死は突然やってくる。すべての人間は死刑囚

死と聞くと、遠い話のように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。「平均寿命ぐらいまでは生きられる」と思っているでしょうが、そうではないのです。
「頭を冷蔵庫につっこんで、足先をバーナーにかざしていても、平均体温は正常だ。私は、平均値にはいつも用心している」と言った人もいますが、数字に惑わされてはいけません(ちなみに、「統計上」は平均寿命まで生きられる確率は約50%)。

「一寸先は闇」という諺もありますが、ほんの一瞬前まで元気だった人が一瞬で死ぬことがあります。
吉田兼好は徒然草で、「死は前よりしも来らず、かねて後に迫れり」と、突然やってくる死を表現しました。
悪性腫瘍が見つかり余命半年と宣告された宗教学者の岸本英夫(東京大学教授)は、「生命飢餓状態のすさまじさを身をもって思い知った」と言い、体験時の心理状態を著書「死を見つめる心 ガンとたたかった十年間」の中にまとめています。
「死というものは、ひとたび来るとなると、実に、あっけなく来る。まことに無造作にやって来る。無造作であるばかりでなく、傍若無人である。死は、来るべからざる時でも、やってくる。来るべからざる場所にも平気でやってくる。ちょうど、綺麗に掃除をした座敷に、土足のままで、ズカズカと乗り込んでくる無法者のようなものである。それでは、あまりムチャである。しばらく待てといっても、決して、待とうとはしない。人間の力では、どう止めることも、動かすこともできない怪物である」(岸本)
また、女優の樹木希林は、「死はいつか来るものではなく、いつでも来るものなの」と言って死んでいきました。
ビートたけしは、「結局、死というものには無理やり対応させられるわけだよ。あまりにも一方的に向こうが勝手に来るわけだから。死というのは突如来る暴力なんだね。死はすべての終わり」と語っています。
市役所や区役所では、24時間365日、死亡届を受け付けています。死は、休日だろうが深夜だろうが待ってくれず、いつでも吹き荒れているということです。

死と生活している

常に死はすぐ傍にあり、常に死と生活しているといえます。往生礼讃には「無常念々に至り、つねに死王とともに居す」と説かれています。「無常は絶え間なく至っており、常に死王と共に生活しているのである」という意味です。死は、あらゆるものをなぎ倒す力を持っているため、「死王」と表現しています。

老人が先とは限らない

死は年齢に関係なく訪れ、老人が先で若者が後とは限りません。「人間のはかなきことは、老少不定のさかい」(御文)なのです。
「若きにもよらず、強きにもよらず、思ひかけぬは死期なり」(徒然草)

「死が老人だけに訪れると思うのは間違いだ。死は最初からそこにいる」(へルマン・ファイフェル)
一休は「世の中は 起きて稼いで 寝て食って 後は死ぬを 待つばかりなり」と詠みましたが、この順番通りとは限らず、嫁ぐ前に死ぬことがあり得るのです。
ちなみに「若い」と思っているということは、まだまだ死なないと思っているということです。鎌倉時代の華厳宗僧侶、明恵は「我、13歳にして既に老いたり。死なんこと近づきぬらん」と言いましたが、死はすぐそばあるのですから、何歳であっても「老いた」と感じるのが正しいのです。

今日死ぬかもしれない

今日死ぬかもしれません。
「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」(白骨の御文)
(訳:朝には血色の良い顔をしていても、夕方には白骨となる身である)
「後の世と 聞けば遠きに 似たれども 知らずや今日も その日なるらん」という古歌もあります。
今日死ねば今日から後生が始まるということであり、今日から地獄が始まるということです。

呼吸できないと死ぬ

四十二章経には、次のような問答があります。
ある日、釈迦が3人の修行者に、命がどれほどの長さか尋ねました。
1人目の修行者は「数日ぐらいだと思います」と答えました。
2人目の修行者は「食事の間ぐらいだと思います」と答えました。
最後の修行者は「一呼吸する間もありません」と答えました。最後の答えを聞いて、ようやく釈迦は満足しました。
この話の通り、人間は吐いた息が吸えなければ死にます。これを出息入息不待命終といいます。ちなみに、「生きる」の語源は「息る」ともいわれています。

