真の幸福のためにすべてを捨てる

世間一般で幸せとされるものは、欠点だらけの偽の幸福です。

幸福には致命的な欠点がある

真の幸福は死の解決(悟り)しかありません。

「悟り」とは何か?本当に可能なのか?どうしたら開けるのか?どれほど難しいのか?

捨てる覚悟

無常の幸福から死の解決に目的を変えるということは、別な言い方をすれば、より優れた道を選ぶということです。どんなことにもいえますが、より優れた道を選び向上するためには、劣った道を捨てる覚悟がどうしても必要になります。
「精神的進化の歩みは、それまで動物的欲求に執着していた心を一旦は否定することがどうしても必要である」
「不安定な地盤をしっかりとした地盤に作り替えるためには、どうしても、今まで作ってきたビルを一旦は取り壊さなくてはならない」(望月清文)
アインシュタインは「未来の自分のためなら今の自分を捨てる覚悟を持たねばならない」と言いました。
青春のすべてを蘭学に費やしていたという福沢諭吉は、世界の大勢が英語にあることを知るや、大きなショックを受けながらも、蘭学を捨て英語を勉強し始めたといいます。
世間の人間でも未来の幸せのためにこれだけ捨てるのです。未来の幸せといっても、彼らが求めるのは無常の幸福です。無常の幸福を手に入れるために無常の幸福を捨てたにすぎません。未来永劫救われる死の解決という幸せを手に入れようとする求道者は、一切を捨てる必要があります。
・仏教の価値
人間にとって「死にたくない」という願いほど強い願いはありません。

死より怖いものはない。死は怖くないと思わせる心がある。死の恐怖は人間の優れた能力。

肉体・家族・財宝etc.人間には大切なものが色々とありますが、命の危険が迫るにつれ、価値観は大きく変わっていき、自分の命以外のすべての価値がどんどんなくなっていきます。
そして、最後はそれらの価値がゼロになり、「死を解決する方法があれば、それらをすべて捨ててでも知りたい」と願うようになります。死を解決する方法である仏法の価値が本当にわかれば、経にあるように「ガンジス川の砂の数ほどの身命を捨てても一句の法門を聞くに如かず」ということになります。
「このたび生死をはなるべき身となりなば、一世の身命を捨てんはものの数なるべきにあらず。身命なほ惜しむべからず。いはんや財宝をや」(持名鈔)
(訳:死の解決をして苦悩の輪廻から解脱することができるならば、一世の短い命を捨てることなど物の数ではなく、惜しくもない。まして財宝を捨てることなど言うまでもない)
誰でも臨終になれば強い無常を観じ菩提心が生じますが、それでは遅いので、平生元気がいい時に強い無常を観じ菩提心を生じさせる必要があります。そうすれば自ずと仏法の真価に気づくことができます。

・捨てるとは心根の問題
ここで重要なのは、世間を捨てる覚悟というのは物や形ではなく心根であり執着心であるという点です。いわゆる「世捨て人」のように、ただ捨てればいいというわけではありません。
たとえば、仕事や学校をやめればそれでいいかというと、そう単純な話ではないのです。初心者は特に「鵜の真似をする烏」になりやすいので注意が必要です。

・「自分にしかできない仕事」
また、世間事は、どれほど重要で責任あるものであっても代わりがいる世界です。
芥川龍之介は次のような話をしています。
「僕の書いた文章はたとえ僕が生まれなかったにしても、誰かきっと書いたに違いない。したがって、僕自身の作品というよりもむしろ一時代の土の上に生えた何本かの草の一本である。すると僕自身の自慢にはならない。僕はこう考えるたびに必ず妙にがっかりしてしまう」
自分がやらないことで一時的に困る人もいるでしょうが、結局、なんだかんだで世の中はまわっていきます。
しかし、死の解決は自分以外に代わりがおらず、死の解決をしないと死後は地獄です。

