楽しみがあるのは不幸なこと。善悪がある世界は苦しみの世界。幸せは浸るためではなく自己を知るためにある

「楽しみ」と「苦しみ」の区別、つまり善と悪の区別がある世界に真の安らぎはありません。幸せや楽しみがあるというのは、そもそも不幸なことなのです。

善悪の区別がない世界がある

善悪の区別のない世界は実在し、仏教では悟りといいます。

「悟り」とは何か?本当に可能なのか?どうしたら開けるのか?どれほど難しいのか?

悟りだとイマイチわかりにくいので、私は死の解決と言っています。

幸せは死の解決のための手段

こちらで説明した通り、この世の一切の幸せは偽の幸せです。

幸福には致命的な欠点がある

幸せというのは死の解決のための手段にすぎません。

幸せは自己を知るための手段

死の解決は自己を知ることでできます。ですので、特に自己を知るための手段です。

「自分」とは何か?人生は自分を知るためにある。自分を客観視する方法とは?本当のマインドフルネスとは?

幸せを勝縁にする

勝縁とは、すぐれた良い縁のことですが、一切の幸せを死の解決のための勝縁とすべきです。幸せを感じたら、それに浸るのではなく、無常を観じたり、死の解決をするための勝縁にすべきなのです。

無常観とは?寂しさには2種類ある。幸せが手に入らない寂しさ。幸せを手に入れる寂しさ。

偽の悟りで溢れている

世の中は悟りブームのような状態になっているふしもありますが、偽の悟りで溢れています。
仏教徒の中にも、偽の悟りで安心してしまっている人がたくさんいます。
こんな話もあります。
往生要集で有名な源信が7歳の時のことです。
川で遊んでいると、比叡山の僧侶がやってきて弁当箱を洗い始めました。
それを見て源信は尋ねました。
「お坊さん、どうしてこんな汚い水で洗っているのですか」
「私たちにはキレイも汚いもないのだよ」
こう答える僧侶に、源信は再び尋ねました。
「ではなぜ洗うのですか」
洗うということは汚いと思っているということであり、キレイと汚いの区別、つまり善悪の区別をしているではないか、と源信は指摘したのです。
僧侶は返答に詰まり、偉い智恵のある子だなと感心したといいます。
この時代の比叡山の僧侶ですから、それなりに一生懸命修行していたでしょう。それでも、どうしても善悪を区別してしまっていたのです。
自力聖道仏教では偽の悟りしか開けず、真の悟りは他力浄土仏教でなければならないのですが、この点については下記で詳しく説明しています。

仏教には大きく2種類ある。聖道門と浄土門とは

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