便をひっかけたり、あらん限りの悪口を浴びせていたずらしました。しかし、水牛の王はじっと我慢していました。
それを見ていた森の主が、どうして怒らないのかと聞くと、水牛の王は、「私がやっつけなくても、悪い行いをする者は自然に懲らしめられるものです」と笑って答えました。
しばらくして、別の短気な水牛が通りかかりました。サルが同じようにいたずらすると、その水牛は角でサルの心臓を突き刺し殺してしまいました。
この水牛の王は釈迦の前世です。

真実だから謗られる

さらに、謗られるほど、仏教の真実性が確信でき、喜びにもできます。
「この法をば信ずる衆生もあり、謗る衆生もあるべしと、仏説きおかせたまいたることなれば、われはすでに信じたてまつる。また人ありて謗るにて、仏説まことなりけりとしられ候。しかれば往生はいよいよ一定とおもいたまうべきなり」(歎異抄)
(訳:「仏法を信じる人もいれば、謗る人もいる」と釈迦は説いている。私はすでに信じており、謗る人もいるので、仏説は真実であったと知らされている。だからこそ往生は必定であると、ますます確信するのである)

本当の味方も出てくる

はっきりと真実を言わない人は、敵はあまり作らないでしょうが、本当の味方もできないということがいえます。

敵と味方はワンセット

ちなみに、すべての人から好かれることも嫌われることも不可能です。第4巻で説明したように、一切には善悪両面があり、絶対的な善も悪もないのですから批判しようと思えばいくらでも批判できます。
どんなに正しいことをしても批判する人がおり、どんなに悪いことをしても称賛する人がいます。経には、「黙っていても非難され、多くしゃべっても非難される。また、あまりしゃべらなくとも非難される。非の打ち所がないものはこの世にはいない。常に非難されるだけの人、または常に褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないだろう」と説かれています。
夏目漱石は、「智に働けば角が立つ。情に棹せば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角にこの世は住みにくい」と言いました。
何をやっても敵と味方がついてきます。釈迦でさえ敵がおり、提婆でさえ味方がいます。富士山でさえアンチはおり、凶悪犯にさえファンがいます。
ネットのコメント欄などを見ても、そういったことがよくわかります。ネット記事のコメント欄には「そう思う」と「そう思わない」の2つのボタンがついていることが多いですが、どんなコメントにも両方ボタンが押されています。それも1人や2人ではありません。
また、芸能人など、「好きな〇〇、嫌いな〇〇ランキング」なるものがよくだされますが、両方に同じ人がランクインしていることがよくあります。

ほとんどは無関心

実際、開顕していくとどうなるかというと、伝え方にもよりますが、送られてくるメールの内容等も考慮すると、99%無関心、0.9%好意的、0.1%敵対的という印象です。かなりわかりやすくしましたが、敵よりも味方のほうがずっと多く、味方よりも無関心のほうがはるかに多いということです。
自分が80億近い人のほとんどに関心がないように、人も自分に関心がないのです。
100万人が読んだ本があるとします。10万部売れればベストセラーといわれていますから、大ベストセラーです。しかし、裏を返せば、99%以上の国民が読んでいないということであり、ほとんどの人は関心がないのです。
実際はこういう内訳であるのに、人間は煩悩があるので少数の悪い評判に目が向きやすいです。誹謗中傷を苦に自殺する人がいるのもそのためです。

悪口ぐらいでは足りない

そして、人間の誹謗中傷ぐらいでは足りないということもいえます。なぜなら、人間は無間地獄しか行き場のない極悪人だからです。どれほど口を極めて非難されてもまったく足らず、中傷されて傷ついているのは己知らずなのです。

本心はビクともしていない

ちなみに、誹謗中傷を気にして苦しむのは分別智である意識であって、人間の本体である阿頼耶識はビクともしていません。

無視できない批判もある

中には的を得た批判もあるので、何でも無視するわけにはいきません。
「批判には耳を傾けるべきね。役に立つもの。あたしのすることに対してその場の100人のうち99人が気に入ってくれたとしたら、気に入ってくれなかった1人のことだけを覚えておくわ」(マドンナ/歌手)
蓮如は、次のように陰口でいいから言ってほしいと言っています。
「常には、我が前にては言わずして、蔭に後言いうとて、腹立することなり。われは、さように存ぜず候う。我が前にて申しにくくは、蔭にてなりとも、我が後ろことを申されよ。聞きて心中を直すべき」(御一代記聞書)
無視して通れない批判もあるので、反論し、どちらが正しいか明らかにする必要があります。これを法論といいますが(宗論ともいう)、真実を明らかにする重要な議論であり、いわば「聖なるケンカ」です。「他の宗教を悪く言うのはよくない」とか「ケンカはよくない」という人は少なくないですが、そうではないのです。間違った教えを説く宗教があれば、間違いを指摘する必要があります。

死がある限り信念を貫けない

第3巻で説明した通り、結論から言えば、どんなに強い信念を持っていても、死がある限り貫き通すことができません。本物の死の恐怖を前にすれば一瞬で折れてしまいます。「死を突きつけられても信念を貫ける」などと思っていたら、それは自惚れです。死を解決しない限り、真に自由な活動はできないのです。誹謗中傷でぐらついている心を見つめ、根本解決である死の解決へ向かうべきです。

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