・すべてを捨てた釈迦
求道は総力戦です。すべてを捨ててかからないと達成できません。仏教の開祖である釈迦に学びましょう。

すべてを捨てて求道した釈迦に学ぶ

「同行相親みて相離るること莫れ 父母妻兒百千萬なれども是菩提の増上縁に非ず 念念に相纏ひて悪道に入る 身を分ちて報を受くるに相知らず」(般舟讃)
(訳:同行は互いに親しんで離れてはならない。父母や妻子は百千万もの多い数があっても、これは真実の幸福を得るための良縁ではない。刻一刻と互いにまきついて悪道に入っていく。分かれてそれぞれの報いを受けるが互いに知らない)
同行とは、「極楽に行くために同じ行をしている人」という意味です。

・捨てれば活きる
仏教には、「捨てれば活きる」という言葉があります。捨てることで廃るのではなく、人や自分自身を活かすことになるのです。
「通さぬは 通すがための 道普請」という諺があります。道普請とは道路工事のことです。道路工事があると通れなくなるので非常に迷惑なことですが、それは、より快適な道路にするためです。
同じように、捨てることによって周囲に一時的に迷惑をかけるかもしれませんが、それはすべてを活かすためです。一切を捨てた釈迦が、その後どうなったかを見れば明らかでしょう。
歌人の西行は「惜しむとて 惜しまれぬべき 此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ」と詠みました。
「惜しんでも惜しみ切れないこの世である。身を捨ててこそ、身を助けるのである」という意味です。
大正時代、広島駅で駅長を務めながら熱心に求道していた人がいました。
この駅長があるとき突然、「今晩死んだら・・・・」と後生に驚きが立ちました。今死んだら今から地獄が始まるということを体験的に感じたのです。何も手がつかなくなった駅長は、急いで手次ぎの寺へ駆け込み住職に頼みました。
「後生が心配になったので、すぐに仏法を聞かせてください」
「そうか。ところでお前、仕事辞めてきたか?」
「いえ、辞めていません」
「仏法を聞きたいのなら仕事をすぐ辞めてきなさい」
こう言うと、住職は奥へ引っ込んでしまいました。駅長は困りました。
(もし自分が仕事を辞めたら、家族の生活や駅長の責任はどうなるのか・・・・)
仕事を辞めるべきか、一晩中考えに考えましたが、結論が出ませんでした。
しかし、夜明けを迎えた頃です。
(そうだ、後生は一人一人のしのぎなりというではないか。家族が自分の後生を解決してくれるわけではない。自分で解決するしかないのだ)
こう決心した駅長は、辞表を書いて朝一番で上司に提出し、その足で寺へ向かいました。
「仕事辞めてきたか?」
「はい、辞めてきました」
「そうか、それでは本堂にあがりなさい」
冬の寒い日でしたが、住職は駅長のために真剣に法を説きました。駅長も瞬きもせず、食い入るようにして聞きました。
このような真剣な聴聞であったため、駅長はすぐに死の解決を果たしました。躍り上がって喜ぶ駅長に住職は言いました。
「よくぞ求め切った。すぐに辞表を撤回してきなさい」
住職の意外な言葉に驚きましたが、感謝の気持ちでいっぱいになりました。
そして、喜びの涙で顔をくしゃくしゃにしながら会社に戻ると、幸いにも辞表はまだ受理されていませんでした。
その後、より一層仕事に励み、名物駅長として家族からも仕事仲間からも信頼を集め、幸せな一生を送ったといいます。
「道心の中に衣食あり」という言葉があります。道心とは求道心のことで、衣食とは現世利益(現在世での幸福)のことです。太陽に向かえば影もついてくるように、死の解決を求めて求道すれば、名利などの現世利益もついてくるということです。藁幹喩経には、「稲を求めれば藁も自ずと手に入るように、死の解決に向かえば現世利益もついてくる」とたとえられています。
「阿弥陀如来来化して 息災延命のためにとて 金光明の寿量品 ときおきたまえるみのりなり」(浄土和讃)
(訳:阿弥陀仏が現れ、災難を防ぎ長生きさせるために、金光明経の寿量品を説き、阿弥陀仏が現世利益を与える仏であることを教えている)
一生懸命求道すれば必ず現世利益があります。逆に言うと、この教えに従えば、現世利益がないということは、一生懸命求道していない証拠だということになります。

