念仏には2種類ある。念仏を称えるだけでは救われない

念仏とは

南無阿弥陀仏と称えることを念仏といいます。

御礼の言葉

日本語では「ありがとう」、英語では「thank you」と言うように、阿弥陀仏に対する御礼の言葉が念仏です。
「馬の耳に念仏」という諺があるぐらい、念仏は有り難いものの代名詞となっていますが、念仏には、「自力の念仏」と「他力の念仏」の2種類あることを知る必要があります。

自力の念仏

死の解決をせずに称える念仏を自力の念仏といいます。
・救われない
仏教は、「信心正因 称名報恩」の教えです。
念仏を称えていれば助かると思っている人を「称名正因の異安心」などといいますが、自力の念仏には、「称えれば救われる」といった祈願請求の意味はなく、中身のないカラ念仏です。
「ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、極楽に往生すべきやうにおもひはんべり。それはおおきに覚束なきことなり」(御文)
(訳:ただ声に出して南無阿弥陀仏と称えていれば極楽に往生できるように思っているが、それは大きな間違いである)

「仏号むねと修すれども 現世をいのる行者をば これも雑修となづけてぞ 千中無一ときらわるる」(高僧和讃)
(訳:南無阿弥陀仏を宗として念仏を称えても、名利を目的とする人は、これもまた雑修と名づけて、千人に一人も救われる者はいない)
念仏で救われようとする人は、必ず回数が問題になります。称える回数が少ないと、「救われないのでは」と不安になるのです。
たとえば、浄土宗という宗派があります。浄土宗で化土往生するには、次の3つの条件が必要だとされます。

1.1日7万遍から8万遍の念仏を死ぬまで称え続ける
2.正念往生
3.臨終来迎

浄土宗の管長を務めた福田行誡は、1日7万遍から8万遍の念仏を死ぬまで称え続けたといいます。
しかし、彼は死ぬ間際に弟子から「助かりますか」と聞かれた時、「化土に生まれたらよいがのう」と言って死んでいます。死んでみなければ助かるかどうかわからない教えなのです。そのため教行信証には、「定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し」と説かれています。「定心と散心の自力の信心に迷って、他力信心を知らない」という意味ですが、これは浄土宗批判です。
善をした時など、無性に集中できる時があります。そういう時は真剣な聴聞ができ、心がこもった念仏を称えることができます。「この調子なら、すぐに死の解決ができるぞ」と喜んだり、「どっこいしょ」している人であれば「間違いなく自分は救われているぞ」とますます自惚れる心です。「どっこいしょ」とは、死の解決をしていないのにしたと思い込み、安心してしまっている状態をいいます。
しかし、調子がいい時だけではありません。人間は悪いこともします。すると、まったく聴聞に集中できません。真剣な聴聞ができず、念仏にも心がこもりません。「こんなことでは死の解決がとてもできない」と嘆く心です。
ある時は助かるように思え、ある時は助からないように思える、それを「定心と散心の自力の信心に迷う」といいます。

・最後の自力の牙城
自力の念仏が意味がないということではありません。仏を念じるわけですから、自力の念仏は信心や宿善につながります。しかし、あくまで信のための自力の念仏です。
念仏と信心の関係から、念仏は称えたほうがいいとも称えないほうがいいともいえませんが、念仏を称えない求道者は未熟な段階です。求道は自力いっぱいで求めますが、最後の自力の牙城は念仏だからです。

・念力はベクトル
求道とは念ずる力を強くする道ともいえます。
もちろん、ただ念力を強くすればいいというわけではありません。ユリゲラーや御船千鶴子のほうが助かりやすいかというと、そうではないのです。努力はベクトルであり、念力はベクトルです。ベクトルとは「方向」と「大きさ」の2つの意味を含めた言葉です。正しい向きであることが大前提として必要です。かといって向きが正しいだけでも不十分です。大きさも必要です。正しい向きと大きさの両方揃う必要があります。

努力はベクトル。正しい人生の目的を知ることが最優先。目的を間違えれば努力は報われない。成功するにはどれくらい努力すればいいのか。

祈りの研究で知られる医師のラリー・ドッシーは、祈りの効果の有無は「訓練、興味、経験がものをいうことを示している」と言います。
「祈りに技術的な要因があるとしても、おかしいことではない。祈りには集中した精神状態がともなう。それは内的な静けさ、落ち着き、穏やかさの状態でもある。自分の心を鎮めようとしたことのある人なら誰でも、それがどんなに大変なことかわかるだろう」
「仏教では、私たちの落ち着きのない日常の精神状態を『猿の心』と呼ぶ」(ドッシー)
将来的には、念力の向きも大きさも数値で可視化できるようになるでしょう。つまり、求道者としてどれくらいのレベルにいるのか、ゴールまで何がどれくらい不足しているのか、つまり人間として何点なのかといったことが数値でわかるようになるでしょう。

他力の念仏

死の解決をして称える念仏を、他力念仏といいます。自力念仏には他力信心が具足していませんが、他力念仏には他力信心が具足しています。

・心では常に念仏している
死の解決をすれば、たとえ口で念仏を称えなくとも、心では常に念仏を称えています。
「この信心おこりぬる上は、口業には、たとひ時々念仏すとも常念仏の衆生にてあるべきなり」(安心決定鈔)
(訳:死の解決をして他力の信心を賜わった人は、たとえ口では時々念仏したとしても、心では常に絶え間なく念仏しているのである)

「かくの如く決定しての上には、寝ても覚めても、命のあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり」(御文)
(訳:死の解決をした上には、寝ても覚めても、命のある限り称名念仏するものである)
御恩報謝の念仏です。
「諸々の雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまう。そのくらいを『一念発起・入正定之聚』とも釈し、その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし、御恩報尽の念仏と、心得べきなり」(御文)
(訳:諸々の雑行を捨てて、一心に阿弥陀仏を信ずれば、不思議な本願力が働き、極楽浄土へ往生させて頂ける。その位を「一念発起 入正定之聚」といい、その上の称名念仏は恩返しの念仏なのである)
他力念仏は、自分が称えているのではなく、阿弥陀仏から称えさせられる念仏です。明治時代の僧侶、原口針水は「われとなえ われ聞くなれど 南無阿弥陀 つれてゆくぞの 親のよび声」と詠みました。

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