仏教は若者がやるべきもの

仏教を「年寄りの慰みもの」ぐらいのイメージを持っている人は多いですが、とんでもないことです。
「若きとき、仏法は嗜め。年よれば、行歩もかなわず、眠たくもあるなり。ただ、若きとき、嗜め」(御一代記聞書)
(訳:若い時に求道すべきである。年を取れば、説法を聞きに歩いて行くことも難しく、聴聞しながら眠くなってしまう。ただ、求道は若い時にすべきなのである)
こちらの記事でも説明したように、長く生きるほど世間の垢が染みつき、世間から仏教への転換、外から内への転換が難しくなります。

真の幸福のためにすべてを捨てる

若い時は神経回路も柔軟性(可塑性)を保っており、でき立ての柔らかい餅のように、どんな形にも変えやすいものです。しかし年を取ると、時間が経ってカチカチに固まった餅のように変えにくくなってしまいます。
「若い脳は様々な面で成長しているため、早期の訓練はその後の成長の軌道を左右し、大きな変化につながっていく。いわゆる『若木矯正効果』で、小さな若木の伸びていく方向を少し変えてやると、やがてその若木から伸びていく枝の形は大きく変わるが、一方、すでに大きく育った枝に力を加えても、影響は軽微にとどまるのと同じだ」(アンダース・エリクソン/フロリダ州立大学心理学部教授)

・年を取ってわかっては遅い
世間が信頼を置く科学が心を対象にしていないこともあり、人間は、自分で体験するまでなかなか理解できません。そのため手探りで生きることを強いられます。
「人生は後ろ向きにしか理解できないが、前向きにしか生きられない」(キルケゴール/哲学者)

「人生は狂人の主催に成ったオリンピック大会に似たものである。我々は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ」(芥川龍之介)

若い時に仏教を聞いてもわからず、色々な経験をして年を取って初めてわかるようになったという人は多いです。詩人のエッシェンバッハは、「若い時われわれは学び、年を取ってわれわれは理解する」と言いました。しかし、この流れでは遅いのです。体験というのは、強い力がある一方で遅いという欠点があります。死は、その最たるものです。
ですので、体験以外の方法でまずは先に頭だけでも理解することが大切です。政治家のビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言い、芥川龍之介は、「これまでの自身の経験に照らし合わせることが大切である」と言っています。こういったことも大切ですが、仏教では聴聞を勧めます。

仏法は聴聞に極まる。聞くだけなのに難しい理由

・人間は精神年齢
だからといって、年を取ってしまったからもう無理だと絶望するのも間違いです。本当の手遅れというのは死です。

死は最大の苦しみ。死はすべてを一瞬で破壊する。楽な死に方はない。

ですので、どんな境遇であっても生きていれば救われる可能性が残っています。
肉体年齢も重要ですが、それ以上に精神年齢が重要です。新生児や幼児ほどではないですが、成人の脳も可塑性を持つこともわかっています。60の手習いという言葉がありますが、世間事でも意欲的な高齢者はたくさんいます。
また、年を取ることは大きなハンデですが、一概に悪だとは限りません。これまでの経験を活かせるかもしれません。だらだら求道している若者を一気に追い抜けるかもしれません。年を取ってから仏教と出遇い、真剣な聴聞をして短期間でゴールした人もいます。その後の求め方にかかっているということです。
逆に、肉体は若くても、心が老いた若者も多くいます。若くして仏教と出遇いながら、だらだらとした聴聞を続け、結局ゴールできなかった人はゴマンといます。実にもったいないことです。

・今日が一番若い
今日より若い日は、これからありません。ある60歳の人が、「30歳に戻れたら不眠不休で働ける」と言っていましたが、今の自分から見れば、過去の自分は可能性がいっぱいあるように見え、羨ましく思うでしょう。「ああしとけばよかった」と後悔していることもあるでしょう。
同じように、未来の自分から見れば、今の自分は可能性がいっぱいあるように見えます。もっと言えば、臨終の自分から見れば、可能性は無限に思えます。

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