・仏教は金持ちになる教え
仏教に対するイメージとして多いのが、「金は無いけど笑顔がある」というものです。確かに、最終的に目指す境地は、金の有無に関係なく喜べる境地です。しかし、このように思っている人の腹底を尋ねると、「なんだ、金は手に入らないのか、残念」という具合に、欠点がある境地を想像してしまっています。ですので、こう思っている人にわかりやすく言えば、「金も笑顔もある」のが正しい仏教に近いイメージになります。

世間は捨て難い

そうはいっても、世間にどっぷり浸かって生きてきたこともあり、人間はなかなか無常の幸福を捨てられません。
・世間事が重くなっている
本願寺の蓮如は「仏法を主とし、世間を客人とせよ」と言いましたが、ほとんどの人は世間事に比重を置いて一生を終えてしまいます。
民俗絵画の大津絵の1つに、両端に釣鐘と提灯がぶら下がっている天秤棒を猿が担いでいる絵があります。
釣鐘のほうが重いので、普通は釣鐘が下に下がり提灯が上に上がっているはずですが、この絵は逆に、釣鐘が上がり提灯が下がっています。これは、本来重きを置くべき道理(仏教)が軽くなっており、軽いはずの世間事に重きを置いている、主客顛倒した世の人々の姿を表しているのです。
「何ぞ衆事を棄てざらん。おのおの強健の時に曼んで努力修善を勤めて精進して度世を願え。極めて長生を得べし。如何ぞ道を求めざらん。安所ぞ待つべき。何の楽しみをか欲わんや」(大無量寿経)
(訳:どうして世間事を捨てないのだろうか。健康な時に努力して死の解決を求めれば、限りない幸福が得られるのに、どうして求道しないのだろうか。何を期待しているのだろうか。どんな楽しみを求めているのだろうか)

「世人薄俗にして共に不急のことを諍い、この劇悪極苦の中において、身の営務を勤めて、もって自ら給済す」(大無量寿経)
(訳:人間の考えることは浅はかで、急がなくてもいいことを争っており、この激しい悪と苦が満ちた世界で、ただ生きるために働いているにすぎない)

「ただ今生にのみふけりて、これほどに、はや目に見えてあだなる人間界の老少不定のさかいと知りながら、ただいま三塗八難にしずまんことをば、露塵ほども心にかけずして、いたずらに明かし暮らすは、これ常の人のならいなり。浅ましといふもおろかなり」(御文)
(訳:ただこの世の一生のことのみ一生懸命で、これほどまで年齢に関係なく、いつ死んでもおかしくない身であると知りながら、今にも地獄に沈むということを少しも心にかけず、いたずらに明かし暮らしているのは世の常である。浅ましいという言葉では言い尽くせない)
コーサラ国の波斯匿王が、久しぶりに釈迦の説法を聞きにやってきました。
「王よ、法を聞くのを疎かにしてまで一体どこへ行っていたのか」
釈迦は少しきつい口調で叱りました。
「世尊よ、王というものは広い領土をかかえ、国民のためにいろいろと仕事があるのです。それで忙しかったのです」
王の言い訳に釈迦は悲しい顔になり、1つのたとえを出しました。
「王よ、ではこんな場合、そなたはどう思うか。ここに、そなたの信頼する家来がやってきて、『今、東西南北から大きな山がすべての生き物を圧し潰しながら迫ってきています』と言ったとする。そうした場合、何をするか」
「世尊よ、そんな事態になっては死から逃れるしかありません」
「王よ、これは単なるたとえ話ではない。死が今にも王に迫っているのだ。この事態において何をなすべきことがあると思うのか」
王は天を仰いで、「私のなすべきことは死の解決だけです」と反省したといいます。
国王のような地位にある人が仏教を聞こうとするのは珍しいですが、それでも世間事の比重が高かったことがわかります。
世間的な成功というのも喜ばしい出来事とは限りません。
八難といって、仏教を聞くことを妨げる八つの困難があると説かれますが、その1つに世智弁聡という難があります。世間事に長けているがために、仏教をそのままの意味に受け入れられなくなるということですが、要するに小賢しいということです。比較の問題ですが、たとえば政治家であるとか社会的地位が高いとされる人たちは転換が難しいです。

