「不思議」は仏教用語。仏教が説く5つの不思議と最も不思議なこととは?

不思議とは

「不思議」という言葉は、元は仏教用語で、人間の理解や想像を超越しているという意味です。

5つの不思議とは

この世には様々な不思議なことがあり、たとえば、智度論の中には、次のように「五つの不思議」と呼ばれるものが説かれています。
衆生多少不思議:多くの生物が尽きない不思議
業力不思議:善悪の果報が計りの如く正確にあらわれる不思議
龍力不思議:気象の不思議
禅定力不思議:信心決定した人が長い寿命を保ったり神通力を示す不思議
仏法力不思議:本願力によって凡夫が仏になる不思議

最も不思議なこと

中でも、仏法力不思議ほど不思議なことはありません。
「五つの不思議を説く中に 仏法不思議にしくぞなき 仏法不思議ということは 弥陀の弘誓になづけたり」(高僧和讃)
(訳:五つの不思議の中で、仏法力不思議に及ぶものはない。仏法力不思議とは、死の解決に救われることである)

「『あそばされ候う御名号、焼け申し候うが、六体の仏になり申し候う。不思議なること』と、申され候えば、前々住上人(蓮如)、その時、仰せられ候う。『それは、不思議にてもなきなり。仏の、仏に御なり候うは、不思議にてもなく候う。悪凡夫の、弥陀をたのむ一念にて、仏になるこそ不思議よ』」(御一代記聞書)
(訳:「蓮如上人が書かれた六字の名号が、火事で焼けた時に、六体の仏になり天空高く舞い上がって行きました。何と不思議なことなのでしょうか」と申し上げたところ、蓮如上人は「それは不思議なことではない。六字の名号自体が仏であり、仏が仏になっただけで、何が不思議なのか。罪悪の塊である凡夫が、阿弥陀仏の他力によって仏にさせて頂けることこそ本当の不思議というものだ」と言いました)

阿弥陀仏の光明は、想像が及ばない光明であるため、阿弥陀仏のことを不可思議光仏ともいいますが、阿弥陀仏の本願力によって救われるということは、実に不思議なことです。
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をば遂ぐるなり」(歎異抄)
(訳:阿弥陀仏の不思議な力に助けられて、極楽浄土に往生できるのである)

「五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり」(正像末和讃)
(訳:五濁の悪い時代の人間であっても、阿弥陀仏の本願を信じ死の解決をすれば、言葉で説くことも想像することもできない喜びが、その人の身に満ち溢れる)

・欠点はない
死の解決は、欠点が一切ない絶対の幸福ですが、相対智の人間はどうしても欠点のある不完全な幸福を想像しようとします。「死の解決をしても、どうせ〇〇はできないんでしょ?」といった具合に、大した幸せではないと言わんばかりに自分の価値観に合わせた幸福を想像します。それでは、人間の願いをすべて満たしていることにはなりません。人間が想像するような欠点は一切ないということを知るべきです。
ちなみに、相対智の人間が作った宗教、つまり仏教以外の宗教が説く幸福は、どうしても相対的で不完全で欠点のある幸福になります。それしか想像できないのです。仏教が説く絶対の幸福の境地と比較すれば、その欠点がわかるはずです。

・説き尽くせない
絶対の境地であるため、相対的なツールである言葉で表現することは不可能です。
死の解決の喜びは、「説き尽くせない」というのが1番の説き方です。これを言語道断といいます。現代でも違う意味で使われていますが、元は仏教用語です。
「たとい百千倶胝那庾多劫を経て、その無量百千倶胝那庾多の舌をもって、一一の舌の上に無量の声を出して、その功徳を讃ずるも、また尽くすこと能はず」(称讃浄土経)
(訳:たとえ百千倶胝の劫という無限の時間を経て、百千倶胝という無量の舌を出し、一つ一つの舌ごとに無量の声を出してその喜びを誉め讃えても、なお讃え尽くすことができない)
ちなみに、この境地について、維摩という人は沈黙でもって答えており、「維摩の一黙、雷の如し」という言葉で有名です。

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