宿善とは
宿善とは、宿世の善業の略です。宿世とは過去世のことで、過去に行った善行為を宿善といいます。善業とは善い業ということですが、業についてはこちらで詳しく説明しています。
宿善の重要性
宿善は、求道者のレベルを図るバロメーターのようなものです。
・宿善まかせ
「宿善まかせ」といわれるくらい、宿善は重要です。なぜなら、真実の仏教に遇えるか否かも、死の解決ができるか否かも、すべては宿善によるからです。つまり、宿善があれば死の解決ができますが、宿善がなければ死の解決はできないということです。宿善がないというのは絶望的なことなのです。
「無宿善の機に至りては力及ばず」(御文)
(訳:宿善の無い人間は救われない)
「弥陀に帰命すというも、信心獲得すというも、宿善にあらずということなし」(御文)
(訳:阿弥陀仏に帰命するというのも、信心を獲得するというのも、宿善によるのである)
「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」(御文)
(訳:どんな経典や聖教を見ても、宿善に勝るものはないと書かれている)
・宿善のない人は救い難い
「縁無き衆生は度し難し」という諺があるように、仏縁(宿善)の無い人間は救い難いのです。たとえば、アフリカの奥地に住んでいる人などは、救うことも後回しになってしまいます。このように、仏教を聞くことができない難に八つあり八難といいますが、これらはすべて教えるほうではなく、求めるほうに原因があるのです。
・求道は宿善を積む道
宿善は増やすことができ、「宿善を積む」とか「宿善を厚くする」と表現されます。求道は宿善を積む道であり、すべての行為は宿善を積むためにあります。宿善はじっと待っていても積まれないため、自ら努力して求める必要があります。世間では、名利を手に入れることが進歩の基準となったりしますが、求道においては宿善が進歩の基準となります。
「五重の義」といって、死の解決には5つのものが必要ですが、1番最初に宿善が説かれています。
「これによりて五重の義をたてたり。一には宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義成就せずは、往生は叶うべからずと見えたり」(御文)
これはつまり、宿善が1番重要だということです。
宿善の種類
宿善には、大きく2種類あります。
・汎爾の宿善
過去世において、阿弥陀仏に心をかけずにやってきた善をいいます。
・係念の宿善
過去世において、阿弥陀仏一仏に心をかけてやってきた善をいいます。宿善といった場合、通常は係念の宿善を指します。人間のする善はすべて雑毒の善ですが、その毒を係念の宿善と変える力が阿弥陀仏の他力にはあります。
係念の宿善は、死の解決をするために絶対に必要な宿善です。ですので、雑毒の善であっても一生懸命善をすることが大切なのです。「雑毒の善なのだから、しないほうが楽だし、やらないでいよう」などと思うのは間違いです。仏教は、善を一生懸命している人に対して「いい格好するな」と言い、善をしていない人に対して「もっといいことしろ」と言う教えです。
宿善の特徴
宿善の特徴をいくつか挙げます。
・蓄積する
宿善は蓄積され、過去世から引き継がれます。肉体は消えても宿善は消えません。たとえるなら貯金通帳のようなものです。新しい通帳になっても、中身である残高は引き継がれます。肉体が生まれ変わっても、中身である宿善は引き継がれるのです。
・満杯になる
宿善は、コップに水を注ぐように満杯になる瞬間があります。これを宿善開発といいます。宿善開発という言葉は、色んな場面で使われ、単に「開く」ともいわれます。
善知識に遇った時に使われることもあります。
「宿善開発して善知識に遇わずは、往生は叶うべからざるなり」(御文)
(訳:宿善開発して善知識に遇えなければ、往生は叶わない)
また、後生に驚きが立った時にも使われますし、死の解決をした時にも使われます。
他にも様々な特徴がありますが、宿善は業ですので、業についていえることはすべて宿善にもいえます。
宿善の有無
宿善の有る人と無い人とではまったく別の生物といっていいくらい、宿善は人間の根幹的なものです。
・ある程度わかる
心の問題である以上、何かしらの形になって表れます。たとえば仏法を尊く思ったり、死後の有無を論じたりといった具合です。
「宿善の厚きものは、今生にも善根を修し悪業をおそる。宿善少なきものは、今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は、今生の有様にて明らかに知りぬべし」(唯信鈔)
(訳:宿善が厚い人は、今生でも善を行い悪を恐れる。宿善が薄い人は、今生に悪を好み善をしない。宿業の善悪は、今生の有様を見ることで明らかになると知るべきである)
「よきこころのおこるも、宿善のもよおすゆえなり。悪事のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえなり」(歎異抄)
(訳:善をしようと思うのも宿善があるからである。悪を造ろうと思うのも悪業があるからである)
釈迦が普通の人と違うことは、誰が見ても明らかでしょう。1回の聴聞でゴールした人もいれば、何十年経ってもゴールできない人もいます。わかる人は3歳でも仏教がわかりますが、わからない人は100歳でもわかりません。このような差は宿善で説明できます。他の心の問題同様、将来的には宿善も数値で表すことができるようになるかもしれません。
・見分け難い
その一方で、心の問題である以上、難しい面もあります。仏教を聞きそうにない人が聞いたり、聞きそうな人が聞かなかったりするものです。
今、仏教を聞いてないからといって、その人に宿善がないとは限りません。また、仏教を聞いている人の中には、「聞いてない人より自分は宿善がある」と誇っている人もいますが、そうとも限りません。
たとえば、20歳で仏教を聞き始めて30年間求道し、50歳になっても死の解決ができない人がいるとします。また、49歳で仏教を聞き始めて1年間求道し、50歳で死の解決ができた人がいるとします。人生全体で俯瞰すれば、最終的には後者が早く宿善開発したということになります。
・頓機と漸機
宿善の厚い人を頓機、薄い人を漸機ともいいます。頓機は、火をつけるとボッっとすぐ燃える枯松葉のようなもので、漸機は、火をつけても燃えにくい青松葉のようなものです。
「陽気をうくる花は、早く開くなり。陰気とて、日陰の花は、遅く咲くなり。かように、宿善も遅速あり。されば、已・今・当の往生あり。弥陀の光明にあいて、早く開くる人もあり。遅く開くる人もあり」(御一代記聞書)
(訳:日向の花は早く開くが、日陰の花は遅く咲くように、宿善も遅い速いがある。こういうわけで、すでに往生した者、今往生する者、これから往生する者といった違いがある。阿弥陀仏の光明を受け、宿善が早く開ける人もいれば遅く開ける人もいるのである)
頓機はほとんどおらず、仏教の歴史を見ても非常に少ないです。あくまで1つの目安ですが、「石の上にも三年」といった諺や、1万時間の法則(ある分野で達人というレベルに達するには1万時間の練習量が必要だとするもの)等を考慮すれば、求道を始めて3年以内にゴールできれば頓機といえるのではないでしょうか。
ほとんどの人は漸機です。ですので、漸機であることを素直に認め、謙虚に宿善を積む心がけが大切です。そうすれば、やがて頓機のように宿善を厚くすることができます。科学でも、性格などの心理的傾向性について、生得的割合は4割から5割程度で、残りは後天的な経験の寄与によることがわかっているようなので、宿善がないからといって絶望する必要はありません。もっとも、宿善がない人は焦りさえせず、だから絶望的なのですが。