・仏法に1円の価値も感じない
もっと本心を抉り出せば、人間は仏法を聞いても1円もらったほども喜ぶことができません。「仏法のためには1円も使いたくない」というのが人間の本心であり、仏法のために金を使う時は、生爪が剝がれるような思いがします。名利をくだらないと思えないくだらなさがあるのです。

・恒狂の世界
世間は狂っていることもわからない狂い方をしており、経典には「恒狂の世界」と説かれています。世間にどっぷり浸かっていると、その異常さがわからないのです。釈迦が現代の風潮を見れば、きっと血の涙を流すはずです。

・根深い価値観
女優のマリリン・モンローは、心を軽視する医者を見て、「ああ、なんてことでしょう。人間は月にまで行こうとしているのに、脈打つ人の鼓動には関心がないみたい」と嘆き、トルストイは「誰もが世界を変革することを考える、だが誰も己を変えようとは考えない」と言いましたが、外に目が向きやすい人間が内(自己)に目を向けるのは難しいことです。
なぜ目が向かないのか、それなりの理由があります。無常の幸福で幸せになろうとすることは世間の常識であり、小さい頃から家庭や学校で教育されます。世間が信頼を置く科学が心を対象にしていないことも一因です。
「科学か主観性ではなく、科学と主観性なのだと言いたい。きちんと説明され承認が得られるのなら、私的な真実は客観性を損なうわけではない」
「科学者は、その習性として、客観性を重んじるあまり、目が外の世界だけに向いていってしまう。そして、その科学的成果が大発見であればあるほど、意識は、自らの内的世界を見ることよりも、外の世界を見ることにますます強く引きつけられてしまうのである」
「私は、ノーベル賞に代表されるような栄誉への科学者の憧れが、科学者1人1人の意識を客観性の虜にさせ、観念だけを肥大化させた機械的人間に科学者の心を歪ませてきてしまったように思う」(マーク・ベコフ/コロラド大学名誉教授)
物質中心の科学が生んでしまった悪しき面であり、心の科学の進歩を妨げる一因となっています。
このように、外側から「幸せになる方法は無常の幸福しかない」ということを暗に、あるいはあからさまに示したメッセージを24時間365日途切れなく浴びせられます。
意識するとしないとにかかわらず、ちょっとした行為で人間はすぐ影響を受けてしまうものです。たとえば心理学の実験では、ワインを選ぶ際にドイツ語の音楽が流れればドイツのワインを買う確率が上がり、フランス語の音楽が流れればフランスのワインを買う確率が上がることがわかっています。暴力的なゲームをすれば反社会的行為を助長し、向社会的なゲームをすれば、そういう行為を助長することもわかっています。
このような、現代心理学でわかることは表面的なごく一部のことにすぎません。一瞬見たり聞いたり思ったり、どんな些細な行為であっても1つの業(行為)であり、阿頼耶識に記憶され必ず影響を受けています。まして、膨大な情報を世間から絶え間なく浴びているのです。その力は非常に強く、集団で洗脳されているようなものです。
「歴史を振り返ってみますと、マインドコントロールはオウムだけの問題ではありません。戦争のほとんどは、国民に対する為政者のマインドコントロールによって遂行されているといっても過言ではないでしょう。戦場で直接に何の恨みも憎しみもない人間どうしが殺し合うのは、マインドコントロールの結果です。オウムの事件はともすれば宗教的問題と一般に考えられていますが、戦争経験をもつ私からみると、国家の集団の本質を改めて問い直された事件ではないかと思います」
「私たちは故意に、あるいは無作為に、そして常に、マインドコントロールを受けていることを忘れてはなりません。情報が増えるほどにマインドコントロールされる機会も増えるので、これに応ずる術を身につけることがますます必要になっています」(泉美治/大阪大学名誉教授)
