人間は絶体絶命の状況に置かれても安心してしまう【仏説譬喩経より】

仏説譬喩経には、人間の実相を教えた次のような話があります。
曠野をさまよう1人の旅人がいました。
すると、どこからともなく、獰猛な大虎が旅人に襲いかかってきました。それに気づいた旅人は必死で逃げましたが、距離はみるみるうちに縮まります。
他にどうしようもなく、ひたすら逃げていると、井戸があることに旅人は気づきました。井戸からは樹の根が下に垂れ下がっており、旅人は間一髪のところで根を伝って大虎から逃れました。
しばらく根につかまって安心すると、ふと下が気になりました。すると、そこに恐ろしげな毒龍がいることに気づきました。旅人は恐怖でいっぱいになりました。
しかしやがて、このまま根につかまっていれば大丈夫だろうと思うようになりました。
そして、今度はふと上が気になりました。するとそこには、毒蛇と、白と黒の2匹の鼠がいました。毒蛇は旅人に噛みつこうとし、2匹の鼠は交代でガリガリと根をかじっていました。これを見た旅人は再び恐怖でいっぱいになりました。
その時、上から何かポタポタと落ちてくるものがありました。5滴の蜂蜜でした。
旅人は、上に大虎がいることも、下に毒龍がいることも、根につかまっていることも、鼠が根をかじっていることも、すべて忘れ、その蜂蜜を舐めることに夢中になりました。
この話は、それぞれ次のことをたとえています。

曠野:無明
旅人:人間
大虎:死
井戸:生死の岸
樹根:寿命
毒龍:死
毒蛇:煩悩
白と黒の鼠:昼と夜
5滴の蜂蜜:五欲

死の解決をしてしない人間は、さまよう旅人にたとえられます。
また、絶体絶命の状況に置かれながらも、人間はそのことを自覚できず、欲を貪ることに夢中になっています。
しかし、寿命は確実に削られており、やがて「最後のひと噛み」で昼か夜のどちらかに死ぬことになります。
ちなみにトルストイは、著書「わが懺悔」の中で、「古い東方の寓話」としてこの話を引用しながら、自身の苦悩を次のように語っています。
「私もちょうどそれと同じように、自分を八つ裂きにしようと待ち構えている死の龍の不可抗力を知りながら、生の枝につかまっている。そして、なぜそんな苦悩に遭うのか知らずにいるのである。
私は今まで自分の喜びであった蜜を吸おうと試みたが、その蜜も今ではもはや心を喜ばせてくれない。しかも、白と黒の2匹のネズミ、すなわち昼と夜とは、私のつかまっている生の枝をかじり減らしている。
私はもう、まざまざと龍の姿を見分けるようになった。蜜ももはや甘く思われなくなった。私の見るのはただ1つ、避け難い龍とネズミだけである。私はそれから目をそらすことができない。しかも、これは決して単なる作り話ではなく、議論の余地もない、正真正銘の、誰にでもわかり切った真理なのである」
「今まで龍に対する恐怖を紛らしていた生の喜びという欺瞞は、もはや私を欺くことができなくなった。いくら人が私に向かって、お前は人生の意義を悟ることなどできやしない、考えずにただ生きるがいい、と言ったところで、私にはそれができない。前にあまり長くそれをやってきたからである。
今の私は、たえず自分を死の方へひきずりながら走り続けている日々夜々を、見ずにはいられないのである。私はこれのみを見つめている。なぜといって、ただこれのみが唯一の真理で、その他のものは悉く欺瞞だからである」
「何ものよりも一番長く残酷な真理から私の目をそらさせていた2滴の蜜、家族に対する愛と、私が自分で芸術と名づけていた著作業に対する愛も、もはや私には甘くなくなったのである」
「家族というのはすなわち妻や子供たちで、彼らもやはり人間である。したがって、彼らも私と同じ条件に置かれているのだ。つまり、彼らも偽りの中に生きていくか、でなければ、恐ろしい真理を見なければならない。
一体彼らは何のために生きなければならないのか?一体俺は何のために彼らを愛し、守り、育て、保護しなければならないのか?俺の内部に充ちている、この絶望感を味わわすためか、それとも鈍感状態で満足させるためか?
俺は彼らを愛しながら、彼らにこの真理を隠すことはできない。認識の一歩一歩は彼らをこの真理へと導いていく。ところで、真理とはすなわち死なのである」
「私は世人の賞賛で成功を裏書きされたのに得々として、死がそのうちにやってきて、すべてのものを、私の事業も、その記憶も、悉く絶滅するという事実が存するにもかかわらず、これこそ成すに値する仕事であると、長い間自分に信じさせてきたのである。けれど間もなく私は、これも欺瞞であると悟った」
「人生が私にとって魅惑を失ってしまったのに、どうして他人を生に誘い寄せることができよう。
私がまだ自分自身の生活を生活せず、他人の生活がその波の上に私を漂わせていた間は、まだ自身ではそれを表現する力がないけれども、とにかく人生は意義を有するものと信じていた間は、詩や芸術に現されたあらゆる種類の生活反映が、私に喜びをもたらしてくれた。私は芸術という鏡の中で、生活を見ることが楽しかった。
けれども、私が人生の意義を探究し始め、自分自身で生活する必要を感じるようになると、この鏡は私にとって要のない、よけいな、滑稽なものでなければ、苦しいものになってしまったのである」
「人生における喜劇的なもの、悲劇的なもの、感動的なもの、美しいもの、恐ろしいもの、こうした様々な光のたわむれが、私の気休めになってくれた。
けれども、人生が無意味な、恐ろしいものだと知ったとき、鏡に映る光のたわむれも、もはや私を楽しませることができなくなった。死の龍と命の綱をかじるネズミを見ると同時に、いかなる蜜の甘さも、私にとって甘美ではあり得なくなったのである」
念のため言いますと、蜜を舐めたい(欲を満たしたい)のが人間の本性です。

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