死の縁は無数にある

病気・災害・事件・事故etc.死に至るきっかけは無数に存在しており、いつどこで死んでもおかしくありません。危険はウイルスだけではないのです。
「死の縁無量なり。病にをかされて死するものあり、剣にあたりて死するものあり、水におぼれて死するものあり、火に焼けて死するものあり、乃至、寝死するものあり、酒狂して死するたぐひあり。これみな先世の業因なり、さらに逃れるべきにあらず」(執持鈔)
(訳:死の縁は無数にある。病に侵されて死ぬ者もいる。刃物で刺されて死ぬ者もいる。溺れて死ぬ者もいる。火に焼けて死ぬ者もいる。寝ている間に死ぬ者もいる。酒に酔って死ぬ者もいる。これらはみな過去に造った業の結果であり、決して逃れることはできない)
地震に備えて安心していたら病気で死んだり、ウイルスに怯えていたら交通事故で死んだり、「思いもしない形」で死がやってくることがあるのです。
もっと言えば、後述するように、人間は死が信じられないので、どんな死に方であろうと必ず「思いもしない形」で死にます。

人間は死刑囚

死刑は極刑であるため存廃が議論されていますが、広い視点では人間は皆、死刑囚です。しかし、この点に関しては議論がまったくなされません。
「人間は不定の執行期間のついた死刑囚であり、生は死の掌中にあってもてあそばれているにすぎない。死はいつでも生を握りつぶすことができるのだ」(ヴィクトル・ユゴー/小説家)

「この幾人かの人たちが鎖につながれているのを想像しよう。みな死刑を宣告されている。そのなかの何人かが毎日他の人たちの目の前で殺されていく。残った者は、自分たちの運命もその仲間たちと同じであることを悟り、悲しみと絶望とのうちに互いに顔を見合わせながら、自分の番が来るのを待っている。これが人間の状態を描いた図なのである」(パスカル/哲学者)

「自分の意志に関係なく、突然、ある苦しみの場所に置かれて、時を経れば否応なく追いだされる状態など、われわれの世界で言えば刑務所ぐらいしかない。それも囚人みなが死刑囚で、刑の執行日も教えられず、死以外は絶対に逃れられないのが現世のわれわれの運命なのである」(コンノケンイチ/サイエンスライター)

人間は生まれながらにして、いつ爆発するかわからない時限爆弾を体内に抱えているようなものです。
きくちゆうきの4コマ漫画「100日後に死ぬワニ」のように、すでに死へのカウントダウンは始まっているにもかかわらず、それを知らずに生きているのが人間なのです。

死はすべてを破壊する

死は、一生懸命努力して手に入れた一切の幸せを、一瞬で破壊する力があります。
人生で一番幸せな時といわれて何を挙げるでしょうか。
たとえば、プロポーズが成功した時を挙げる人も多いでしょう。しかし、そんな人生最高の瞬間だろうと死は容赦しません。自然法則である因果の法則は、人間側の都合を一切考慮してくれないのです。
米カリフォルニア州のヨセミテ国立公園で次のような事故がありました。
ベテラン登山家のブラッド・パーカーさんは、ガールフレンドとともにカテドラル山に登頂し、そこでプロポーズしました。結果は見事成功。その後、ブラッドさんは数キロ離れたマッテスクレストに単独で登ります。しかし、これが間違いでした。不幸なことに、そこで滑落してしまいます。その日の夜、公園職員がブラッドさんの遺体を発見しました。父親のビル・パーカーさんによれば、プロポーズ後に息子から電話があり、「人生で一番幸せな日だ」と話していたといいます。
日本でも次のような事故がありました。
宮古島に住む石垣有一さん(32)は、伊良部大橋で交際相手にプロポーズしました。プロポーズは成功、喜んだ石垣さんは欄干を乗り越え橋の縁に立ちました。しかし、足を滑らせて約30m下の海に転落、その後、死亡が確認されたといいます。

他にも、「人生最高の瞬間」と大喜びをした次の瞬間に死んでしまうといった例はゴマンとあります。

【悲劇】白骨の御文の全文と制作されるまでの経緯

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