さらに、外側からだけでなく、内側からは強力な動物的欲求や煩悩、妄念といったものが逆巻いています。
経典もそうですが、2000年以上も前に書かれた書物にも、人間が外に目が向きやすいことがわかる記述があるので、これは人間に生まれつき備わっている性質なのでしょう。
そして、無常の幸福は実際に目に見えるものでもあり、多少なりとも手に入れた体験もあり、その喜びを味わってもいます。
このように外側からも内側からも強い力が働き、大抵の人は無常の幸福を求め続けて人生が終わっていきます。
「われわれはみな幼児の時から催眠状態にある。われわれは自分自身についても自分の周りの世界についても、それらがそうある通りに認識せず、それらを知るために信じさせられてきたやり方で認識しているのである」(ウィリス・ハーマン/心理学者)
長く生きるほど世間に浸かることになり、意識するとしないとにかかわらず、世間の「垢」がつきます。基本的に人間は年を取るほど様々なリスクが増えていきますが(詳しくは第3巻)、これもその1つです。
アインシュタインは、「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションである」と言いました。
芥川龍之介は、「より文字の読める文科大学教授は往々、というよりもむしろしばしば、より文字の読めない大学生よりも鑑賞上にはメクラであります」と言いました。
ある番組で、水槽に栗を入れて見抜けるか実験したところ、子供は栗だと見抜いていましたが、大人はウニだと思っていました。
このように様々な世間の垢がつきますが、「幸せになる方法は無常の幸福しかない」という垢は、その最たるものといえるでしょう。もはや一種の宗教です。「宗教を信じない」という人は多いですが、すでに信じているようなものです。
「なぜ生まれたのか意味を知りたい」と言った子供に、「バカなこと考えてないで勉強しなさい」と叱った母親がいますが、自分の無知を棚に上げて、人生の根本問題に疑問をもつ人に、このように言う始末です。
ちなみに、いかに影響を受けていたか、距離を置くことで少しはわかる場合もあります。
「テレビを持たないというのは、入ってくる情報をこちら側からシャットアウトすることだろ。氾濫する情報をカットする方が、かえってものごとの本質をよくつかめる場合が多いんだよ。われわれみたいに、テレビだ、ラジオだと走り回っている人間にはほとんど嘘の情報しか入ってこないからね。嘘の情報をいっぱい身につけるよりは、ときどき入ってくるほんとうの情報を選んだ方がいいにきまっている」(ビートたけし)
「SNSを1週間やめると幸福度があがる」といった研究も数多くあります。

・真逆の世界
基本的に、「世間」は仏教と真逆といっていいほどの違いがある世界であり、仏教に対する言葉として使われます(本来は仏教用語)。求道者と世間の人は、別の生物といっていいほどの大きな違いがあり、第1巻で説明したように死の解決をすると実際に違う種になります。
聖徳太子は「世間虚仮 唯仏是真」と、「世間は嘘偽りであり、ただ仏教だけが真実である」と言いました。「唯」は「只」とは違い、唯一という意味です。
「火宅無常の世界は、萬のこと、皆もって、空ごとたわごと、真実あること無きに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(歎異抄)
(訳:苦悩に満ちた無常のこの世は、一切が偽りであり、真実であるものは何もなく、ただ死の解決だけが真実なのである) 
「のみぞ」と強調しています。
この世は嘘だらけですが、嘘というレベルで済むような甘い問題ではなく、死後の地獄へつながる非常に恐ろしいことなのです。

