謗法罪とは
謗法罪は、仏法を謗る罪です。謗法罪は相対悪である十悪や五逆罪と違い、絶対悪であり、人間が造る最悪の罪です。
・親殺しより重い罪
殺人より重い罪が五逆罪ですが、謗法罪は五逆罪より重い罪です。大恩ある親を殺す罪は非常に重いものですが、親を殺してもせいぜい2人です。
仏法は、死の解決という人間が助かるたった一本の道を説いています。
その道を壊すような行為は、全人類を無間地獄に叩き堕とすことになるため、罪悪が重いのは当然です。
その罪の重さは五逆罪の比ではありません。
誰もが謗法罪を犯している
善知識を謗ることはもちろん、おろそかにするだけでも謗法罪です。
「善知識をおろかに思ひ、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり」(末灯鈔)
(訳:善知識をおろそかにし、謗る者を謗法の者というのである)
「自分が理解できないのは、お釈迦様が出し惜しみしているからだ」と文句を言う弟子もいました。釈迦が死んだ時、「これでやかましいことを言う人はいなくなった。少しは楽ができるぞ」と言った信者もいたといいます。
しかし、心をたずねれば、誰もが形だけ尊び畏まったフリをして、善知識を謗りっぱなしであることがわかります。たとえば善知識の指示に従わなかったり、聴聞しながら他事を思ったり、善知識を軽んじる行為はすべて謗法罪です。
また、仏法を聞いて「今日の話は良かった」などと誉めることも謗法罪になります。誉めるということは評価しているということです。仏法を評価するということは、釈迦より上の立場になっており、いわゆる「上から目線」であり、釈迦に説法している状態です。素人が玄人を批評し、幼稚園児が大学教授を誉めているようなものです。
そして、善知識に近づかないのも謗法罪です。善知識に近づくのは怖いことですが、怖いと思っているのは、自分が不真面目だからです。真面目な求道者であれば、その厳しさが非常に有難く思えます。
「同行・善知識には、能く能く近づくべし。親近せざるは、雑修の失なり」(御一代記聞書)
(訳:善知識には、十分に近づくべきである。親しみ近づかないのは、雑修の失の1つである)
雑修の十三失といって、死の解決ができずにいる求道者には13個の欠点があると説かれますが、その1つに「人我おのづから覆ひて同行善知識に親近せざるが故に」というのがあります。これは、「自分の小さな考えにとらわれて善知識に親しく近づかないから」という意味です。
どうすれば助かるか
謗法罪を造っている人間はどうしたら助かるのでしょうか?
阿弥陀仏は次のような誓いを立てています。
「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」(大無量寿経)
(書き下し:設い我仏を得んに 十方の衆生 至心に信楽して 我が国に生まれんと欲うて乃至十念せん 若し生れずば 正覚を取らじ 唯五逆と正法を誹謗せんことを除かん)
(訳:私が仏になる時、すべての人々が心から信じて、私の国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、仏の命を捨てよう。ただし、五逆の罪を犯した者と謗法の罪を犯した者は除く)
・唯除五逆誹謗正法
この言葉の真意について、親鸞は次のように説明しています。
「唯除というは、ただのぞくということばなり。五逆のつみびとをきらい、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべし、としらせんとなり」(尊号真像銘文)
(訳:唯除とは、ただ除くという言葉である。五逆罪を犯した極悪人を嫌い、仏法を謗る罪の重さを知らせようとされているのである。この2つの罪の重さを示して、すべての人々が皆もれずに往生できるということを知らせようとされているのである)
親は子供が悪いことをすれば厳しく叱りつけ、あまりに酷ければ「家から出てけ!」と怒鳴ることでしょう。しかし、このように厳しくする親の真意は、本当に家から出ていってほしいのではなく、子供に自分の過ちを反省させることにあります。悪いことしているのに、「あなたは悪くないよ」などと甘やかしていれば教育になりません。
このように、五逆罪と謗法罪という重い罪悪を造っている極悪人であることを自覚させて救おうとするのが、この言葉の真意です。別の言い方をすれば、極悪人の自覚ができれば他力が働き救われますが、自覚できなければ救われないということです。