知識の重要性
「知識や経験がないほうが偏見がなくいい」と信じ切っている人もいますが、無知が悲惨な結果をもたらすこともあります。たとえば火の怖さを知らなければ、思い切り手を突っ込んで大火傷を負ってしまいます。この場合、無知であることは、偏見が染みつく以上のデメリットです。
仏教の学問を教学といいますが、教学は、日本語のひらがな、英語のアルファベットに相当するものであり、最低限のことは知らなければなりません。
知識のリスク
また、どんな知識にもリスクがあります。
アインシュタインは、「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションである」と言いました。
芥川龍之介は、「より文字の読める文科大学教授は往々、というよりもむしろしばしば、より文字の読めない大学生よりも鑑賞上にはメクラであります」と言いました。
ある番組で、水槽に栗を入れて見抜けるか実験したところ、子供は栗だと見抜いていましたが、大人はウニだと思っていました。
知識は自己を知る手段
人生の目的は死の解決であり、自己を知ることです。
一切の知識は自己を知るための手段でしかありません。
知解は初心者
知識の力で、物事を理解しようとすることを知解といいます。真偽を見極めるために重要なことですが、知解の段階は仏教の初心者です。仏教を学ぶ人は多いですが、深刻な問題として受け止める人は少なく、多くの人が知解の段階で人生を終えていきます。
「合点ゆかずば合点ゆくまで聞きなされ、聞けば合点のゆく教え、合点したのは信ではないぞ、それは知ったの覚えたの」(庄松)
(訳:理解できなければ理解できるまで聞きなさい。聞けば必ず理解できる教えである。しかし、理解したのは信心を獲たということではなく、知った覚えたということである)
行学
行動して学ぶことを行学といいますが、座学よりも行学のほうが重要です。座学だけで聴聞となり自己を知ることができるのであれば、それに越したことはないのですが、大抵の人は座学だけでは頭だけの理解になってしまいます。行学でないと聴聞にならず、自己はとてもわかるものではないのです。
知識がなくても悟りを開いた人はたくさんいます。
本当の大学者
死の解決をした人は仏教のすべてを知った智者です。
逆に、どれほど教学があっても死の解決をしていなければ、仏教を知らない愚者です。
「あながちに、もろもろの聖教を読み、物を知りたりというとも、一念の信心の言われを知らざる人は、いたずらことなりと知るべし」(御文)
「聴聞ということは、なにと意得られて候やらん。ただ耳にききたるばかりは、聴聞にてはなく候。そのゆえは、千万の事を耳にきき候とも、信得候わぬはきかぬにてあるべく候。信をえ候わずは、報土往生はかなうまじく候なり」(一宗意得之事)
「八万の法蔵を知るというとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとい一文不知の尼入道なりというとも、後世をしるを智者とすといえり」(御文)
「聖教よみの聖教よまずあり。聖教よまずの聖教よみあり。一文字もしらぬとも、人に聖教をよませ、聴聞させて、信をとらするは、聖教よまずの聖教よみなり。聖教をばよめども、真実によみもせず、法義もなきは、聖教よみの聖教よまずなり」(御一代記聞書)
痴の巨人で溢れている
ただ仏教を学問として学び、聖教が指さす他力信心を求めないエセ仏教徒はゴマンといます。聖教にちゃんと書いてあるのに、信じられないので、自分が見たいように見てしまうのです。
本願寺3代目、覚如は長子である存覚を、安心を異にしたため勘当しています。存覚といえば、学者という点では覚如を超えるほどの人ですが、根本である信心がなければいたずらごとなのです。
ちなみに、知識だけだったら年を取れば増えるものです。
元東京都知事の石原慎太郎が、文部大臣などを歴任した与謝野馨を、「あのぐらいの年になれば、あのぐらいの識者はたくさんいる」と言って批判していたこともありますが、知識の量で人間の優劣は測れません。人間の優劣は死の解決をしているか否か、ゴールに近いか遠いかで決まります。
また、「知識や経験が豊富であることに越したことはない」と信じ切っている人もいますが、そうとも限りません。
「知識は多い方がよいと、漠然と思っている人が多いだろう。知識を学べば、知識がどんどん積み重なって、徐々に賢くなると思っている人も多いだろう。しかし、そうでもない。新しい知識は古い知識に積み重なるのではなく、古い知識を破壊するのである」(石川幹人/明治大学教授)
東条英機は「ちっぽけな智慧、これが禍いしているのですね。だから、知識人には、信仰に入れないですね」と言っていますが、一面の真理があります。
さらに経典には、「どんなに努力しても人生で知ることができるのは、ほんのわずか一滴の水ほどであり、知ることができないのは大海の水ほどもある」とも説かれています。ほとんどのことは知ることができずに、一生を終えてしまうのです。知識量だけならgoogleやwikipediaのほうが勝っているでしょう。
以上の点をまとめると、「知識」というのは、知らなければならないこととそうではないことの大きく2種類あるといえます。世間には「知の巨人」などと呼ばれる人がいるようですが、死の解決をしなければ「痴の巨人」で終わってしまいます。