・コペルニクス的転回
世間を捨て死の解決に目を向けるには、人生観や価値観といったものを180度といっていいくらい、大きく変える必要があります。
「精神的進化を目指すには、それまでの動物的欲求に慣らされ、外の世界にのみ向けられていた意識を自分自身の中に向けるというコペルニクス的転回を必要とする」(望月清文)

・捨てるのは苦しい
一言で「捨てる」といっても、内実はピンキリで、大して価値のないものを捨てるのは簡単で楽ですが、大切なものを捨てるのは難しく苦しいことです。

・方便から真実へ
難しいことであるため、仏教では様々な「方便」が説かれています。方便とは、サンスクリット語のウパーヤーの中国語訳で、日本語では「真実に近づける」という意味です。
人間は迷い深いので、いきなり真実を説いたところで、すんなりと理解できる人はまずいません。真実に近づけるために、その人の機(能力や性質)に合わせて様々な方便が使われるのです。「仏教」の範囲は非常に広いですが、膨大な経典からも、方便を使わないと真実がなかなかわからない人間の迷い深さを伺うことができます。ちなみに「嘘も方便」とよくいわれますが、これは間違った使われ方です。
「仏教多門にして八万四なり、正しく衆生の機、不同なるがためなり」(教行信証)
(訳:仏の教えは無数にあるが、これは人間の素質や能力に違いがあるためである)
科学が外から内(心)へ転換しつつあるので、それに合わせて世間も転換していくかもしれません。方便として科学は期待できます。

方便の正しい意味。「嘘も方便」は間違い。

・わからない人はわからない
また、真実に近づけるための方便であるのに、方便に心を奪われ、方便が目的となってしまっている人は非常に多くいます。
「人、指をもって月を指して、もって惑者に示す、惑者指を視て月を視ざるごとし」(智度論)
これは、「善知識が指(方便)で月(真実)を指しているのに、指に心を奪われて月を見ないようなものだ」という意味です。
オンリーライフでも、メンタルヘルスや恋愛、ビジネスと様々な方便を使っていますが、死の解決まで求めようとする人は非常に少ないです。
わかる人は贅沢が活きますが、わからない人は欲に溺れてしまいます。
わかる人はわずかな幸せからすぐに転換できますが、わからない人はどんなに幸せを手に入れても転換できません。
わかる人は3歳でも仏教がわかりますが、わからない人は100歳でもわかりません。
第40代横綱・東富士が新弟子の頃の実話ですが、親方から「土俵の中には、金でもダイヤでも何でも埋まっている」と聞かされた彼は、夜中に土俵を掘って穴をあけ、親方に叱られたといいます。
また、仏教には「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ」という教えがあるのですが、これを聞いた、ある年配の女性は本尊を持ち歩くようにしました。ただ掛けていたのでは破れないからだといいます。この教えは、もちろん破ることを教えているのではなく、それぐらい一生懸命求めよということです。
方便を方便とわからず、方便に心を奪われている人は、東富士や本尊を破ろうとした年配の女性と同じです。

本物に近づく努力

ベンジャミン・フランクリンは、「金は良い召使いでもあるが、悪い主人でもある」と言いましたが、無常の幸福は、良くも悪くも強い力があります。
しかし、人間は欲の動物なので、悪い方向に力が働きやすく、いつの間にか主従関係がズレてきます。つまり、無常の幸福を求めることそのものが目的となってしまうのです。すぐ世間寄りになってしまう自己であると自覚し、意識的に仏教に近づくよう努力する必要があります。
「仏法には、世間のひまを闕きて聞くべし。世間のひまをあけて、法を聞くべきように思うこと、浅ましきことなり。仏法には、明日と云うことはあるまじき」(御一代記聞書)
(訳:仏法は、世間事をかき分けて聞くべきである。世間事を優先し、暇ができたら仏法を聞こうと思うのは浅ましいことである。仏法には明日というのはないのである)
一切の世間事は幸せになれないため「暇事」です。
・浴びるように聞く
仏教は、間断なく聞くことが大切です。
「仏法を聞いている時は尊い話であると思うのですが、世間に戻ると、籠に水を入れるように、すぐに心が元に戻ってしまいます」
このようなことを言う人に対して蓮如は、「わが身を仏法の水の中にひたしておけばいいのだ」とアドバイスしたといいます。世間事の合間に仏教を聞くという姿勢ではなく、浴びるようにどっぷりと仏教に浸かるという姿勢が大切です。

・本物だけを見る
別な言い方をすれば、本物だけを見るということです。
「本物だけを見続けていれば偽物はすぐわかる」と言っていた鑑定士がいましたが、正しい教え(本物)を繰り返し聞けば間違った教え(偽物)はすぐわかります。
逆に、本物を見続けないと、熟練の鑑定士でも偽物を見抜けなくなります。精巧な偽物になるほど、その影響がはっきりとわかるでしょう。「偽物はすぐわかる」と思っているのは自惚れです。意識するとしないとにかかわらず、偽物に触れるだけで必ず影響を受け、知らず知らずのうちに偽物に染まっているのです。
この世は偽物に溢れており、偽物にすぐ影響される自己であることを自覚し、何度も何度も正しい教えを聞き続けなければなりません。もっと言えば、すでに偽物に染まっているのですが、それが自覚できないでいます。
「真贋の見分けに熟するためには『本物』ばかりを見なければならぬ。たとえ参考のためなどといっても、『偽物』に目をなじませると、かえって誤りやすいということであります」(芥川龍之介)
ちなみに、「何度も本物だけを見る」「何度も真実を聞く」、これを洗脳というのなら洗脳する必要があるということになります。「宗教で洗脳される」と聞けば悪いイメージを持つでしょうが、「宗教」も「洗脳」も、この言葉自体は善でも悪でもありません。

・捨てる訓練をする
死んでいく時には、一番大切な自分の命をはじめ、強制的に一切を捨てなければならず、その苦しみは筆舌に尽くし難いものです。その時に備え、日頃から捨てる訓練をする必要があります。

・体験は遅い

「経験は、あなたが禿げた時に手に入るクシである」

・行学
しかし、頭だけの理解は弱いので、行動して学ぶことも重要です。これを行学といいますが、行学でないと自己はとてもわかるものではありません。

・記録する
時間が経つにつれ、体験時の記憶が捻じ曲がっていくため、体験して感じたことや理解したことをすぐに記録しておくべきです。大きな成功や失敗をした時など、何度も体験できないことは特にそうです。

・出家の心がけ
在家は楽をしやすい環境です。誘惑に負けて求道から脱線していった求道者はゴマンといます。ですので、背水の陣という言葉もありますが、出家のように楽ができない環境に身を置くという視点は大切です。

・求道しやすい環境を作る
死の解決という目的を明確にしながら、常に求道しやすい環境を整えていく必要があります。また、「蛍雪の功」という言葉もありますが、やる気があれば環境は大抵どうにでもなります。
「情熱さえあれば、自分に能力がなくても、能力のある人を自分の周囲に配すればいいわけですし、資金や設備がなくても、自分の夢を一生懸命に語れば、応えてくれる人はあるはずです。ものごとを成就させていく源は、その人が持つ情熱なのです」(稲盛和夫/経営者)

・釈迦が嫉妬する人になる
世間的な成功を羨んでいる人ばかりです。無常の幸福を羨ましいと思えるところが子供ですが、死の解決を羨み、釈迦のような善知識が嫉妬するような生き方をする必要があります。善知識から「かわいそう」などと言われているようではダメです。

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